終 戦 秘 話
第1話 旧制中学 (1)学校の様子
 大東亜戦争勃発の年中学に入学した。この中学昨年100周年記念の行事を行った。愛知県第3番目の創立で以前第3中学校と呼ばれていた。私たちの時は県立津島中学校だった。五年制である。
 帽子は戦闘帽、学生服は国防色、足にはゲートルを巻いて登下校。校外で先生や上級生に会うと挙手の敬礼。入学当初は鞄はなく黒の風呂敷だった。ズボンのポケットは無し(姿勢がわるくなるから)。軍事教練の時間があった。武器庫があり小銃、短剣、軽機関銃、サーベル、弾丸などが保管されていた。教練は現役の配属将校や予備役の将校によって指導された。不動の姿勢とか、団体行進、銃を持っての戦闘訓練などが指導された。
 生徒朝礼は毎朝あり、あの消防検閲のような形式で行われた。国旗掲揚とか行進はラッパ部の吹奏だった。戦争が激しくなった時週番制度が五年生に課せられた。何の目的だったか知らないが先生の代理的存在で、暴力が日常化した。
 出席番号は成績順で靴箱もその順番だった。背の低い優等生が背伸びして靴を入れているのに、長身の劣等生がかがんで一番下の箱に入れていた。職員室へ入る場合も大声で「3年甲組3番 隠居 加藤先生に用があって参りました」と叫んで入室したものだ。成績の発表は毎学期黒板に全員の氏名を掲示、今考えれば全く酷い仕打ちだった。
不思議なことに1年生は殴られなかった。しかし4月早々最上級生になったばかりの5年生が2年生以上に暴力を振るうようになった。どういう訳か私が一番早く制裁を受けた(眼鏡のせいかも?)「歩き方が生意気だと・・・」やむなく胸を張って歩いていたら「威張って歩いていると・」また殴られた。
 以来新しい環境に入るといつも一番先にやられる。会社の養成所に入ったときも、技術者として工場にいった時も、現場の軍隊帰りの班長にどやされた(これは負けてはいかんと言い返した)。やっぱり生意気なところがあったのですね。
 ただし教員になってからは上司や先輩に叱られたことはなかった(校長さんなどを叱ったことはあったが)。教員社会はその点優しい職場だなあと痛感した。)

(2)勤労動員
 昭和18年(1944)6月25日閣議、学徒戦時動員体制確立要項決定(本土防衛のための軍事訓練と勤労動員を徹底)この時2年生だった。
 農家への手伝い(田植え、稲刈りなど)に行った。農家は男衆が軍隊に取られ人手不足なので中学生が借り出された。
昭和19年4月17日より4・5年生が軍需工場へ動員されることになった。上級生たちはもう学校にあまり来れないので、下級生に対して猛烈な暴力をふるいだした。そこで我々3年生のベストメンバー数人は相談して被害を避けるため、学校をさぼって木曽川を渡船で渡って遊んでいた。農家の誰かが持ってきた白米で飯盒炊さんをした。そのおいしかったこと、平素はろくな主食は食べれなかった。帰宅後近所の下級生が私が学校を休んだので月謝袋を学校からあつらえてきた。これで怠校がばれ親父が学校に乗り込み大問題となった。勿論強く叱られた。小学校入学以来無遅刻無欠勤の私の記録はここで破れた。
この後私たちまで動員され、名古屋市民用の水道工事、飛行場づくり、その後工場で飛行機(飛龍)の製作に関わった。工場に通うに名鉄電車を利用した。超満員である。ある日の帰り満員で窓に座っていた同級生が、カーブのところで振り落とされ頭に大怪我をした。私と今一人で病院までかつぎ込んで手術してもらった。大きな傷跡が残った。

