第26話 痛恨の教え子 中野充君 昭和33年卒


 勉強は良くできたが勉強家ではなかった。スポーツは万能で水泳、相撲、ハンドボールの試合で大活躍、県トップの水泳部に助っ人にいくのだからたいしたもの。人望家で誰からも「充ちゃん、充ちゃん」と慕われていた。
勿論体操部主将。胸幅広く頑健な体格。父親は名古屋市の小学校長、母親は元教師、兄は光(あきら)君でこの頃は東京文理大を卒業して桐朋小学校教師(後、金沢大、和光大、立教大教授で退職)で私の旧制中学の同級生だった。 彼は持ち前の運動能力を持っており、高鉄棒、跳び箱、徒手体操で難度の高い技をマスターしていた。真夏の郡市大会が市の中学校で行われた。勿論会場は運動場である。
 充が高鉄棒で逆車輪に入った。見事な演技でうっとり見とれていた。突然彼が視界から消えた。はるかマットの向こうにうつぶせに倒れているではないか。汗で手が滑って飛んだのである。あげた顔から鮮血がほとばしった。鼻血である。たまたま帰省していた兄の光君は、弟の勇姿を撮さんとカメラを向けていてレンズから消えた弟にびっくりした。 保健室で休養の後残りの種目を続けた。鉄棒の減点はあったが個人総合優勝を獲得した。他の仲間も頑張って総合団体優勝できた。
充は地元の県立高校に入学と同時に、前年私の小学校時代の教え子が中心で創った体操部に、クラブ仲間の伊藤峰夫と共に入部。後愛知教育大体育科に進学やはり体操部に入る。ところが風邪をひいているのを無理して大会に参加し、腎臓病に冒された。入院、以後死線をさまよい大学中退、手術後長期療養、透析しつつ結婚、男児をもうけたところでこの世を去る。私が体操の魅力を教えたばっかりに寿命を縮めたのではないかと悔やまれた。  もし無事健康で大学を出ていたら、どんな素晴らしい教師が生まれたかと思われて仕方がない。私が多く育てた部員の中で彼だけが悲しい思い出として何年も心にひっかっかっていた。彼の死後母と子は実家のある四国へ帰ったとのこと。
 話変わって平成6年のある日一通の封書が届いた。裏を見ると長野発で見知らぬ名前が書かれていた。怪訝な気持ちで封を切ると便せんと一葉の写真が出てきた。写真には一人の若者が写っていた。全く未知の人物だ。間違いの手紙かと表を見るがまさしく私宛だ。急いで便せんを読む。「・・・・私は中野充の遺児です。今信州大学教育学部体育科の生徒です。父の夢を継ぐため勉強中です・・・・・。」ビックリしました。そして嬉しかった。胸のつかえが消えた。そして救われた想いがした。早速古いアルバムを取り出し、彼の父の中学時代の鉄棒や跳び箱での活躍のスナップ写真を、取り外し送ってあげた。
昨年同窓会で会った充の兄(東京から参加)から、遺児は現在長野で教員になり頑張っておると聞き、喜ぶと同時に亡き充の冥福を祈った。