入 院 日 記
入院日記(1)  2002年
  入院とは無縁の存在と思っていましたが、3年ほど前前立腺肥大の手術で11日間入院しました。そして今回白内障の手術で8日間入院しました。白内障は老人病です。皆さんの親さんにも悩んでおられる方があると思います。そしてあなた自身も将来その恐れがあります。私の体験が何かのお役に立つかも知れないと考え書き込みをしました。
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  8月の半ば近くの眼科医の手術依頼の紹介状を持って市民病院へ
初 診:手術日の打ち合わせ。8月は予約済み、9月は連休があってダメ。10月3日、7日となる。
2回目:瞳孔を開いて眼底検査。以前かかりつけの眼科医でやった経験がある。そのとき帰りに瞳が開いていてまぶしくてバイクの運転に困った記憶がある。そこで前日黒眼鏡を買って持参。
3回目:身長、体重測定、心電図、胸のレントゲン、血液、の検査あり。
4回目:レンズを決めるため各種の目の検査。家族と手術の内容を医師より聞く。看護婦より入院に関する書類、持ち物の説明。
  持ち物の中でパジャマ、バスタオル、半袖下着前開きそれぞれ3枚とあった。前開きの下着あるのかしらと買い物に行く。店員さんに聞いたら「入院用ですか」と言われた。ボタン式とマジックテープ式とがあった。一着1800円もした。テープ式を購入。入院用介護用に作られているのですね。


入院日記(2)  10月2日(水)
  午後1時30分市民病院の外来の受付へ。一応検査を受け病室へ案内される。新築間もない病棟で4人部屋、2人の方が入っておられた。新品のパジャマに着替える。最上階の5階で見晴らしがよい。町並みを見下ろしつつふとお尻の方をを触ったら、あれっ破れている。はっと気づいた。前後逆だったのだ。冷静のつもりだったがかなり緊張していたようだ。向かい側のAさんは座っていた。Bさんは寝たままである。それぞれどんな病気なんだろう。
  担当の看護婦さんが挨拶に来る。小柄で愛嬌のある若い可愛い子だった。ベッドに私の氏名、担当医、看護婦の名前が貼られる。続いて入院診療計画書が渡された。下欄のその他のところに「真心こめて信頼と満足の看護ができる様、努力します」と記載されていた。早速抗生剤の皮肉テストを受けた。いよいよ入院開始。
  しばらくして看護婦が「白内障手術予定の患者様へ」というプリントを持ってきた。入院日、手術前、手術後、術後1日目、術後2日目・・退院、の日程における診察・点滴・内服・常用薬・安静度・清潔・食事・検温・点眼の要領が表になっている。
  夕食を期待していたが唖然。高血圧・A のカードがあり、なんとお米110g(茶碗の3分の1)副食は極端に塩気なしの白っぽいものだけ。先が安ぜられる。


入院日記(3)  10月3日(木)
  朝食は手術の日とて110gのお粥。吸い物中に麩が3つ、他に大根が4片。8時半外来の前に診察有り。そのあと病室に看護師がきて、手術時のお世話をしますと挨拶。懇切丁寧に手術の段取りを、手術室の写真を見せながら説明。あと抗生剤の点滴。血圧、体温の測定あり。11:00より水分禁止。昼食はなし。手術2時間ほど前から3種類の注射を時間差を設けて看護婦が点眼。これが30分ごとに5回ある。だんだん右目がぼんやりしてきて明るさがきつくなる。瞳孔が開いてきた。
  正直なところ私が一番心配したことは、血圧が高くて手術が中止されないかということだった。そのためいつも左手より20ほど低い右手を測ってもらっていた。ところが手術前病室で年輩の看護婦に左手を測られてしまった。175、今一度測ったら185。やむなく右手で測って低い数字を記入。
  私は顔に似ずとても繊細で?毎回行く医者で診察室へ入る前から上気してしまう。白衣を見ると血圧が上がる傾向がある。手術着に着替え車椅子に乗せられる。足下が寒いからとバスタオルで覆う。バスタオルの必要はこのときだけ。年休をとった息子と家内が付き添う。


