第23話 ミニバスケ創設の前後


(1)

 昭和64年の年の初め私はいよいよ退職近し、何をして暮らそうか考えていた。私に何ができる。親父は学歴もない一商人だったが、市に青色申告会を組織しそれを永年育成した。私も何か世間に尽くしたい。バスケしかない。村のT中は前後20年勤務した。娘もこの村に嫁いだ。生まれ育った市より馴染みが深い。また県よりスポーツ功労者としてバスケ部門でただ一人表彰された。実業団、大学、高校、中学、ミニと広範囲のなかで自分一人なのを新聞で見て驚いた。私の功績よりも過分な評価に申し訳ない思いがしていた。村の恩恵、表彰の重みに少しでも報いるため、バスケをとおして社会に貢献しようと決心した。
 村に南部小学校と北部小学校があり、南部小で先生によるミニバスケが組織されていた。児童数減少と小規模校でチームが弱いので北部小にも募集を広げようとしていた。学校長の許可なく募集の用紙を配っていたことが判明し、校長の激怒でビラを回収しそのもくろみは断絶していた。
 こんな事情を知った私は村一本でミニを組織することを考えた。村役場の教育委員会を動かし、スポーツ少年団を先生たちと設立することにした。勿論両小学校長には了解を得全面的な支援を約した。


(2)

 村には総合体育館があったが床が板張りでなく、コートもなく壁に小さなリングがついているだけでバスケの練習に適しなかった。総合体育館があるとて学校の体育館の一般の使用は厳禁だった。そこで教育委員の家を訪問した。教育委員長は旧制中学の同級生、教育委員は1年先輩、教育長は昵懇の方だった。私が学校の体育館を使用するのを特別に許可してくれた。
 南部小はすでにメンバーがいるので、早速北部小での募集を始めた。学校から名簿を借り教え子を捜し、娘さんの入部を勧誘した。家庭訪問もした。練習日は木曜夜で中学の体育館に南・北小の子が一堂に会した。土曜日午後は両小学校で別々に。この土曜日が大変だった。高校3年生の教え子Aさん(女性)が手伝ってくれた。北部で指導を始めた後Aさんに後を頼み南部小へと走った。本当に産みの苦しみを味わった。後には学校を毎回交代にして行ったが、自転車で集まるのが遠距離で子供たちは難儀だった。
 そんなおり総合体育館の床の大改築の話が聞こえてきた。板張りにするそうだ。直ぐに役場に乗り込んだ。教育課の課長、総務課長、助役(皆教え子)にミニバスケができる施設を設置してくれと頼んだ。お陰でコート、リングが完成し土曜日は南北小共に練習できるようになった。
 コーチ陣も男女教え子が段々集まり父母の会も組織され一応の格好がついてきた。  1年を経て私がバスケを10年指導し多くの成果を挙げれたO町にも、ミニバスケを開設した。この時は中学校長に相談に行き、その方の骨折りで順調に部員募集ができ発足できた。