第20話 T女子私立高校バスケット部


   (1)スカウト 「1」
  昭和53年の冬のある日、県大会2連覇の中心選手だった双子の姉妹が職員室の私の所へやってきて曰く「T高校の先生が家へ来て私たちをスカウトに来たよ」と。T高校は市内にあって彼女たちの家から近距離だった。私はそれを聞いて驚いた。彼女たちは星城高校へ特待で行くことに決まっていたから。そしてT高校バスケ部はもっとも弱いチームだったから。 星城高校へは過去に一人も進学していなかった(遠距離)。2,3度練習にお邪魔していた関係で 話はまとまっていた。  少し星城高校について記述します。この時の監督は本田先生で若い神谷先生が手伝っておられた。本田先生は九州の有名な私立高校(ちょっと名前を忘れました)でバスケを指導して見えたが、新井先生(当時市邨短大・・現名経大)に刺激されてかバスケのために愛知に来られたようだ。数名の九州地区の中学出身者と下宿して見えた。指導は実に綿密でいろいろ教えていただいた。チームが強くなり始めたとき病にかかられ学校を去られたと聞く。その後神谷先生がチームを継がれあのシャンソンの村上選手を率い、名短高校とインタハイで優勝戦を争い準優勝を勝ち得たことは有名な話である。  話はスカウトに戻って 私はT高校に抗議した。「普通スカウトには最初中学に来るべきではないか。どんな名門校の監督でも顧問のところへ来られる。まして彼女たちはすでに進学先は決まっている」と。  すると理事長の秘書から電話で「理事長が是非先生にお詫びとお願いに参上したい」と言ってきた。一校の理事長が拙宅に来られても気の毒と思って私が学園に赴いた。

   (2)スカウト 「2」
  理事長は積極的だった。しっかりしたコーチが欲しいと言う。一応こころあたりに当たって見ると約束。特待生として6人が集まった。私のチームの子を除いてはあまり能力は高くなかった。また理事長宅の一角の部屋を改造して寮にして全員合宿させることになった。私は寮生活は選手募集にマイナスと思っていたが、そこまでは口を出せなかった。それほど理事長は燃えていた。  理事長が私に豪語した「先生あの子たちが3年先には必ずインターハイで活躍させますよ」と。私は答えた「先生それは無理ですよ、愛知県を征服するだけでも大変ですよ。名女商あり、安城あり、高蔵あり。私は双子姉妹はこの学校のバスケが大活躍するための捨て石になってくれればよい、彼女たちもその覚悟で入学したはず。焦らずに支援してやって欲しい。天下は広いですよ。日本一になるにはそれはそれは遠い遠い道のりです。この写真を見て下さい。これが今日本一のチームですよ。大阪の樟蔭東高校であり監督原田先生ですよ。(たまたま持っていた月刊バスケットに掲載されていた大きな写真)」。  理事長しばらく黙って写真に見入っていた。突然「この原田もしかしたら日体大の同級生の原田かも知れない。早速電話で確かめます」。  2,3日して理事長から電話「矢っ張り同級生だった。早速大阪へ行って彼と会うことにした。先生も同乗して下さい」。日曜日理事長、バスケ部監督、私と3人が理事長の高級車で一路大阪へ向かった。

   (3)原田茂監督のもとへ
 樟蔭東高校へ到着した。体育館では短大生がバスケの指導を受けていた。見学者も数人来ておられた。理事長と何年ぶりかの再開である。早速寮の方へ案内してもらった。寮は大きな民家で家主の特別な好意で提供されていたそう。一人の高校生がコヒーを持ってきた。どういう訳か盆に乗ったカップがカタカタと音をたてていた。原田先生が笑って「彼女は緊張して震えているのだ」と言われた。ちょうど食事時で覗いたら全員左手で食事をしているのを見て驚いた。先生はこんなことも言っておられた。「彼女たち、私が進めと言ったら、たとい前に池があってもそのまま中に入っていくよ」と。恐るべき自信、これくらいでないと日本一にはなれないのか?夜クラブへ案内してもらった。ここは大阪のスポーツ関係のトップレベルの人が入る所だと説明あり、世界選手権優勝監督とか、全国優勝常連者が集うと言っておられた。また場所は分からなかったが繁華街のお店で夕飯をいただいた。何故か町には防弾チョッキを着た警官が立っていた。  宿泊は先生の家に泊めていただいた。こんなことも言っておられた。「たまに家へ帰ったら、子供がこの人誰?と母親に尋ねたのには衝撃を受けた」と。  翌日何かの大会があったのでそれを見学した。松蔭東の選手の見学態度にはびっくり。階上の手すりにみんな手をかけ私語もなく整然とゲームを注目していた。他の学校はがやがや喋って思い思いの格好で行動していた。流石日本一は違うと思いつつも果たしてここまでする必要があるか疑問でもあった。  これをきっかけに樟蔭東とT高校との交流が始まり原田先生の支援を受けることになった。