入院日記(4)続  10月3日(木)
  手術
  入室のおりビニール状の帽子を被せられる。手術台に乗る。でっかい器械が置いてある。右手に点滴、左手に手術中何度も測定する自動血圧用の装置、胸には心電図測定の段取り。緊張度が高まる。「目の洗浄を行います」の声とともに洗浄が始まる。そのあと顔一面に何か密着された。ペラペラと上の部分が剥がされる。目のところが鋏で切り取られる。大きく開いた目を絆創膏みたいなもので固定される。先生の「手術を始めます。力を抜いて」の指示がある。室内の電気が消えたか真っ暗になる。急に二つの光が見える。麻酔をされる。水溶液が流れる。「下を向いて、前を向いて」と何回も言われる。何か行われている。痛くはない。でも少しでも動いて手術が失敗してはいけないと微動もしないようにしていた。


入院日記(5)続  10月3日(木)
  白内障の手術とは
  瞳の上部を2ケ所左右小さく切開し、一方から超音波で水晶体を粉砕し、もう一方からそれを吸い出す。次にレンズを切り口から挿入する。傷口は小さいのでそのまま自然治癒。
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  3年ほど前前立腺肥大の手術の時は、モニターに写る手術の様子がよく見えたが今回は全く闇の中。ときどき英語の単語みたいのが発せられる。すると機械音が響く。血圧計の帯がきつく腕を締めてくる。突然暗闇が訪れた。ハットすると何か白いものがひらひらした・・・・。「手術終了」の声でやれやれと思った。顔に密着していたものがバリバリと剥がされた。右目には頑丈な眼帯がほどこされた。家族には「手術は無事終わりました」と執刀者から告げられた。さあ眼帯を明日とったらどんなであろうかと、不安と期待が交錯しながら再び車椅子で運ばれた。正味10分程度。準備その他合わせて30分ぐらいでした。もちろん痛みは皆無、絆創膏?がめくられたのが少し痛かっただけ。
  術後ベッド上で1時間の安静、以後水分、食事、軽い歩行可。抗生剤点滴。何もできないので携帯ラジオを聴いて時間を過ごす。
  夜ゆるんだ眼帯の鼻の方の隙間からほんの少し外界がぼんやりかすかに見える。まずは盲目になっていなかったと安心した。でもこのぼんやりかすんでいるのは何だろう。なにか薄いものが貼ってあるのかしら、それとも手術の失敗かしら。不安になってきた。ともあれ明日を待てと眠りについた。


入院日記(6)  10月4日(金)
  朝目覚めたおりゆるんだ眼帯の隙間から外界を、案外きれいに見える。昨夜霞んで見えたのは麻酔や瞳孔を開いた影響だったらしい。胸をなでおろし検査に。8時半すでに9時からの外来者は列をなしていた。入院者は優先的に診察を受けられる。若い先生のところで眼帯をとられ洗浄、次に視力検査。よく見える、0.8ほどまで見えた(実はこのとき裸眼視力と思いこんでしまった)。続いて執刀者の先生の検査。「手術うまくいっています」と告げられ一安心。
  病室で壁を見る。左目で見ると数年経った障子のように少し日焼けした茶色ぽい色である。ところが手術した右目は真っ白である。外の景色も全く違う。空の色の美しさ、なんと長い間濁った外界を見ていたのだろう。私たちは人と接するとき、またバスケなどで子供たちを指導するとき、知らぬうちに色眼鏡を通して評価しているので無かろうか。汚れない眼、偏見無き心でコーチしなければと痛感。


入院日記(7)続 10月4日(金)
  点滴も無くなり代わりに抗生剤の内服が始まる。また自己点眼で3種類の目薬を一日4回が開始。看護婦が「指しましょうか」と言うが「自分で上手に指すからいいよ」と断る。そうしたら看護婦が「じゃ実際に指してごらん」と言うので10cmほど上から点下、見事に決まる。「まぐれかも分からないから今一度やってごらん」再び挑戦。ぴったり的を射止めた。「こんな患者さん珍しい」看護婦は驚いていた。さすがバスケの名コーチと自画自賛。
  退屈なので持参のバスケットボール・マガジンのページをめくる。左目は近視のまま、うんと近づけねば文字が読めない。手術した右目は入れたレンズが遠方用のため、相当距離を離さなければ読めない。前の眼鏡は使えない。かろうじて判読。11月号の「ミニバス訪問」でTミニ(男子)とFミニ(女子)が掲載されていた。Tミニは週6日、Fミニは5日が練習日。年間の大会数前者は10回、後者は12回。それぞれ大会で勝ち進めば相当な試合数になる。その他練習試合や招待試合もあるだろう。監督、コーチ、親さんたちの労力は大変なことだろう。肝心の子供たちの心身は大丈夫かしら。もちろん大人も使命感を持ち子供も意欲的に参加していると思うので、第3者がとやかくいううべきではない。しかしこれほどやる必要があるかしら。昔私が中学でバスケの指導に携わったころは大会は年1回のみだった。現在でも体協、協会を併せて3回程度である。幼年期過度の練習はケガの続発などマイナス面が多く生じないだろうか。
  ちなみに私がやっていたミニは週2日、練習試合は皆無に近く(2ケ所でミニをやっていた関係で練習試合が不能)県にも登録していなかった。大会は年5回ほどでした。


