第5部 隠居のつぶやき


(41) 困った部員
 今から14年ほど前、私が2度目の村の中学で退職する年度の部員N男の話である。
彼の練習態度は極めて悪かった。早朝練習は出てこないし、午後もよくさぼり、指導にもなかなか素直に従わなかった。即ち問題生徒だった。新人戦用に配ったユニホームも取り上げた程だった。(この学年翌年開校以来初めて尾西、県大会まで出場)
 N男高校では弱小チームだったがバスケ部に入ったようだ。どの程度やったか不明である。その彼が就職後時々私のミニを覗きにきた。そのうち責任持ってコーチするようになった。私が引退しても立派にコーチを続けている。2年先輩のKコーチが「先生、N男昔先生に叱られていたとおりの言葉を、小学生に得々語っているので、聞いていて可笑しくなる」と。
 彼が何故こんなに変貌したか、どうして私を助けてくれるようになったのか、確かめたことはなかった。しかしあの厄介者的存在の彼が、熱心にチームの面倒見てくれている事実、不思議である。「人はその時の印象だけで全てを判断してはいけない。」「人の本質はみんな素晴らしいものだ」と痛感した。何年か前たまたま覗いた体育館に彼の新妻が生後間もない赤ちゃんを連れてきていた。私は思わず赤ちゃんを抱いた。すべすべした柔肌、純黒の瞳に嬰児の幸せを祈った。
(追記:本日12月1日私の誕生日、神社参拝を終えたとき楼門を宮参りの家族がやってきた。ふと見るとN男君ではないか。正装した夫婦、2人のお母さん、そして赤ちゃん、かって抱いたあの坊やは可愛い服を来て歩いていた。「先生女の子です」晴れやかな言葉で言うN男。微笑ましい光景に一家の幸せを念じた。この日午後雅子様は女子出産。

(42)救急車
 私は救急車は縁がないと思っていた。しかし現在までに2回も世話になった。今を去る約20年前初孫の誕生に際してである。過熟児で手遅れで慌てて帝王切開、肺に羊水を飲み込んでいた。蒼白の嬰児は救急車で年末の町を一宮市民病院まで数里を運ばれた。私との対面は救急車の中だった。異常に胸が腫れ上がった初孫を、正月早々双眼鏡で遠くから眺めたのは忘れられない。酸素吸入の連続、奇跡的に40日を越える最新式のガラスの箱のなかでの治療が効を奏し甦った。来年成人式。
 そして今一回はバスケの1月の尾張の大会だった。高校生のM子(私が中学を辞めたとき2年生だったバスケ部の美少女)私の出身校のキャプテンをしていた。ミニを創ったが多少余力があり高校生の指導もやっていた。この新人戦の決勝戦最後までもつれて勝敗が分からなかった。そして最後にリードされ負けた。両チーム挨拶を交わしベンチを引き払ったら彼女がいない。尋ねてみると体育館外の通路に寝ているではないか。どうもおかしい。保健室に運ぶ。息づかいが激しい。顔色も蒼白 、監督の先生と協議、救急車を呼ぶ。母親も駆けつける。(母親も教え子)市民病院へ私も追っかけた。父親直接病院へ。
激しい攻防に全力を使い果たしたのか、精神が極限状態になったのか、不安のおももちで待機。大分時間が経過した頃、母親に介添えされてM子がふらつきながら出てきた。やれやれ。こんな体験はもうごめんだ。
 このチームインタハイ県大会で2回戦名短と当たった。私は法事で欠席したが、電話で名短と対戦でき良い思い出ができたと連絡があった。彼女今名古屋空港であこがれの制服を着て勤務している。新春早々ハワイで結婚式をあげると先日の一泊同窓会で母親から聞いた。めでたしめでたし。
(今年も後僅かです。何度も掲示板にお邪魔しお世話になりました。皆さん佳いお年を、来年も宜しくお願いいたします。)

