第30話 地獄より天国へ


(1)

昭和39年の夏私は河口湖畔のある修養所の錬成会に参加していた。胃の調子が悪く医者にかかっても一向快復せず、体重も激減して精神的にも参っていたので、決心して15日間の錬成に加わっていた。ある日の作業の帰り受付で一枚の紙片を渡された。
 「セツ カツ 143 キトク」の電話電報のメモであった。一瞬血の気が去った。「セツ(節子)・実姉、カツ(勝・・・私の名前)、143(血圧)、キトク(危篤)」と読みとった。(姉の節子が血圧145で危篤だ・・勝へ)
しばらくして、待てよ血圧145はそんなに大変なのかしら(当時は血圧に関心なく社会的にも余り問題化してなかった)。今一度走り書きを見直した。キトクではないぞ?クの横にに点があるぞ。キトク・・・でなくキトウ・・鬼頭校長、するとセツは節・・鶴見節、143は県大会走り高跳びの新記録。そう言えば今日は陸上の県大会だったのだ。「鶴見節 勝つ 143 鬼頭」優勝したのだ。今度は喜びが体一杯に広がった。
永い教員生活、数え切れない各種大会でたった1回だけ選手に付き添えなかったのはこの岡崎での大会だけでした。体育主任の 河原先生に引率を頼んで私は河口湖に来ていたのです。



(2)

 鶴見節(キャプテン)について今少し事情を説明しよう。
 尾西大会の予選を兼ねる郡市大会で彼女は走り高跳びで140cmの新記録で優勝した。(節は前年80mハードルで郡市大会、尾西大会で優勝していたが、素質的に走力がないので走り高跳びに転向させていた。)その後直ぐに、400mリレーの決勝があった。彼女は第一走者だった。第1コーナーで彼女突然遅れ始めた。片足で走っているではないか。S中学の選手にスパイクされたのだ。鮮血をほとばらして次の走者にバトンを・・・・。直ちに病院へ。踵の部分を七針縫う重傷、帰路彼女宅に優勝旗を持って見舞いに。
県大会出場をも決める尾西大会まで後二週間しかない。どうしても出場したいと言う。「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始まりなり」と古い諺を出して諦めるよう説得する。しかし彼女は納得しない。やむなく「医者の許可を得たら出場させる」と約束する。翌日彼女嬉しそうな顔をして職員室へ。「お医者さんは、ハイジャンプはつま先で跳ぶのですね。それなら良いよ」と許可をもらったと言う。つま先だけでなく踵も使うが・・。よしやってみようと許可をする。
いよいよ大会当日、未だ抜糸はしていない。ぶっつけ本番の試技。軽い柔軟だけだ。勿論スパイクは履かない。125cmまでパスさせる。127cm3回目に辛うじて跳び越え第5位で県大会の出場権を得る。再び静養につとめる。



(3)

 県大会の模様
 私が付き添えなかったので体育主任の先生に付き添ってもらった。後日伺った話。
 節はスパイクなしで140cmを3回目に辛うじて跳んだそう。その段階で第3位、バーは上がって143cm 、3人とも2回落とす。節突然スパイクを履くという。でも彼女スパイク恐怖症になって持参してなかった。観覧席に走ってきて「誰かスパイクを貸して」と叫んだ。たまたま2年生の子のが足にあったのでそれを借り跳躍場に戻った。最後の跳躍「跳んだ跳んだ」新記録で、体育主任初め仲間たちが飛び上がって喜んだ。尾西大会でギリギリ出場権を得た彼女が晴れの舞台で奇跡的跳躍をしたとは、はるか富士山麓にて修練しつつあった私には夢のような出来事だった。「セツ143カツキトウ」の電報はまさに驚天動地の出来事として記憶に残る思い出である。
 節は地元の高校に入っては体操部に属した。後教育大を出て教師の道を歩んでいる。今年4月直ぐ近くの中学に転任してきた。もうかなりの年齢だ。52歳ぐらい。彼女が県大会ハイジャンプの覇者だったことを知る人も殆どいないようである。彼女はあまりその記録については語っていないようである。