(3)軍隊へ
4年生の時だったか学校から二人選抜され湯ノ山の近く菰野の連隊へ派遣された。本土決戦に備えて各中学から生徒が集められた。たいていの学校は小銃をかずいて参加、私たちは軽機関銃を持たされた。駅から徒歩でかなりの距離があり機関銃の重さに苦労した。
ここの訓練の目的は海岸に蛸壺を掘り爆薬を持って一人中に隠れ、上陸してきた敵戦車に飛び込むのだ。ある日空襲警報が入り上空で空中戦が始まった。すると1機が白煙をだし山に向かって落ちていった。みんな万歳と叫んだ。宿舎に戻ったとき教官に「敵機が落ちたから見にいかしてください」と頼んだ。すると「馬鹿もん落ちたのは友軍機だぞ」と叱責された。
毒ガスの訓練も酷かった。兵舎の中で訓練用のガスをたきこめ、そこを通過させるので。外に出たものは次々呼吸困難で倒れた。
 ここの生水硬水だったかみんな下痢で悩まされた。私自身それ以後慢性的な下痢に長く苦しめられた。

(4) 決 闘
甚目寺観音のある町の工場に動員された。飛行機の組立作業。胴体の部分だった。二人組で中と外に別れ枠にジュラルミンの板を空気圧によるハンマーで鋲を打ち込む仕事。凄いハンマー音があちこちで響く。
 ところでこの班に組織されメンバーはどういう訳か各クラスの問題生徒と黙された連中が集められていた。学校側は1ケ所に集めておけば管理しやすいと考えたのだろう。みんなこの処置に不満を持った。
 私はみんなを集め「この学校の処置は全く気にくわない。しかし今非常時だ。ここを辛抱しよう。逆に立派な生活態度でバリバリ仕事をやろう。だから他校生徒との喧嘩、口論は厳禁しよう・・・・・」。みんな承諾してくれた。
 さすが豪傑連中作業もガンバッタ。先生たちも驚いていたようだ。
 上級生たちは早くから工場に出ていたので色白だった。私たちは飛行場づくりに、水道工事に土方作業で真っ黒だった。たまに全校生徒が学校に集まると私たちの方が日焼けし、筋骨逞しくどちらが上級生か分からなかった。
 ある日仲間がやってきて言う「駅前の農協に来ている農学校の生徒が喧嘩を売ってきて困る仲間で喧嘩しない約束をしているので辛抱している」と。そこで私が代表して決闘すると宣言し作業終了後農協まで出かける。帰りのこと同級生は30人程ついてくる。勿論当時の喧嘩は1対1である。広場に相手を呼び出す。農学校生は上級生で大きかった。別に喧嘩慣れしていたわけではない。始めての決闘だ。しかし正義の戦いのような思いで勝負した。柔道で柔道部員よりも強かったので多少の自信はあった。大外刈りで相手を倒すと上からパンチ・・・。突前農協の職員が飛び出して来た。私たちは一斉に逃げた。私は友人の自転車の後ろにまたがり次の町(有名な七宝焼きの町)の駅まで走った。この喧嘩学校に知れず助かった。もし分かっても戦時中のこと大した処罰はなかっただろう。異性関係の方が罪が重かった。(女学生と公然口を聞くことなど近所同士でも皆無)
 今考えると馬鹿げたことをしたと反省している。ここに紹介したのは戦時下の中学生の多感な一面を知って欲しいとの考えで、恥を忍んで記述しました。

第2話 配属将校 (1) 
 これについては旧制中学の同級生の中野光君が、みずち書房発行の「ひとなった日々」で書いているのでそれを掲載します。(この書籍中野君が贈呈してくれた)
中野君の経歴 東京文理科大学卒 
金沢大学、和光大学、立教大学で退任
 著書 大正自由教育の研究(毎日出版文化賞受賞)その他
日本生活教育連盟副委員長
彼とは仲良しで弟との深いつながりについては今昔物語でいつか触れたいと考えている。
この配属将校の事件についても私なりに書き留めていたが、日本でも著名な学者の中野君の文章の方が的確なのでそれを活用することにした。
配属将校
 配属将校制度は1925(大正14)年の陸軍現役将校学校配属令」によってスタートしたものである。第1次世界大戦後の国際的な軍縮政策が進められねばならなかった
時に、陸軍省と文部省が知恵を出し合って軍人の失業対策と学校教育の軍国主義化をねらってつくった、一石二鳥の制度であった。

