第7部 隠居のつぶやき


(61)学校訪問
  先週の土曜日久しぶりに私立S校を訪ねた。私の市には公立高校は3校私立は1校のみである。このS高校一昨年より男子を募集し校名も変更された。この学校と隠居との浅からぬ関係は「今昔物語第20話」に掲載してあります。
  階段を登っていくと床を走る音、笛、声援が聞こえてくる。他地区の男女の中学生が練習試合に来ていた。私の顔を見つけると高校生が一斉に挨拶をした。前回訪問したのは4月だった。新一年生大きな子が何人もいて驚いた。近年にないことだ。ところが1年部員の姿が見あたらない。聞けば今月初めに例年のように韓国に一時留学しているのだと。そういえばいつも後から2・3年生が合流するのだが今年はサッカー・ワールドカップの影響で中止だそう。かわりに今夏は北海道遠征だと言っていた。
  今回の県大会第6位、準々決勝で桜花に106−42で破れたがまあまあの成績だった。O監督も国体のスタッフとして井上さんの手伝いをするそうだ。彼も熱心な指導者で落ち目になったS校に来てようやく昔の勢いを取り戻してくれた。この2年ほど週に2日ほど手伝いに来ていたT君、最近シャンソンのアシスタントに、テレビで見かける。まだ若いので将来優秀な指導者になると思う。
  たしか昔なかなか強くならないので韓国人のプロコーチ(李宇戴:全日本臨時コーチ:彼バスケットの本をシャンソンの中川氏と桜花の井上氏の監修で出版していた)をしばらく招聘していた。当時前の監督がこぼしていた。「李氏が、バスケ部員が授業を受けているのを不満に思っている」と。
  O監督曰く「県立T校(隠居が助言している高校)の校長さんから電話で、いちど練習試合やって教えてくれ、私が付き添うから」と。この校長さん今年度県の体育連盟のバスケ部の部長さん。凄い校長さんが転任されたことを隠居は喜んでいる。ただし指導者がいないのが玉に傷。帰り際部員たちに「昔の夢今一度」(過去インタイハイ一回出場)の合い言葉でガンバッテくださいと激励して体育館を後にした。


(62) メールの効用
  昨年4月から再び覗き始めたT高校、もう以前ほど直接指導はしなくなった。最近は時たま訪れ助言する程度。練習日程や体育館の割り当てなど聞くために、部員と交信することにした。私はパソコン、相手は携帯である。すこぶる便利である。今年1年生9名が入部した。尋ねたら全員携帯電話を持っていた。大変な時代になったものだ。そこで全員のアドレスを聞いた。いろいろなバスケの情報でも送信してあげようかと思った。ところが携帯によって受信字数が違うようである。なにかアイデアはないかと考えたすえこれは名案と気づいた。それはバスケの用語集を順次送ることだ。
  早速島根のmocchin先生に用語集をお借りすることをお願いし、6月4日から送信開始。毎回1個または2個の用語を送っている。すでに25回目になる。今日はショットレンジ(shot range)スイッチ(switch)を送る予定。これで彼女たちバスケの用語の知識では日本一になるかも知れない。あまりプラスにならないかも知れないが、少しでもバスケに関わって役立ちたい隠居の想いである。
  彼女たちは自分たちで工夫して真面目に練習している。(私が昔教えた練習内容を基本にしているが、コーチなしではなかなか難しい)。 昨春らい公式試合一度も勝ったことのない彼女たちだ、昨夜こんなメールが入った「先生勝ったよ☆73対44で♪」昨日より尾張の大会が始まっていた。1回戦3年生が出るかなり強いチームと聞いていた。監督も熱心なベテランである。大差で負けると予想していたのに。嬉しいメールだ。今夜はどんな知らせが来るか楽しみ。本当に便利な世の中になったものだ。


