第7話 監督3年目

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  165cm以上3人(そのうち一人は170cm)当時としては大型チーム。「黒い弾丸チーム」と県大会の会場で言われていたようだ。さもあらん我がチームは他チームの色白に比べて、全員真っ黒に日焼けしていたのである。年中外のコートを走り回っていたからです。夏休みの練習は毎日午後3時過ぎからである。夕方が一番能率があがった。練習の始めはコートの散水から。途中でも何回か散水。また石拾いも日課であった。練習後は必ずトンボとローラーを引かせた。2・3年に1度赤土を1車入れたスコップで一輪車へ、そしてコートへ、それをみんなでならして足で固める。続いてローラーをかける。ダストンとか呼ばれた薬品を散布。一輪車でいっぱいの土を運ぶのは子供たちにとってなかなかの重労働だった。ローラーも重かった。バスケ以前の仕事が多かった。しかしそれらが彼女たちを鍛えたと思う。ある真冬珍しく積雪が30cmほどあった。グランドの全てのクラブは中止していた。でも私は練習すると断言。全員で除雪作業をさせた。その後直ちに練習開始。彼女たちは厳しい伊吹颪のなかで真っ赤な手をして走り回った。しばらくするとコートの周囲から雪が解けて水が徐々に浸みこんできた。今テレビで福島の積雪のニュースを報じていた。それを聞きながら昔昔のあの除雪作業を思い起こし、あの子供たちの今の幸せを祈った。

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  今年こそ県優勝だ。それには武者修行が必要だ。どこか高校で教えてもらおう。当時高蔵高校、安城高校、名女商高校が県のトップレベルだった。交通の便がいい高蔵高校(この頃商業高校だったと思う)に電話。バスケの監督につないでもらう。監督が出た。「一度教えていただきたいが」「えっ?」監督の怪訝な反応があった。(まだ中学が高校に行くのはまれだった。)でも何とか承諾を得た。
  監督はまだ日本体育大学を卒業間もない重田先生だった。高校の練習に混じって基本練習、その後ゲームをした。ところが試合は1点を争う状況で監督は烈火のごとく怒っていた。高蔵少し実力が落ちていた時代だったであろう。この時から重田先生との永いつきあいが始まった。先生の兄さんは群馬県でインターハイ常連の県立高校の先生で後に県のバスケの最高責任者になられたはず。バスケットの月刊誌に一度大きく記事が掲載されていた。
高蔵通いは年に数回程度毎年訪れた。他の中学との練習試合は皆無だった。体育館がないので来てくれる学校はどこもなかった。校内で2チームを作ってゲームをするだけだった。

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  やはりこのチーム強かった。確か高蔵高校の招待試合に招かれたことがあった。ちょうどキャンプと重なったが学校側の理解で後から参加する事になった。強豪チームの集まるなか見事圧勝して夜遅く汽車、ハイヤーと乗り継ぎキャンプ場へ到着、冷めたカレーを食べた覚え。
  郡市大会、尾西大会楽勝し県大会へと駒を進めた。前年の優勝戦敗北の屈辱を今夏こそはらそうと驀進、チームは燃えていた。1回戦、2回戦危なげなく勝ち進んだ。いよいよ準決勝戦。相手はかなりの強敵だった。自慢のセンター陣が次々退場。3人の大型選手がいなくなってはゲームにならない。結局第3位。ショックは大きかった。「矢っ張り県を制覇するなんて容易でない」とつくづく分かった。」いつしかのびていた天狗の鼻が折れた。
  この3人高蔵高校へ招かれ特待生として入学。彼女たち高2の時県大会優勝。インタハイやら国体に出場。