第22話  15年ぶり・・再び村の中学校へ


 昭和58年4月、かって14年間勤務した思い出多きT中学へ教務主任として舞い戻った。入学式前日の準備の会場づくりの時(私はまだ生徒には挨拶はしていなかった)、生徒会長に「君は字は何処」と聞いたら「山路です」と答えた。「山路にはこんな名前の子が昔いた」と言ったら、「それはぼくのお父さんです」と答えた。確かに教え子の子供たちがいっぱいいた。
 小さい学校で職員が足らない。バスケ部男子の顧問を頼まれた。S中で引退したのに、O中で新任のW先生のお手伝いを、そして今度は教え子の子供たちのために一線に立つ。   ある年度新入部員の募集で、一人の肢体に問題のある子が入部を希望してきた。彼は右手首が生まれつきなかった。母親が妊娠中飲んだ薬のせいで異常出産をしたそうだ。父親は私の教え子だった。いちおうK男とよぶ。K男を職員室に呼んで説得した。「バスケは無理だから庭球部にでも入ったらどうか。」「僕は小学校の時から中学ではバスケをやるつもりで入学しました。どうしても入部したい」と。何と言っても断固として承諾しない。諦めて入部を認めた。
 彼は靴ひももうまく結ぶ。自転車通学である。習字なんかも左手でうまく書く。成績は優等生。身長は細身ながら高かった。
 しかし何と言ってもボールのキャッチがうまくできない。ましてスピードのあるボールは至難だ。夏休みの練習はどの生徒も大変だった。なかでも体育館の天井から下がった綱(登るための)での体力づくりは可哀想だった。彼だけは登れない。しかし私は叱咤激励した「もしライオンが下に来たらどうする、食われてもよいか。」K男は必死に綱を登り始めた。
 彼はセンターでスタートメンバーだった。ある時隣の中学へ練習試合に行った時、たまたま見に来られた校長さんがいたく感動し、翌日の朝礼で彼を賞賛されたと聞く。最後の大会で僅少差で敗れる寸前、彼が必死のオフェンスリバンドで4点も奇跡的に得点し勝利をものにして、男子バスケ部開設初めての第3位の賞状を獲得したのは、以前県で女子の優勝をした時の喜びを超える感激だった。
 彼は高校でやはりバスケを、国立大ではアメフトをやったと聞く。母親がガールフレンドができたと喜んでいた。今は公務員として勤務している。もう結婚しただろうか。彼も忘れえぬ教え子の一人だ。