(63) 全中1勝の重み
  全中第3位の南陽中の大野先生からメールを戴いた。試合直後送った祝いのメールの返信でした。「やはり、最終日まで残って、閉会式に参加するというのはいいものでした。選手ひとりひとりにメダルがかけられるのを見た時、胸がジーンとしました。ベスト8は2回経験しましたが、ぜんぜんちがいます。この1勝は大きいし、この壁が厚かった・・・・・」(以下省略)
  全中での1勝は凄く重いものでしょうね。どの相手もブロックを勝ち抜いた精鋭だからです。まして決勝トーナメントでは負ければ転落、一段一段重さは倍加していきます。ベスト8とベスト4の差は格段の違いがあるようです。厚い壁を破った大野先生とチームの皆さんに心よりの賛辞を送ります。
  リーグ戦で敗れた相手とトーナメント第1試合に再び相まみえて、見事リベンジした猪子石の監督さん、この猪子石に県大会準決勝でリードを奪いながらまさかの逆転を喫した大治中の鷲野君。錚々たる愛知を代表するチームが、今回のそれぞれの貴重な体験をもとに、来年こそは全国を制覇せんと虎視眈々と刃を磨くことでしょう。頼もしい限りである。


(64)これぞ本物
  先日県立工業高校のO先生から下のようなメールが来ました。前にも書いたが10何年前私が押し掛け外部コーチをしていた時、いやいや顧問をしておられた。そして転任されてから男子の顧問になり、だんだんバスケの虜になられた。8年間で全く弱小のチームを尾張で有数なチームに育てられた。中学時代ベンチを温めていた生徒たちばかりだったが。現在男子は新任者に譲り女子を創部された。工業高校での数少ない女生徒、それも未経験に近いメンバー、来年から大会に参加予定。全く無謀な旗揚げである。事実1学期はやる気にさせるのに悪戦苦闘されたようです。
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お久しぶりです。暑さがまだまだ続いています。先生お体にお気をつけください。
たびたびメールをしてすみません。現状を先生に報告をすることで、今自分が立っている位置を確かめることができる気がするのです。自分は弱い人間なので、誰かに「それでいいんだ」と背中を押して欲しいからかもしれません。先生にメールで書いていただけたことでどれだけ勇気付けられいるのか。先生には本当に感謝しています。
立ち上げた女子部ですが、やっとこさ、メニューを渡しておけば、自分が会議中でも練習ができる状態にこぎつけました。
長い夏休みも、一人の欠席も無く、一人が一度だけ20分遅刻しただけで、信じられないような日々をすごすことができました。
明日からは、毎日5キロのランニングをすることに話し合いの結果なりました。新入生が入ってくるまでに「東京まで行こう」が合言葉です。(コートが一日30分〜45分しかつかえないための苦肉の策ですが)何処まで本気で続くかは半信半疑ですが、長い目で見守りたいと思います。
技術的にはミニバスとやっても勝てない、レイアップすらなかなか入らないレベルですが、先生から以前メールでいただいた「不利なチームで苦労することが、指導力を高める機会でもあるので、夢を抱いて頑張ってください。」と言う言葉を胸にコートに行きたいと思います。結果報告を一方的にメールさせていただきますが、ある意味で教え子の一人として長い目で私のことも見てください。
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  高校では顧問のなり手が無いという時代、O先生のような熱血先生が存在することに心強さを感じます。私は先生に次の話をメールしました。
  「名古屋経済大学の元監督、私の師匠の新井先生は、東京までの地図を書いて、毎日の走行距離を記入して走らせられた。そしてついにインカレ優勝の偉業を達成された。」O先生不退転で挑戦を。
  (今朝O先生よりメール  「・・・しかし、もともと5時までしかコート使えないことを言ったら”朝やればいいじゃん”と言うことになり今週から朝練もはじめています。・・・・」部員たちがだんだん目覚めていくのが分かり隠居も嬉しくなります。)