(2)さて2年生になった秋頃のことだったろうか、配属将校の交代があった。朝礼台に勢いよく登壇したのは中田和彦(仮名))少尉であった。(注:もっと以前は中佐、少佐ともっと階級が上の軍人だった。少尉は将校の一番下・・・隠居)私は驚いた。その人は私の小学校時代、担任されたことはなかったがきびきびした先生で子供たちともよく遊んでくれて人気があり、私も好きだった中田先生ではないか。そう言えば中田先生は私が5年生の時、1943(昭和15)年1月、赤紙が来て応召され、全校児童が学校から見送った。それから2年あまりの時が流れたがその中田先生が今私の目の前に現れたから夢のようであった。私は全校集会が解散になるとすぐに駆け寄って中田先生に後ろから声をかけた。
 「おう、中野か。」
振り向いた中田先生からはたったそれだけの言葉しか返ってこなかった。それよりも意外だったのは先生の表情がこわばって、あの小学校時代に生き生きと子供たちと遊んでくれたヒユーマンな中田先生とは別人のような人相になってみえたことだった。何とも複雑な想いにかられた。
(3)
 配属将校としての中田先生はまさに「鬼の配属将校」であった。しばしふるう「鉄拳制裁は」は生徒たちに恐怖感を与えた。陸軍省による「査閲」の成績は「良好」から「優秀」になり、中田少尉は中尉に昇進したが、先生は教育者としては貴重なものを失っていた。
 忘れもしないことがある。それは私たちのクラスが自習時間だった時、中田中尉は険しい形相で剣道の竹刀を持って教室に入ってきた。そしてK君を名指し、大声で「前へでろ」と怒鳴った K君はおずおず前に出たところ、中田中尉はやおら竹刀を振り上げてK君を殴った。彼の頭はみみずばれになり顔は真っ青になってふるえた。私たちはこの配属将校の狂気の行動を恐怖し、黙って見ているほかなかった。
 「なぜ、なぐられたのかわかるか」という問いに対してK君は「わかります」と答えたので中田中尉は立ち去った。あとでK君に聞いたところ、彼は、中田中尉に敬礼をしなかっただけのことだと、いった。私は今になってもこの光景を想い出す。
(注:私もこの教室にいた。配属将校は椅子の上に立ち全力で数回竹刀を振り下ろした。一筋 二筋、三筋と頭にはみみず腫れがむくむくと現れた。私の全身が恐ろしい暴力に震えた。K君は蔭山君で昨年の同窓会でとなりに座っていた。あの制裁に触れたがただにこにこ笑っていただけだ。彼の頭には頭髪一本もなく禿げていた。私は配属将校の名を忘れていたが今キーを叩きつつ想い出した。中野君は名前を逆に書いていたのだ。そう言えば私も配属将校に殴打された。朝礼のときどうしてか彼は私のポケットに手を入れた。たまたま1枚の銅貨を持っていたそれを取り出し表面の菊の御紋章を指さし「この花びらは何枚だ」と言われ「16枚です」と答えた。その瞬間鉄拳が頬を打った。 隠居記す)

