第24話 バスケ以前 体操部創立


 昭和29年4月、小学校4年勤務後,村の中学T中に赴任し驚いた。グランドが無く大きな池があった。校舎前 10m程しか土がない。木曽川の堤防補強のため校庭の土を3mほど掘って運んでしまったのである。赴任後、掘られた場所へは木曽川の川底の砂をサンドポンプで送って埋め、ついでに元の校庭の前にあった池も同時に埋め、その上に東側の校庭を掘った土をトロッコで運び砂の上に乗せ運動場ができた。吾々が生徒と共に土を足で踏んでグランドづくりをした。
校庭の東には幅50m余の川が流れていた。校舎前の狭い土の上を水泳部員が赤の褌をして堂々と闊歩していた。クラブと言えばこの水泳部のみが東側の鵜戸川で練習しており、県の1位を中京中と争っていた。当時平泳ぎ、自由形で全校1位の少年が2人いた。(この時代プールは何処にもなく郡内ではK中に水泳部があり池で練習していただけ)
郡市大会は種目も少なく、試合前に臨時に選手を集め特訓して参加していた。他校も大体同じ状態だった(運動能力の高い子は何種目かに出場)。当時体育主任だった私は(そのころは正規の体育免許状所有者無し、先輩教師は戦後2教科の好きな免許状を授与されていた。)運動場がないため私は狭い場所でもやれるもの、と言う考えで体操部を創立した。まず郡No.1の南陽中学(現在名古屋市)から男女1名を招いて、模範演技を全校生徒に見せた。教室兼講堂の部屋で。華麗な演技に生徒たちは驚嘆した。
 これが先鞭となって卓球部、庭球部、バレー部と組織化されていった。しかし当初は授業が終わると生徒たちはクラブをやらず帰る子が多かった。家の農業を手伝うために。私は校門に立って帰ろうとする生徒を引き留めたものだ。 この年の郡市の陸上競技大会でメンバーを選んでびっくり。男子3年生で百m14秒5ぐらい。大会でも0点。女子走り高跳びで2位がひとりのみ。
グランドがないとこんなにも体力は低下してしまうものだ。翌年女子2位、次の年優勝。以後T中が各部で大活躍する時代が始まる。体操部も大躍進し男女での優勝が続く。