(65)古武術に関心のある方へ
  昨年NHKで古武術を活用した桐朋高校の金田伸夫先生の実践が、再三報道され反響を呼びました。そして最近月刊バスケに大々的に宣伝された金田先生の「バスケットボール革命」が、廉価で日本文化出版から発売されています。こういったことはすでに皆さんご承知のことと思います。
  現在日本シリーズが行われており奇跡の復活をした巨人桑田投手の活躍が報道されています。今月号Sports graphic Numberに「桑田真澄と古武術の秘密」が出ています。古武術の身体運用がいかにスポーツに役立ったかがわかりやすく出ています。一読をお勧めします。私は500円をけちんで立ち読みしました。この月刊誌のことmocchin先生の掲示板の金田先生の書き込みで知りました。
  また私の掲示板へ初訪問の金田先生の書き込みの文末に(やじうまワイドプラスに近日中に出る予定です)と書かれていました。さてこの「やじうまワイドプラス」って何だろう。テレビの番組か雑誌の名前なのか。どなたか教えて。
  実はNumberも分からずmocchin先生にメールで教えてもらったのです。今書き込みの再確認で自分の掲示板を見たら南予塾塾長さんのコメントあり。塾長さん22年前創刊号から愛読とのこと。なんと隠居は世間知らずか。
  ああ私が若かったら、そしてチームを持っていたら、いち早く古武術の導入をはかって天下にその実を問うのだが・・・。  
  mocchin先生のHP   http://black-gw.matsue-ct.ac.jp:8088/~y-mori/
  南予塾のHP      http://www.cnw.ne.jp/~morimori/


(66)原田 茂先生と語る (1)
  郡市新人戦の最終日を観る。前夜倅の電話。倅は2年ほどかけて女子の大型チームを作ったが、学校の事情で今春から弱小で問題が多い男子を担当した。勝ったことがない。グループ4つのリーグですら3位。これがトーナメントでリーグ1位の優勝候補に勝ってベスト4になったという。その上原田先生(元日本バスケ協会の理事で、強化本部長)が大治中(一昨年全中第2位)の応援のために会場に来て見えると。最初会場が遠いので行く予定は無かったが、倅の応援、原田先生との再会、全国を狙う大治中の現状把握、私が創部した佐屋・立田がベスト4で出ている等の理由で電車で観戦に行くと掲示板に書いた。これを読まれたW先生(25年前新卒でこられバスケ部の顧問にそれ以来共に歩んできた)がメールで「先生行かれるなら迎えに行きます」との連絡、厚意に甘えた。40分もかかる遠方から迎えに来ていただいた。
  会場に着いたらジャンプボールで試合開始の場面だった。壇上の倅に「原田先生来ておられるか」と聞いたら、Bコート大治中ベンチの近くの隅に椅子に座っておられるよと教えられた。早速挨拶に行く。先生の前にいき20数年ぶり、まして今眼鏡をはめていないので自己紹介をしようとしたら、先生さっと立ち上がって「先生おひさしぶりです」と私の肩を抱かれた。交わした握手、なんと柔らかく暖かいのに一驚。それにしてもよく記憶されていたかと感心した。(一部のHPに14年ぶりと書いたのは間違いでした。)
 原田先生との初の出会いは(今昔物語の第20話を見てください)
                                   続く