(43)ミニ愛知県大会観戦
 6日元気を出して名古屋市で行われたベスト8による大会を見に行った。最近は一人での遠出は自粛していたが。豊田のTJさんのお勧めもあり、また一度愛知県トップのミニの実態をこの目で確かめたい願いもあった。厳寒の季節しっかり着込み、手袋、マフラー、背中に ’貼る懐炉’を貼って出かけた。ところが体育館はとても暖房が効いていて暑くてたまらなかった。豊田のチームは直ぐ分かった。HPの表紙に部員の写真が出ているので。肝心のTJさんは勤務の都合でみえなかったが、にぼしさん、はかせさん、コーチの女性の方、父母会の会長さんなどに初めてお会いできた。
 一回戦後4チームによるリーグ戦の段取りである。豊田の女子はすでにゲーム中だった。楽勝だった。男子の方大分後だった。とても落ち着いたバスケでそれぞれ役目を確実に果たしていた。センターがゆとりを持って得点していたのが印象的だった。予選突破。リーグ戦の1回目の女子を見た。特に岡崎と昭和に重点を置いて。全く息詰まる激戦だった。1−2−1−1の岡崎に対して、2−2−1の昭和。凄いスピードでコート一杯に走り回っている。一瞬のゆるみもない、緊迫したプレスの攻防。
 反対コートを見ると豊田対と豊川も1進1退互角の戦いを展開していた。それにしても岡崎の親の応援団にはビックリ。30名ほどの親さんがそろいの法被(ピンクに襟が真っ赤)太鼓に合わせ鳴り物で声援。1コーター岡崎優勢だったが、2コーター後半からジリジリ昭和追い上げリードし始める。
 今度は後半の豊田の応援をと思ったが、明るいうちに帰宅するとの約束だったので心残りはあったが体育館を後にした。どのチームも全面に防御を広げ、スピードあるプレーを展開していた。これが小学生かと思うプレーに流石愛知のバスケは凄いと感心した。ここまで鍛え上げた指導者の方たちの指導力と努力に敬意を払った。

(44)応援旗さまざま  14日再び県大会会場へ。
 ベスト4による白熱したゲームに満喫した。そのおり周囲に掲げられた応援旗をメモしてみた。それぞれの願いが込められている。
翔 べ 東 海 ・ 翔 べ 北 部 ミ ニ ・ 燃 え ろ  瀬 戸
心ひとつに はばたけ日進  ・   気力でぶつかれ蒲郡 ・  強気でせめる
強気でせめる ToyoKAWA ・ 走れ 翔べ ゴールへ ・  はばたけ豊田っ子
ねらえゴール めざせ頂点  ・ 我が子耐えよ 意欲だ岡崎っ子
 いろいろ工夫された旗がとりどりのカラーで、大会の雰囲気を一段と高めている。岡崎のスローガン何となく独特で、あの華やかな応援風景とマッチして親の気迫が醸し出されていて、半ば感心し半ば悲壮感を感じた。
 それにしても厳寒の時期に関わらず暖房の効いた凄い体育館でゲームをする子供たち、そしてそれに関わる大人の人たち、何と幸せなことだろうと痛感した。ところで体育館の使用料は果たしていくらなのかと余分な心配をした。
 さて皆さんのところはどんな応援旗ですか。 私の関係していたミニは「華麗」でした。

(45)外部コーチ その2
 前に外部コーチについて書き込んだところあちこちよりコメントがあり、ありがとうございました。県によってまちまちであることが分かりました。制度的に確立しているところ、全くできていないところ、その中間的なところ。外部コーチという言葉が適切でないとのご意見もありました。内部でないので阻害されることが多いと。また学校側の先生や監督さんに依頼されて何年も何年もやっておられる方もありました。その頼んだ方が変わられて”止めて欲しい”と言われ方、千差万別です。
 中高に関わらず若い先生が採用されない現在、まして難解なルール・技術が必要なバスケの顧問は敬遠されがちです。いろいろな職務、雑務で多忙な先生方に外部の方の協力は必要な時代になっています。県や市町村も一定の基準で外部コーチを積極的に採用すべきと思う。
 顧問、外部コーチ、学校側が子供中心に協力しあうことが大切ですね。外部コーチが来ているから部は覗きもしないとか、外部コーチが学校体制を逸脱して指導するなどは厳に戒めるべきです。
かくいう私は退職してミニを創部したおり、近くの県立高校へ押し掛けコーチにいき数年を過ごしました。何人も顧問は替わりましたがそれぞれ楽しく協力しあえました。ただ一つ何となく不満を感じたのは校長や教頭などが一度も挨拶されなかったことです。なかには私の遙か後輩もいたはずです。時には「ご苦労さん」の一言ぐらいあってはと思ったりしました。勿論子供さえ喜べばよいとの思いで奉仕していたのですから 文句はありませんが・・・。
バスケは勿論他のスポーツでも生徒たちは忙しい学業の傍ら、それぞれの部での充実を願っています。新しい教育課程もさることながら部活動への真剣な対応がないと、教育現場の荒廃はますます広がっていく恐れがあります。来年度から週休2日制になります。部活動の今後に隠居はかなりの不安を感じています。

