第9話 光と陰 師匠その1 

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この題での投稿迷いに迷ったが掲載することにした。そうでなければ私のバスケット史の系譜が曖昧になってしまう。佐藤先生(仮名)は私のバスケへの開眼の師といえよう。第7話で出てきた3人娘が高蔵高校へ進学した年、名古屋市の私立M商業高校から高蔵へ変わって見えた。確かこの年M高校はインターハイに出場した。先生はよりよいバスケの環境を求めて学校を変わられたのだ。
  一度佐藤先生の自宅に高蔵の重田先生と一緒に泊まったことがありました。まだ赤ちゃんが産まれたばかりで泣き声が聞こえていた。現在もう30才近くになっておられるだろう。
  佐藤先生のバスケの指導技術は卓越したものだった。「先生のバスケの理論は何処で習得されたの」と質問したら、「市邨短大(現在名経大)の新井春生先生です」と言われた。そのときは新井先生がどんな方か知らなかった。佐藤先生はわずか1年で姉妹校の名女商高校へ転勤された。当時全校に名を轟かした近藤監督(女性)が変わられ、若い同じ姓の女性の近藤先生が監督をしておられた。この先生がお産をされるに及んで佐藤先生が監督になられた。
私がチームを連れて練習にお邪魔すると会場は直ぐ近くの名電高校だった。名女商の体育館が小さく十分使えないので名電で男女合同の練習、そして指導がなされていた。当時名電は全くの無名でバレーから変わられたバスケ未経験の野牧先生が監督だった。先生のお宅でいただいたうどんはおいしかった。

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 名電は佐藤先生のお陰で見る見る強くなっていった。私の中学からも毎年優秀なプレーヤが入学していった。キャプテンになった満永君は小さい体で大活躍した。(彼は後年我が家へ一人の女性を伴ってやってきた。お仲人をやってくれと言う。私は女子の監督だったが最初にして最後の媒酌人をした。すでに3人の子持ち、未だに会社でバスケを楽しんでいる。)
  ちょっと話題がそれたが名電へは周辺の中学から何人も進学するようになった。また大阪体育大学を卒業しコーチとなったN先生の指導で段々全国レベルに、そしてついに全国制覇にいたる。(この若き監督病のため死去)
さて名女商は着実に実力をつけつつあった。そのころ守山中の井上先生は(現桜花高校)頻繁に名女商に通われ子供を鍛えておられた。
  私はそれ以前佐藤先生に基本的なバスケの技術を教えていただいていた。先生なくしてそれ以後の私の業績はなかったと信じている。
  私の引退後守山中学は県はおろか全国優勝を重ねたことは皆さんご承知のはず。そしてその卒業生はこぞって名女商へ入学したことはゆうまでもない。
  ところがある日新聞に驚くほど大きな紙面で、名女商のバスケの選手が集団で名短付高校へ転校と報道されていた。私立高校から私立高校への転校はあまり例がなかった。何か大きなトラブルがあったよう。詳細は私に分からなかった。名短へはその後井上先生が奉職され指揮をとられた。
  いずれにしても佐藤先生の功績は名電の隆盛に、現桜花高校の無双のチーの誕生に大きくかかわっていると私は信じる。先生の名を聴かなくなって久しい。年賀状も途絶えてしまった。先生より受けた恩を思い先生の幸せを祈っている。

(追記)
  この原稿を書き上げた翌日市内の私立高校のバスケット部を訪ねた。たまたま昔話で私が佐藤先生の話をすると、監督が「佐藤先生今入院中で大変らしいとの噂ですよ」と言われビックリした。多分間違った噂だと思いつつも心配でたまらない。帰路暗い気持ちで我が家へ向かった。ひたすら恩師の元気なことを願いつつ。