(66)原田 茂先生と語る (2)
  先生現在どうしてみえますかと尋ねたら名刺を出された。(財)大阪府体育協会 理事  大阪バスケットボール協会会長と印刷されていた。ゲーム進行中だったので私は舞台の上に戻った。台上に2本の優勝旗が飾られていた。私が退職時に寄贈した優勝旗だ。名前を入れないようにと固辞したが知らぬ間に入っていて面はゆい想いである。
  準決勝大治中と佐屋中の結果は1Q 25−6 2Q 26−10 3Q 26−9
4Q 27−11 結局 104−36 佐屋中は今年は全く小さい。センターも160前後、大治のセンターの肩ほどしかない。この子たちが5年生の時私はミニを引退した。現在女性の監督(教え子)が産休でご主人が未経験ながら勉強しつつ土日社会体育として面倒見ておられる。大治中の厳しいdef、素早い速攻に圧倒されていた。ちなみに決勝戦は114−15であった。尾西大会こちらの地区が上位を毎年占めている。大治中だけが聳えている。3位決定戦は佐屋ー立田いずれも生みの親の私は応援できず彼女たちの健闘を祈っていた。佐屋が勝った。このとき「先生」と呼ばれて振り返ったら立田ミニの後継者だった。自分の育てた子供たちの応援に来ていたのだ。昨年から県に登録し先日の尾張大会に出たとのこと。2回戦であの昭和と対戦76−6で惨敗したと。「先生審判も凄く昭和よりで不快だった」と嘆いていた。週4日?と2日との差だけでない優れた指導が昭和にはあるようだ。
  準決勝終わった大治中監督の鷲野君に、長野カップの結果はどうだったかと質問した。他の掲示板で児玉中、猪子石中、東京成徳中、大治中と日本トップ級が参加と報ぜられていた。彼曰く、猪子石と東京成徳と大治が3すくみだった。ケガをしたセンター抜きで。来夏県の王座争い、全中での大活躍が予想され楽しみである。
  いよいよ決勝戦はじまる。今度はAコートなので壇上から原田先生と会話しつつゲームを見た。折角の機会なのでいろいろ質問もしてみた。
                                   続く


(66)原田 茂先生と語る (3)
  原田先生に初めて会ったのは松蔭東が全国優勝していた時代で、凄いパワーと自信が全身に溢れていて意気天をつく迫力が感じられた。しかし今回の再会はかっての厳しさは陰を潜め優しさと温厚さが滲み出ていた。この間20数年の歳月、高校、大学での輝かしい実績、日本バスケ協会の強化本部長としての手腕の発揮、そして突如週刊ポストの黒い霧報道で清廉潔白なるも自ら辞職。これらの風雪を経て現在の先生の人格が磨かれたように思う。詳細な話には触れられなかったが「出る杭は打たれる」と一言呟かれたのは印象的だった。背景にかなりどろどろしたものがあったようだ。
  協会に対してはかなり厳しい指摘があった。たとえば各種登録制にしても各分野への十分な還元がないのが発展を阻害していると。また実業団、大学、高校、中学、ミニの年間計画を一本化すべきだと強調されていた。
  私が日本のバスケの将来展望はいかがかと尋ねたら、「女子実業団の上位チームのコーチが次々韓国人になっている。もっと日本人コーチを育成しなければならない」。続く質問、男子はアメリカ式バスケ、女子は韓国式のようですが、これはどう考えるべきですか。「日本はアメリカと韓国の長所を取り入れ、日本独自の指導体系を確立しなければいけない。」     続く
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別件
  昨日 上越学校体育研究会というところからリンクの依頼があり承諾しました。夜ふと上記のHPを開き資料を読み驚愕しました。
  02.10.22 / 資料に、「平成13年度講演会」を掲載しました。
   日本一の生徒を育てる生徒指導
                              大阪松虫中 原田 隆史
  驚くべき荒廃した校区、学校で陸上日本一を続けると有言実行のなかに、学習院と言われる学校に蘇生した実践。本物の指導とは何かを教えてくれる講演です。ぜひ皆さん一見して下さい。
    http://www.jpec.jorne.or.jp/


