第27話 最後になった駅伝の優勝 32年


 (今昔物語もあと3話で終わります。HP開設当初お世話になった一部のHPに連載していました。以後リンクいただいたHPも20ケ所をこえました。終幕をひかえ全リンクの皆様に拙稿を送信いたします。何か自慢話じみて恐縮ですが、一介の教師が健康的な不安を抱きつつも、またなんら専門知識、技能も欠如していながら、不思議にも数々の記録を子供たちから与えられました。私にさえできたこと皆さんならより可能だと信じます。勝利への道いまだに良く分かりません。ほんの少しでも参考になれば嬉しいなあと思っています。)
 昭和29年赴任の年、体育主任として駅伝の指導に当たった。前年18校中10位以下だったそう。頑張って第6位、翌年第4位、3年目は3年生担任のため主任を交代したので駅伝指導はしなかった。順位は再び大きく後退した。そして私としては3度目の挑戦、朝、昼、帰りと練習させた(昼は4時限後直ぐに)。郡内を一周する大規模の大会で、各中学校は自分の町村を通過するので激しい練習をしていた。
 私の学校は小さな村の中学だったので、3年生5名、2年生3名、1年生2名の陣容だった。駅伝は第1走者が勝負である。日本3大川祭り(昔、織田信長も見た)のある公園から隣町の西保までが第1区でここを水泳部の2年生杉村を当てていた。
 ところが1週間ほど前、杉村の父親が来校出場できないと言う。足の甲が腫れあがっているため。オーバーワークである。一応彼に最短距離の地区を割り当て休養させた。今回は相当上位にいけるとは予想していたが、まさかテープを切るとは誰しも考えなかった。石田先生が最終ランナーに飛びついていったとのこと。私は自転車で7区の選手を田圃の藁の山の所で声援していた。現在と違って各町や市では大規模校がいくつかあって(後年学校分割が何校かあった)、小さな村の優勝は快挙であった。PTAが村の人々を沢山集めて盛大な祝賀会を催してくれた。校舎内で村人と酒を飲み明かした想い出は未だに記憶に残っている。よい時代だった。
初期の駅伝は2月頃あった。入学試験も間近に控え3年生は大変だった。
(進学者は少なかったが、補習もかなりの時間やっていた。)今から思うと想像できない。後12月になった。自動車もない時代、父親の何人かが百姓着のまま隠れて伴走したものである。
 私たち中学の優勝が新聞の地方版に写真入りで大きく報道された(テープを切った場面とチーム全員と私たち教師)。今まで数多くの優勝をさせてもらったが、私を含めて新聞に掲載されたのはこれが初めてで最後だった。
足を痛めながら完走した杉村は、体育教師としてS中に奉職、一時私と一緒に勤務した。現在小学校の教頭をしている。県の水泳関係の幹部である。
 翌年伊勢湾台風で大きな被害が出て駅伝は中止となった。それから何十年か経って長距離継走と名付けて、南部地方の村の堤を利用してトラックのように回走する形式で現在行われている。後に再びこの中学に戻ったが、最後になった駅伝の優勝旗は何処を探しても無かった。校舎建築のおりにでも行方不明になったのかも知れない。