(4)
(注:配属将校の暴力にこんな場面もあった。ふと見ると校庭の下にあるグライダーの練習場で下級生が軍事教練をしていた。突然配属将校が木銃・・銃剣道用・・でもって次々生徒を突き倒していた。防具をつけていてさえ衝撃があるのに、生徒は次々倒れていった。狂気の行動であり凄惨な場面だった。私は多くの先生に可愛がられた思い出はないが別に恨んではいない。しかしこの教官だけは許し難いと思う。現在散歩のおり彼の家の前をよく通るが、そのたびに怒りがこみ上げてくる。しかし彼はもうこの世にはいない。  隠居)
 中田中尉は雄弁だった。戦局は日増しに不利になっていった時期・・・・海軍飛行予科練習生(予科練)をはじめとする軍関係学校への志願の勧誘を、左手に軍刀の柄を握り、右拳をふるいながら熱弁で行った。
 「今や戦局は危急を告げ、日本は有史以来の国難に際会している。このような時こそわれら・・・撃ちてしやまむ・・・の精神を持ってこの神国日本を護らねばならぬ。この戦争は100年戦争である。いいか、国家あっての個人である。一切の私情をこえて殉国の道を志せ。すべてを君国に捧げることこそが諸君の使命なのだ。・・・」
 このような熱弁は10代半ばの軍国少年のヒロイズムをいたく刺激した。
(注:著者中野君は本当にこんな言葉を記憶していたのかな・・。私は全く記憶がない。しかし予科練へ行ってアメリカ兵と戦おうと思い親父に志願すると言った。父親は担任の家に私を連れていった。担任は軍人になるだけが道ではないと懇々と諭した。父親が前もって先生の所へ行って頼んでおいたに違いない。やむなく志願を取りやめた。あの時代よくぞ親父はそして先生は、はやる私を宥めてくれたと感謝している。)

第3話 8月15日  (ここからは隠居の記事です。)
 8月15日中学では行軍があった。戦意高揚のため。行軍とは長距離を歩くことでる。自転車通学者の4年生の十数名が名古屋の軍隊まで教練用の小銃を運んだ。軍隊に銃が不足したので各学校から徴集したのだ。学校には相当量の銃が保管してあった。暑いなか私たちは歩いた。そして昼に戻った。すると全員講堂に入れと言われた。どうも事前に昼に重大放送があるからそれまでに帰校することになっていたよう。
 ラジオが鳴り始めた。意味がよく分からない。天皇陛下のお言葉らしい。もっとガンバレとのお言葉かとも思った。あとで校長が日本が無条件降伏したと涙ながらに説明した。みんな衝撃だった。校長はヨーロッパの小さなある国の話をした。「明日いよいよ敵によって征服される。この国の言葉はもう使えないかも知れない。みんな耐えよと。」
 日本中が騒がしくなった。「甚目寺の飛行場から降伏を嫌がって敵船に体当たりに何機も飛んでいった。アメリカが怒って空襲にくるぞ・・・」こんな流言が飛んだ。我が家ではこれで終わりかとなけなしの白米を今生の思いで母が炊いた。一部握り飯にして北小学校に運んだ。姉が教師をしており宿直をしていたから。蚊帳のなかに若い男性教師と姉たち2人の女性教師が同じ蚊帳で寝ていた。事情を話し今生の別れになるかも知れないと思いつつ握り飯を渡した。
 天皇の終戦の勅語(8月15日)で内地は勿論、外地の数百万の日本兵が一糸乱れず矛を収めたのは、世界の戦史に未曾有の出来事だった。 しかし新聞には報道されなかったが、やはり各飛行場から飛びたった飛行機もあったようだ。また終戦の勅語が放送されないよう一部軍隊が放送局を襲ったりした。
 電灯の覆いをはずした。初めて光が道路に漏れた。それまでは電灯は覆い空襲になればガラスを真っ黒な紙で覆った。(我が家は雨戸が無かった)