(66)原田 茂先生と語る (4)
  続けての質問「桑田巨人投手は古武術の活用で復活されたが、日本のバスケも身体運用の面で古武術に学ぶべきではないですか」「勿論そのとおりです。古武術でも拳法でも 身体運用面で立派なものがある。それらを応用して日本独特のものを、日本のコーチは組織的に協力して開拓すべきだ。」と答えられた。多分違った答えを予測していたが全く私の思いと同じであったので嬉しくなった。実は愛媛県で3人の同志の方が南予塾という組織を作り上部組織とは全く別に、ユニークな取り組みをしておられ成果をあげておられると伝えました。なお先生は大治中に対する姿勢は「中学生でもここまでやれるということを証明したい。1人2人のスーパースターがいるから強いのではいけない。スター選手がいなくても組織的なバスケで強くしなければならない。」と。
  最後に桜花の井上氏はその著作の中で「下級生を育てる: 3年生と同じくらいの力を持つ下級生がいれば、そちらを使いたい。」と言っておられるが先生はどう思われますかと尋ねた。「ではその3年生を2年間教えてきた事実は何なのか。自分の実績は無かったことになる。部活はあくまで教育であることを忘れていけない。」多分井上氏と同じ考えかと思っていたら異なっていた。いずれが是か非か一概に言えないが、立場により、目的により、人生観によって考え方が違ってくるものだなと思った。
(註: 文中の原田先生の言葉は、私が記憶した要旨で老人の記憶力の悪さで若干表現間違いがあったかも知れませんが、文責隠居でお許し下さい。)


(66)原田 茂先生と語る (5)
  決勝戦大差で大治中がゲームを進めるのをみて「相手チームもほんの少しポイントを指導すれば、もっと点数差は縮むよ。結局コーチの勉強が必要です。特にセンター8番は良い素質を持っている。」と何度も言っておられた。私は後でコーチに「原田先生が8番の子を誉めておられたよ。天下の大先生に才能を認められたと本人に伝えてやって下さい」と伝えた。きっと8番の子は今後バスケがますます好きになり、優れた選手になることでしょう。
  決勝戦が終わって先生が帰られるとき私は「先生一日も早く最前線に復帰し、日本バスケのために活躍してください」と言葉を贈った。先生は「月に何度も来るから先生も顔を出してください」と言葉を残し去って行かれた。とても隠居が顔を出す時代でないとは思いつつも、優しい言葉に感動した。
  大会会場にたまに顔を出すと懐かしい先生たちに出会うので楽しい。もう数年前に退職し未だにミニをやっておられる先生もしばしば顔を見せられる。私がミニをやった年齢までやると言っておられた。しばしば入院を繰り返しておられるのにこのファイトに刺激を受けた。


(66)原田 茂先生と語る (6)
  昨日の朝大阪の主婦コーチの方から初めてのメールが入っていました。   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  今年『C級バスケットボール指導員』を受講することにしました。〜11月6日(水)は第一回目の講習会。原田茂先生が講師でした。大学時代、ベンチで叫んでおられる原田先生をお見かけしましたがお話したことはなく、昨日初めて間近でお話を聴くことができました。とてもわかりやすく、またバスケットボールを心の底から愛しておられることが話の節々に感じられて、大変有意義な、楽しい時間を過ごさせていただきました。と思っていたら、愛知のご隠居さまが伝言板で原田先生のことを書かれているのを見て、思わずメールしてしまいました。本当に突然で申し訳ありません。
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  やはり私だけでなく原田先生の雰囲気は暖かく素敵のようです。
  さて今ひとつの観戦目的だった倅の準決勝、3位決定戦だったが2敗しました。やはりメッキが剥がれたようです。前日は優勝候補をセンターをうまく押さえて勝ったがそううまくいかなかった。ただ速攻の速さ、果敢なパスの積極性を見て今後の成長に期待がもたれる。しかしノーマークのシュートを次々落とす醜態は、基本練習の不足を露呈していた。夜倅からメールがあった。
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  「開校21年目にして初めての賞状です。何かとトラブルの多い子たちがここまでやってこれた。少しずつ真面目になったことが一番嬉しいです。制服も標準になおしています。課題は多いですが頑張ります。」
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  私はこれを読んで凄く満足した。倅は本物を求めていると。ともあれ今回の新人戦は私のとってとても有意義な大会であったと。
                                   終わり