(46)外部コーチ  その3
 21日外部コーチ その2を出した。その2日後中日新聞に「他校との合同運動部支援 文科省02年度 中、高にモデル校指定」・・・中体連も03年度から全国大会への参加を認める方針・・
 (少子化対策で国も考え始めたようです)。外部指導者の招聘や活動場所を確保する際の経費などを助成する。中学校と高校の運動部では、指導者を外部から招いても顧問のなり手がいないことから、活動がなりたたないケースが目立つ。・・・
 こんな要旨の記事があった。まさか隠居の外来講師の書き込みに呼応したわけでないが(笑)、珍しく結構な話題である。
 かなり前私の掲示板にこんな書き込みがあり。はて誰かしらと一瞬分からなかった。

 題名 ご隠居さまのパワーに圧倒されています
おのおの(470) 投稿日:2001年10月20日<土>00時31分/愛知県/男性/36才
 いつも先生のページを拝見させていただいています。11年前、公立高校で素人で先生の横にいさせていただきました。今から考えると、ご隠居様に対して、自分の取っていた姿勢があまりにも恥ずかしく感じられています。ご隠居さまのコーチングをすぐ横で見られるのにもかかわらず、そのすばらしさを当時はぜんぜんわかっていませんでした。本当に申し訳ないやら、もったいないやらと、しみじみと感じています。なかなか、指導がうまくいかないときに、ご隠居様のページを見て、自分のコートでの姿を”反省”の日々です。以下省略
 上のような文面にびっくり、そして懐かしく思いました。おのおの先生昔吹奏楽部員で運動は無関係だったそう。顧問のなり手なくやむなくバスケ女子を。バスケの楽しさを自覚されたか後に男子部の顧問を積極的に、そして転任してからずっと監督を。県大会にまで出場。小2のお子さんを遠くのミニに送迎も。今や尾張ではバリバリの指導者。ちなみに奥さんは名古屋の県大会常連の高校のバスケ部員でした。

(47)鷲野君のビデオを観て
 10日ほど前F中のI先生に鷲野君のビデオを借りた。以前彼のビデオが市販されていると聞いていたので。3年前の全中3位の後作成されたようだ。「オフェンスファンダメンタル・シュートドリル」である。なかなかよく訓練された部員によるボールハンドリングや各種シュートのテープだった。体育館の壁に超デッカイ青地に白文字の横断幕が印象的だった。「すばらしい選手である前に すばらしい生徒であれ」数年前から地区の大会でお目にかかっているが、含蓄のある言葉である。そう言えば私も30年ほど前自作で当地初めての横断幕を作った。「無双の闘魂」今思い出してもいい文句だなと自画自賛しつつも面映ゆい気もする。
 今朝I先生からfaxが送られてきた。月刊バスケの記事である。平成13年度全日本ジュニアのメンバーと松江全中準優勝の大治中の特集である。監督の鷲野君は全日本ジュニアのヘッドコーチ2年目とある。あの鷲野君が・・・よくぞ上り詰めたものだ。{詳しくは隠居のつぶやき「(30)全中準優勝に思う」を参照}
 先に(43)ミニ愛知県大会観戦 を書いたがその階上でぱったり鷲野君に出会った。
ずっと会っていなかったのであらためて全中準優勝の祝いの言葉を告げ握手した。彼は昭和の応援に来ていた。「あそこにいる177cmの昭和の子地元の子で4月から入部してくれる。大治中残り3年のうちに全中で勝負したい」と言っていた。そこへ大柄の男性がこられた。鷲野君が紹介した「この人桜花高校のガードのお父さんです」と。昭和の影響が大きいものだと感心した。
 ところで今夏の中学愛知の戦いはさぞかし激しいだろうと推察している。全中すでに優勝経験のI中学、過去何度も全中出場で最近新潟招待で優勝したN中のO女史、そして鷲野君。もしかしてこの3校から日本1が出るかも?
 それにしても久しぶりに見た鷲野君「大分肥えたな」と言ったら「先生、ストレスのせいですよ」と答えた。第3位の時、準優勝の時祝賀会の招待状が来た。老残なので辞退した。後から送られた出席者一覧表に地元のバスケット関係者が殆どいなかったのが気にかかった。