入院日記(8)  10月5日(土)
  いよいよ外泊の日である。前日外泊届けを出した。診察後病院を出れるがなかなか診察が始まらない。そういえば本日は外来はお休みである。お医者さんは週休2日制では無いようだ。10時過ぎようやく診察してもらう。早速娘に電話して迎えに来てもらう。
  実は手術も多少心配であったが、一番気がかりは家のことだった。老妻独りでは心配で息子と娘に交代で泊まってもらうことにした。何十年ぶりかで倅や娘と枕を並べて家内は眠ったことであろう。ようやく家について着替えていたら病院から電話「内服薬を渡してなかったから取りに来て下さい」と。仕方なく娘の携帯に連絡し病院へ取りに行ってもらった。今日は秋祭りの1日目、子供獅子が出る。明日は山車が街を練る。やっぱり家はよい。娘の嫁ぎ先からは赤飯、実家からは箱寿司が届けられた。
  私は外泊できたが同室の3人(独り重症の人Cさんが隣のベッドに入る)の方は外泊はできない。申し訳ない気持ちだった。Aさん68才ヘルニアとか、車椅子で自力で行動しておられる。Bさん60才脳関係で半身が不自由、排尿の始末もできない。Cさん50才、3度も脳内出血、毎回快復、今回4回目で全身不自由。常時寝たまま。
  人手を借りなく歩けるなんて言うことは、この方たちにとっては夢のようなことだ。普通に行動できる自分の肉体に感謝しなければとつくづく思う。


入院日記(9)  10月6日(日)
  夜7時に病院に戻る。すでに同室の3人は消灯しておられる。昨日雑役のおばさんが言っていた。「最近ここでは看護婦と言わないで看護師と言います。婦長さんは看護師長と言います。」私は看護師は男だけと思っていた。看護婦は差別用語なのか。
  3年前の前立腺の手術でも思ったが、看護婦の仕事は実に大変だ。特に病棟の方は。体温・血圧の測定、点滴、点眼、内服薬の配布、洗面の代わりのタオル、体を拭くタオル3本。私は甘えて背中を拭いてもらった。私だけでも大変。同室のBさんは尿の後始末ができない。Cさんは排尿、排便すら不能。夜中でも何度もコールされ処置をしてもらう。ナースステーションの近くの病室であるから、夜半何回もコールする音が響く。彼女たちいつも笑顔で対応している。並の人間では勤まらない。やはり白衣の天使だ。便宜上看護婦と書いているが看護婦さんと記すべきだろう。
  そんなに早く寝付けないのでラジオを聴く。何か人生問題のことをやっていた。「老人とはいつか通る道、若者とはいつか来た道」なるほどそんな考えで相手を理解すれば、世の中スムーズに渡れるだろう。感心しながら眠りについた。


入院日記(10)  10月7日(月)
  いよいよ左目の手術。点滴、点眼、血圧測定など前回と同じ。車椅子で手術室へ。前に経験してはいるけどやはり緊張する。今回は手術中の血圧測定は左足首だった。何度もきつく締まってくるのは何となく不気味、付き添いは息子だけ、家内は怖いから嫌だと来なかった。こんな手術一番最初はどうやってやったのだろうか。ハツカネズミや犬や猿で実験したのだろうか。見えるようになったか確かめられない?こんなことを思いつつ無事手術が終わることを祈っていた。
  ところで同室の方たちの付き添いについて少し書いてみます。Aさんは多少車椅子で行動できるので、奥さんは毎日夕飯のころ来られる。毎回果物など持ってきて二人でベッドに腰掛け会話しておられる。Bさんは半身が不自由で朝夕奥さんが見える。トイレに行くのに車椅子で運んでおられる。電気かみそりでうまく剃れなかった所を奥さんが毎朝剃りなおしてみえる。Cさんところは大変。最初の頃は午前午後付き添い。殆ど寝たきりなので世話が大変。リハビリに連れていくのも看護婦2名に奥さんの3人がかりで車椅子に。奥さんがこれないときは母親がこられた。50才の我が子の脚をずっとなでておられた姿は神々しいまでに見えた。「私が代わってあげれたら」と呟いておられた。
  世の男性は私を含めて平素奥さんをもっと大切にしておかねばいけないと思いました。