 第4話 武器隠匿 (1)アメリカ軍学校へ 
 アメリカ軍が間もなく上陸すると言う。日本軍と血みどろの戦闘をしてきた軍隊だ。津島の街角で巡査が婦人たちを集め暴行にあわぬよう注意する。中学の朝礼は戦争が終わっても依然としてあの消防検閲と同じである。ある日明日からは敬礼を廃止するという。校長が中折れ帽子(hat)を被って登壇したのには驚く。それまでは戦闘帽(全員)だった。号令も「頭 中」でなく「礼」となった。
 暫くしてアメリカの軍人たちが中学へ何人もきた。戦争が終わると周辺にあった探照灯などの兵器を校庭に集めてあった。その点検が目的だった。代表の軍人が朝礼台にたち挨拶した。校長が通訳した。(校長は河合茂先生で広島高師・文理大英語科の教授で、英文法では3本の指に入ると言われていた。戦中の英語教育排斥のためか、自ら降格して中学校に赴任された。私たちの入学と同時だった。)英語の先生たちは余り会話できなかった様子。一番若い先生だけが通じたらしい。全く占領軍にしては友好ムードだった。卒業したが補習できていた先輩がべらべら会話した。彼はアメリカ帰りだった。以後彼が専属通訳となった。
 ちなみに県下の学校の英語教師が集められアメリカ軍の臨時通訳をさせられた。先生たちも難儀だったようだ。
  学校で突然放送があった。「今後絶対にグライダーの格納庫の近くにいってはならない。もし近寄ったら何事がおきても仕方がない。」そして翌朝登校すると、あれほど友好的だったアメリカ兵が銃剣を構えて校門に立っているではないか。異様な雰囲気である。「もしかしたらあれかもしれん?」こんな不安が脳裏を走る。
 現在の野球場のある場所は、私たちが堤防を削り造成した運動場。滑空部がありグライダーの操縦訓練をしていた。十数人でゴム綱を牽いて滑空させる。勿論グランド内である。バックネットのあるあたりが格納庫だった。 一方グランドでは兵器が爆破されていた。時々屋根に破片が落ちてきた。

(2)発覚
この異常なアメリカ軍の行動はきっとあれだろうと噂が飛んだ。実はあの終戦の日私たちは行軍をした。そのとき銃が足らないので学校にあった銃を名古屋まで自転車で運んだと前に書いたことがあった。ところが何丁かまだ学校に残っていた。私たち上級生がその処分にあたった 残っていた弾薬を使って射撃場で何発か撃った。学校で実弾を使ったことはなかった。
 そしてその銃を格納庫に穴を掘って埋めた。人数は10名足らずだった。軍事教練の教官の指導のもとだった。学校長の指示があったらしい。「この武器が見つかったら銃殺だぞ」と私が冗談を言ったらみんなが笑った。指揮刀のサーベルも埋めた。
 アメリカ軍は運動場に集められた兵器の中に一丁の銃も無いのを怪しんだ。(地方の兵隊は銃さえなっかのだ)そして学校の中を天井まで探した。そして格納庫の土が少し下がっているのを発見した。早速掘ってみると銃などが出てきた。 「これは再び日本人が戦う準備をしているにちがいない」と断定し学校長と教官がアメリカ軍に拉致された。
 学校中が震駭した。私の冗談が本当になった。これは大変だと身の危険を感じた。

(3)尋問 
定期テストの最中校長が2人のアメリカ軍将校を連れて教室に入ってきた。校長の頭髪は真っ白になっていた。(江戸川乱歩の小説に恐怖のため一夜にして黒髪が白髪に変わった推理小説があった)。 将校は前側にでっかいピストルをさしていた。1人は大きな白人、残りは2世の将校、有名なCIC(アメリカ民間情報部)だった。校長が言った。「格納庫へ銃を埋めた人は手を挙げなさい。」数人が挙手。「そのものは校長室へ来なさい。」私たちはテストを止め校長室の前まで。10名ほどが集結した。ひとりひとり尋問である。出てきた仲間に尋ねていると、将校が脚で戸を開け大声で怒る。
 私の番がやってきた。「Can you speak English?」「いいえ」初めて聞いた生の英語だった。「君は監獄に入りたいか」こんな英語も言われた。後は専ら通訳の2世が聞いた。結局武器を埋めたのは戦う為かどうか。(よく考えれば土にじかに埋められた銃が使えるはずがない。疑心暗鬼のアメリカ軍だ。)途中昼になったら名古屋まで昼食に帰っていった。私たちはじっと待っていた。 彼らが再び学校に戻って残りの生徒が調べられた。
 尋問が終わって解放された。もう下校時刻。ジープの彼らが同乗さしてやるという。
驚いた。家の近くまで送ってもらった。なんとおおらかなのか。先程まで厳しい様子
だったのに。
 後日校長が全生徒に話した。「私は英語が分かるから本当に尋問がつらかった」と。