   (4)チームの様子
 わたしの紹介した監督が他県での就職を辞め高校に採用された。しばらくして尾張地区で頭角を現してきた。1年ほど経ったら突然監督が解雇され樟蔭短大のアシスタントコーチをしていたH先生が原田先生の関係で赴任された。このH先生は空手の有名選手だったとのこと。部員との関係があまりよくなかった様子。すると今度はT先生が松蔭東から来て監督となられた。長身の白皙の青年だった。日体大でインカレ優勝の時の選手で温厚な人柄であった。この監督人事の目まぐるしい動きには私は全くノータッチだった。焦る理事長の強引な采配だった。  チームは年々強くなり県大会でも1・2回戦あたりまで進出するようになっていた。韓国の高校に夏休みなどかなりの期間合同練習にも行くようになっていた。当時井上先生率いる日本1の守山中と韓国の姉妹校の中学生との試合を主催したり、名短と韓国高校とのゲームを学校で催したりと、盛んに行事を行っていた。中学生も高校生も韓国の方が力は上だった。  こんな頃T先生が我が家に相談に来られた。「最近韓国人のコーチがやってきて私の仕事がない」と。このプロコーチも原田先生の紹介のようだ。「名短に勝つには日本のコーチではダメだ。」こんな発想らしい。辛抱するようにと宥めた。(このプロコーチ井上先生と中川シャンソン監督の監修でバスケの本を出版していたのを後日本屋で見つけた。)  紆余曲折はあったがT高はT監督の適切な指導でめきめき実力をつけ遂にインタハイ県予選を名短に続いて突破した。月刊バスケットにも初出場高として注目されるチームと批評が出ていた。

   (5)大事件
 インターハイ初出場で学校は大喜びであった。初めて校舎に大きな祝出場の大きな垂れ幕が下がった。そして名古屋で盛大な壮行会が催された。私も招待状をもらい参加した。県のバスケ関係のお歴お歴が出席しておられた。突然私が祝辞を述べる羽目になって恐縮だった。  こんな華やかな雰囲気の中にこの不幸が起こった。  私が男子チームを連れて午後練習に訪れていた。練習試合の最中若い先生がT監督を呼びに来た。監督無しでゲームを続けていた。するとまた若い先生がやってきて「申し訳ないが都合が悪くなったから中止してお帰り下さい」と言われた。何のことかさっぱり分からず引き上げることにした。玄関まで出てきたら2人のガードマンらしい人が急いで入ってきた。何だろうと思いながら帰宅した。  家でテレビを見ていたら6時のニュースで「T女子高校バスケット部員が急死した」と報じた。するとあのガードマンは警官だったのか。でもどうして・・・。そういえばゲーム前の練習中突然”やらしてください”と絶叫した生徒を2人のチームメートが両側から支えながら体育館に現れた場面があった。何がなんだか分からなかった。後から少し事情が聞こえてきた。実は午前中市内の中学の男子が練習試合に来ていた。そこでその部員が強く叱責されゲーム出場を停止されたようだ。それで午後の私のチームとのゲームに出してくれと監督に訴えていたようだ。異常な興奮、ヒステリックな感情の激しさのためか心臓麻痺が起こったようだ。これらは私の推測だがインターハイ出場直前の事件、学校、生徒、家庭に及ぼした影響はいかばかりだったか想像もできない。 この事件から理事長のバスケ部及び監督に対する気持ちに変化が起きたようだ。

   (6)バスケット部崩壊
 ある時T高校のバスケ部員の父親が我が家に来られた。この部員は私が定年退職した時2年生の部員だった。父親は「実はT監督が退職される。それで希望の者はバスケの名門岐阜女子高校への転学の手続きをしますと言われた。そこで先生の意見を聞きたい」と言われた。これには驚いた。最悪の状態だ。  そのころ理事長の考えは変わってきていた。勿論死亡事故もその要因の一つだが。学校ではボーリング部、ゴルフ部、射撃部などが創部され成績が上がってきた。直ぐ県トップになれる。全国大会でも上位になり、新聞や市の広報でもデカデカ記事が出る。バスケなどいかに力を注いでも県のトップどころかインターハイにも簡単に出場できない。バスケのために校舎を造り体育館や合宿寮まで新築してきたのに、完全撤退である。転校した生徒、残った生徒とチームは弱体化した。教え子は残留し細々部を続けた。T監督は学校を去り大阪あたりの高校で手伝ったあと、福岡の高校に監督になったと葉書をいただいた。その後名古屋の有名実業団のコーチをしているとの噂を聞いたが、テレビの放映で見てもコーチは違っていた。とても優れた指導者でその人柄に惚れ込んでいた私は彼の行く末が心配だった。ごく最近知人の監督が遠征したおり、T 先生生まれた県の高校で元気にやってみえると聞いて一安心した。  このT高校に若い体育教師が採用されバスケ強化に現在努力中である。県6位前後で頑張っている。この部の指導に週2日程ボランテア的にコーチに来ていた若い方が、4月からシャンソンのコーチに招かれたと聞いた。その大成を 祈る。私は未だにT高校にたまに顔を出し部員たちにエールをおくっている。

   (7)驚き
 3月25日の中日新聞にこんな記事が出ていた。 原田氏が理事辞任  私立松蔭東短大(大阪府東大阪市)バスケットボール部で数千万円の使途不明金が発生している問題で、同部監督の原田茂氏(58)が、日本バスケットボール協会理事と強化本部長を辞任することが24日、同協会臨時理事会で決まった。  同協会によると、原田氏は18日の臨時理事会と評議員会で、使途不明金への関与を強く否定した上で「道義上、監督としての責任を感じる」などと謝罪した。  あのお世話になった原田監督の記事にビックリした。2,3日後息子が来たとき「週刊ポストに原田氏のことが載っているよ」と言った。早速近くのサークルKにいって立ち読みをするが、前の週らしく載っていない。隣の信用金庫へ行く。ここに前の週刊ポストがあった。かなり過激に書かれている。実名は書いてなかった。何かコーチとのトラブルらしい。裁判沙汰のようだ。後日バスケットボール・マガジンに原田ゼミの論文中止の理由として争議の様子が説明してあった。  高校、短大を通じて素晴らしい実績を残し、日本のバスケの発展に寄与しておられた方がこのような醜聞の中におられることは、かって監督の家にまで泊めていただいた私にとってとても残念なことである。一日も早く霧が晴れ再びバスケット界の先達として活躍されることを希求している。