入院日記(11)  10月8日(火)
  朝眼帯の隙間からきれいな外界が見えた。手術はうまくいったと確信。診察で眼帯をとられ「うまくいっているよ」と言われた。部屋に戻ると同室の患者さんや付き添いの方から「おめでとう」と言われて恐縮。私は明日退院できるのにこの方たちは・・・・・。
  簡単な手術だから見舞いは止めるように話してあったが、近いからと市内の姉妹が弟の車で5日の日見舞いにきてくれて驚いた。救急車で運ばれた弟は日赤で手術ができなくて名大病院へ転院した。頸動脈狭窄症で手術を先月25日やったばかり。この手術世界で2000例、日本で200例しかない新しい手法だった。退院間もないのに車を運転してきたから驚き。姉妹はビクビクして乗っていたと言う。
  手術後は3週間洗髪洗顔が禁止。頭髪も少なく汗もかかない季節なので現在それほど苦にならない。両眼の手術も終わって晴れて新鮮な眼で景色がしっかり見える。心なしか景色が以前とは違った感じがする。それも眼鏡なしで。
  明日は検査後直ぐに帰れるからと荷物を整理する。


入院日記(12)  10月9日(水)
  4時には目が覚めてしまった。興奮しているようだ。朝の診察を受ければ即座に退院できる。早すぎるのでラジオを聴く。電池が消耗しているのか声が小さい。勿論イアホンをつけてだ。
  就寝時イビキの凄い人がいる。どうにか眠りにつける。こちらもかいているかも。Cさん夜半2回ほど看護婦を呼ぶ。時に金具を落として静寂を破る。ときたま大きなうなり声、悲鳴が聞こえてくる。手術後の激痛の人のよう。毎日救急車がサイレンとともにやってくる。病院だから当然とは言いながら急患の人、その家族の方たちの心痛が伝わってくる。昨夕は婿の妹夫婦に見舞いに来てもらった。旦那も教え子である。
  8時半診察終了。直ぐ帰れると思ったらなかなか。ナースステションにまだかと聞きに行く。会計がこちらに来ていないので待って下さいと。イライラガつのる。ようやく10時半頃計算書が出る。計46,038円。医療費限度額40,200円、後は食事代など。一階に下りて自動支払機に診察券を入れて支払う。この器械導入されたばかりなので、係りの人に教えてもらいながら用を済ませた。領収書を病棟に戻って提出。ようやく係りが来て退院証明書、退院のしおりが渡された。会計を済まさないと退院できない。さもありなん。
  同室の皆さんに「お世話になりました。一日も早く社会復帰してください」と挨拶して病室を後にした。迎えの嫁の車で家路に、あと2日続けて通院すれば地元の眼科医に行けばよいそう。新築最初の入院者の退院だ、嬉しいなと思いつつ市民病院に別れを告げた。


入院日記     = 総 括 =
  今日にして想う。白内障の手術はやって良かった。全然痛くない。近視の視力が0.1から0.6まで快復した。外界の様子はきれいに見える。46,038円の大半は退職互助会から補助される。
  執刀者の卓越した技術、看護婦さんの献身的な努力、重病の患者さんの苦悩、その家族の方たちの支えなど貴重な体験をした。
  またネットの仲間のお見舞い励まし、子供たち夫婦の協力、血縁の親族の応援、ただ感謝の他ありません。自分一人で生きているのではありませんね。
  朝目覚めて時、生きている、生かされている。自分の脚で動ける。自分の意志で自由に腕が動く。それだけで最高の喜びと思わなければいけないと得心した。特に家内には心配をかけた。今後もっともっと永年の献身に報いねばならぬと決意している。
  昨日金魚の町の眼鏡屋(奥さんが教え子)さんに迎えに来てもらって、新しい眼鏡を注文した。遠近用の眼鏡と老眼鏡の2個である。これで体育館の隅までよく見えるはず。バスケの観戦が一層楽しくなる。