(4)武器拠出?      
 学校から連絡あり。各家にある武器?は全部学校へ持ってくること。あとから進駐軍が一軒一軒調査にくると。この指令どこから出たのか。警察か、進駐軍か不明。たいしたものがあるはずが無い。海軍の学校から帰ったものは腰につけていた短剣を持ってきた。剣道の面、小手までみんな持ってきた。戦う意志が無いことを表すために。これらは皆焼却された。無条件降伏だから皆びくびくしていた。
 剣道の道具について語ろう。
 中学に入ると体育の授業で剣道か柔道を選択します。いつも剣道が希望者が多い。私は柔道に回された。剣道は面と小手を買わねばならない。胴は学校にある。注文した柔道着は直ぐにきた。しかし剣道具はちっともこない。 当時の剣道や柔道の教師は正規の先生はいなくなった。街の有段者を捜して教師にしていたよう。剣道の教師は芸者買いとあだ名が付いていた 津島の料理屋で芸者を呼んで毎晩飲んで騒いでいるとの情報が飛んでいた。どこにそんなに金があるのか。皆の剣道具のお金を使っているのではないか。そんな噂がたった。1年経っても道具がこない。ある時校長が発表した。「剣道の教官が防具のお金を全部使ってしまった。私の責任です。私もそんなにお金がないので実家で借りてきました。弁償します。」 ようやく剣道具が整ったのは3年生になってから。勤労動員で学校で殆ど授業が無かったのでその道具はあまり使われなかった。その防具まで運動場に徴発され破棄された。剣道も柔道もその後何年も日本では禁止だった。
(註:校長と教官はその後無実で釈放された)
第5話  予科練帰り  
 岩田という同級生がいた。案外元気な生徒だった。彼は予科練(予科練習生・・海軍の飛行士を早く養成する軍の学校)に合格。私たち2人は招待された。入隊の日だった。家の人には私たちも予科練にいくと家人をだましたらしい。ご馳走のあと名古屋まで送り出した。名古屋駅には多くの入隊の中学生が集まっていた。勢揃いして入隊するのだった。出征のためのイベントがあった
 終戦になって軍隊の各種学校にいたものが中学に戻った。しかし岩田君は復校できなかった在校中にかなりの問題行動があったらしい。しばらくして彼が名古屋駅で露天商をやっているという噂を聞いた。その後暫くしてラジオ(テレビは勿論なかった。)で「名古屋で命売ります。買って下さい」という男が出たと放送され日本中がびっくりした。そしてその男が岩田君だった。私は一度も戦後彼に会っていない。今どこにいるだろうか。まだ生きているかしら。同級生も彼の消息を知らない。