(48)こんな校長さんがいる
 昨日は寒い日だった。市のミニの小規模の招待試合があった。直ぐ近くが会場で佐屋町のミニから顔を出してくだいとメールもあり第1試合を見学した。私が昔創った町と村のミニが対戦する。村のコーチは教え子、町の方は後継者、偏った応援はできない。流石最後の試合であるのでそれぞれよいプレーを披露していた。
 市のミニはもっとも古いクラブであちこちの学校の先生たちが協力して指導しておられる。その中に昨年より校長になったK先生がいる。若いとき経験のないバスケを中学で担当し熱心にやっておられたが、なかなか上位になれなかった。私が高校の指導者と接し初めていたので紹介してあげた。すると県大会男子の部で優勝してしまった。その時のキャプテンは名電高校でもキャプテン、明治大学でも活躍した。K先生以後ずっと小学校ばかり歴任していた。そしてミニの運営も続けておられた。昨日も熱心にコートに立ってコーチしてみえた。スタッフに聞くと「校長になられたらどういうわけか凄く積極的に運営やら、コーチをされている。校長は暇なのかなー」と笑っていた。ただこの校長さんの悩みは勤務校は郡内でもっとも小さい村だがバスケのミニが存在している。そしていつも大会に参加している。児童たちが「校長先生私たちを応援しないで、市の子の面倒ばかりみている」と不満な顔をするそう。これには校長さん頭を抱えている。K校長は本当に立派な人だ。普通校長になったら地区のミニの世話なんかしないものだ。私は帰りぎわ「先生ご苦労さん。これからも頑張ってミニをやって下さいよ」と言って体育館を後にした。

(49)初めて見た中学の県大会
 40年ほど前私が村の中学にいて陸上部の監督をしていた頃かしら。名古屋でバスケの県大会を見た。会場は何処だったか何故見に行ったかは定かではない。でも当時では珍しく体育館で階上から観戦した覚えがある。そのころ私たちの地区では体育館は皆無であった。この時代県を制覇していたのは隣村の小さなH中学で3回程連勝していた。この学校バズ学習(グループ学習)の研究をしており全国に有名となった。部活も郡市大会の球技種目を全部優勝する勢い、これもバズ学習方式とか。(私の中学は水泳・体操・陸上・駅伝で優勝を)小さな村の両中学校が郡市のトップを競っていた。
 このH中のバスケの監督は野球経験者の若い先生だった。聞くところによれば私の住む市にある高校へ同窓生でなかったのにバスケを習いに行ったとのこと。強くなってからは岡崎の矢田先生のところまで生徒を連れていって指導を受けた。
 さて優勝候補筆頭のH中学は1回戦無名の学校と対戦。監督のS先生自動車学校の試験とかで後から駆けつけるとのこと。1回戦は楽勝と考えていたのか?ゲームが始まった。当然H中が圧倒すると思っていたら相手の方が得点を重ねていく。わたしはバスケは素人でよく分からない。よく見ると奇妙な戦い方を相手はしている。即ちデフェンスは4人でやっている。残りの1人は相手陣営に待っている。デフェンスリバンドで獲得したボールをロングパスでフロントへ投げる。待っていた選手がノーマークでシュート、これの繰り返しである。
 H中の選手に動揺が走る。代理監督では対応ができなかった。あたかも校内球技大会の幼稚な戦法である。遂に優勝候補敗れる。S監督が来たときは時すでに遅し。監督丸坊主になって反省したと聞く。この監督数年前に校長で退職、その時近代文芸社より「教師のつぶやき」を発刊した。異色の教師であった。

(50)ニュース
 今日倅が来て「部活の学校統合決まったよ。県大会まで有効だよ。来年は東海大会、全国大会も認められる」と。之は驚いた。倅はバスケの郡市の副部長をやっていて、先日の学校体育連盟で説明されたと。
 説明によると1.チームゲームの部活であること 2.バスケなら部員が一方が4人以下の学校 合同の対象校は5名をこえていても良い 3.合同練習が可能の所 3.合同は2校まで 4.ユニホームは2校の校名を明示すること 5.早い時期に書面にて届け許可を得ること 6.郡市以外とは合同は認めない7.原則として今後全ての大会、合同練習は土曜日に行い、日曜は行わないこと などが骨子で種々疑問点が話し合われたとのこと。
新年度から実施、いよいよ部活が変わってくる。この変革は部活を維持しようとの気配が感じられる。多分他県も同歩調でなかろうか?