予科練の歌
  若い血潮の予科練の  7つボタンは桜と錨(いかり)
  今日も飛ぶ飛ぶ  霞ヶ浦にゃ でっかい希望の  夢が湧く

第6話  特攻帰り
 こんな同級生がいた。杉山と言う名だった。彼とは戦前は同じクラスではなかった。彼もまた予科練へいった。戦後復学して同じクラスになった。彼は予科練では優秀生だったので特別、海軍兵学校へ入れられたそう。そして特別攻撃隊(人間魚雷)要員で将校になっていた。髪も長髪にし(本来は坊主)死ぬ前だから特別待遇で食事、酒と贅沢に荒れた生活をしていた。出撃前に終戦、そして中学に戻った。
 私たちは最上級生の4年生だった。季節は寒いときだった。数学の時間、先生は古い背広をきて机間巡視をしていた。杉山が先生の背中に向かって万年筆を振った。背広に青いインクの筋がくっきりと2本走った。大変なことをしたと一瞬思った。 2時間ほど経ったとき担任の関先生が教室にやってきた。「数学の先生の背広にインキをかけたのは誰だ。」誰も声を出さない。静寂。突然海軍予科生帰りの黒川(後高校の校長)が立ち上がって「杉山君がやりました」と叫んだ。さすが軍人だ。杉山が立ちあがった。「俺はやっとらん。そうだろう、みんな。」誰も黙して語らない。担任は「後から1人ずつ職員室へ来い」といって戻っていった。
 数学の先生は何も知らず職員室へ戻って大きな火鉢にあたっていたとき、他の先生 がインクを発見したのだ。 杉山が言う。「お前たちしゃべったら許さんぞ」と皆を脅迫していた。職員室へ行っても誰もしゃべらない。全員教室に残され帰宅できない。あたりはだんだん暗くなる。私の正義感が爆発した。「杉山、お前も軍人だろう。お前の行動で皆が迷惑をしている。 堂々と名乗ったらどうだ。その代わり処罰を受けぬよう全員で守るから。」 彼は潔く白状し謝った。数学の先生は許してくれた。ところが教頭の北岡先生(後中学の校長・・学制改革で)がくどくど校長室で説法したらしい。杉山は頭にきてしまって「貴様生意気だ」と軍人に戻ったか教頭を殴打してしまった。そして「俺は死ぬ」と喚いたようだ。やむなく教頭が自転車で彼の家へ送っていった。学校からかなり離れた家だった。先導していた教頭が後ろを見ると彼が消えていた。 結局杉山は放校処分となった。先生様時代、先生を殴るは言語道断、我々は救う方法が無かった。卒業の頃杉山が学校に乗り込み私たちを襲うという情報があった。いつでも来いと身構えていた。しかし彼は現れなかった。以来その消息は不明。

第7話 同時卒業
昭和19年3月18日 決戦教育指導措置要綱決定(国民学校初等科以外の授業1年間停止)
 上級生5年生・4年生が同時に卒業した。私もよく知らなかったが専門学校、大学も短縮された様子。5年生はともかく4年生は大変。上級学校入試は5年生と同時に受けねばならない。戦中とはいえ全く4年生は不運だった。私は受験に失敗し(戦時で学科試験なく態度不良?)1年遅れで入学したので運がよかった。
 昭和20年度は私たちは4年生で最上級生になった。待っていたとばかり下級生を教室に引っ張りこんでリンチしていた。学年の弱虫が虎の威を借りた狐のように暴力を振るっていた。私はかって下級生をいじめたことはなかった。(ただし上級生は別)
 さて終戦になり4年生で卒業しても良いし、5年生までいっても良いことになった。退学させられそうなものや落第のおそれのあるものは早く出た方がよいと。勿論入試はみんな受けた。そして受かったものは4年卒で、落ちたものは5年生へと。この落ちた連中また5年卒で入試を。少ない人数(全国)で再び入試。お陰でみんな良い学校へ入学できた。例えば日本一難関の第1高等学校に2人も合格した(過去に合格者無し)。昨年4年で5年生と同時卒業した人に比べ天と地の差であった。このことはそれ以後の就職その他でも大きな影響があったと推察された 私自身は戦争で財産を失った父親に負担をかけないため、月給がもらえ勉強させてくれる会社の専門技術者養成所に、反対を押し切り志望し合格した。10数名希望したが運良く私だけ合格した。(私が進学したら教頭さんが自分より隠居の方が月給が良いと言っていたそう。戦後教員の給与はインフレのためとても低かった) 大変有り難いことに私たち4年卒は、5年卒と法律よってみなされたので、私の1年遅れの入学はこれで解消された。
 昨年秋同窓会があった。私たちは42回・43回生である。第1高校へ進学した鈴木君が東京から参加した。最近まで日本的な大企業の社長をやっていたという。先に紹介した中野君も(元立教大教授)もはるばるやってきてくれた。一泊の宿泊同窓会だったが、すでに4分の1が黄泉に旅立ったと聞きその冥福を祈った。  (終わり)