(67)大玉さんとの出会い 1 (11月17日記す)
  夏にT高校の体育館に校長さん(愛知県高体連バスケ部長)の友人コダマ氏がこられた。氏は身長2m近くある痩せ気味の白髪のかかった方でした。2,3日前その話は聞いていた。どうも昔有名な選手だったらしい。あいにくその場に校長さんはいなかったので軽く会釈を交わした程度だった。その後近くの中学の校長(大学でバスケ部員)さんに会ったら「それは大玉児玉で有名だった人だよ」と言われた。先だって南予塾の幹部の方の書き込みが下のようにあった。
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  あの時代は良かった 投稿者:BBマッドおやぢ  投稿日:11月 8日(金)09時33分18秒
  そういやぁ大学1年の時アジア選手権見に行ったよな、大玉、児玉、谷口に五十嵐・・申東波にフレディ・ウェブ・・アジア1位になったんだもんなぁ。先年谷口さんと会食する機会があり、あの時の試合の話で盛り上がったけど・・(註 大きい児玉、小さい児玉という意味らしい・・隠居)
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  この投稿は今回のアジア大会での日本の不振に対してのものです。これを読んだとき児玉氏はアジア大会の選手で優勝していたんだなと知りました。「おやじさんが」大学1年というと31年ほど前、私がバスケに縁が生じたのが33年前、バスケヨチヨチの時代、児玉氏の記憶は皆無であった。
                                   続く


(67)大玉さんとの出会い 2 (11月18日記す)
  訂正:昨日この題名で全国へ発信したら南予塾の掲示板に幹部の方からの補足の記事がありました。
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  補足 投稿者:BBマッドおやぢ  投稿日:11月17日(日)18時57分04秒
  大玉さんは本当のお名前は小玉さんといわれます。小玉、児玉と二人いらっしゃったのでサイズから(児玉さんは170cmくらい)大玉、コ(児)玉と呼ばれていたようです。東京教育大から日本鉱業(現ジャパンエナジー)で活躍されました。
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  大玉・児玉 投稿者:南予塾塾長  投稿日:11月17日(日)17時08分16秒
  そうですその大玉さんです、いまから三十年前に195cm以上の長身並外れた運動能力のかたでしたとにかく大きいのに動けてディフェンスがすばらしい選手でした。あのアジアのシューター申東波選手のアウトサイドのプレイを押さえ込んだディフェンス力は素晴らしかった!この話にうんうんとうなずく方いらっしゃいませんか・・
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  ところが一昨日高校に顔を出したら「明日小玉先生が再度見える」と聞いたので昨日体育館に行った。今度は校長さんと一緒に来られたので校長さんにお互い紹介された。クリニック中校長さんに小玉氏との関係、その履歴を詳しくお聞きした。「彼は東京教育時代の親友で卒業論文も彼がオリンピックで多忙だったから、私が殆ど書いて二人の連盟で提出した。世界大会、オリンピック、アジア大会、大きい大会全てに出ているよ。バスケを離れて会社勤務、そして定年を迎え、今後のことを考えたとき、自分の今日あったのはバスケのお陰だ。今後バスケ発展のために尽くしたいといっているよ。それで現在早稲田大の女子の監督が知人なのでそれを手伝っているそうだ。」当時の身長は196cmだったそう。あのころそんな大きなバスケ選手はさぞ珍しかったでしょう。
                                   続く
  (南予塾http://www.cnw.ne.jp/~morimori/ )


(67)大玉さんとの出会い 3 (11月18日記す)
  校長さんが昼食にちゃんこ鍋を食べようと誘われたのでご相伴にあずかることにした。食事をしながらいろいろバスケの話しに花が咲いた。ちょうど持っていた「おやじさんの」メモを見せたら「厳密に言うとアジア大会にはこの児玉の方はいなかったよ」と言っておられた。また「私たちの全日本の合宿は7回やったが1回が10日間。かなり厳しく競争が激しかった。」ついでだがここの店は元大鵬部屋の力士だった。食事中相撲甚句が鳴りずめだった。もっと話をしたかったが午後の練習試合があったので早々引き上げた。  午後名古屋の高校が来校。ここの監督さん教頭で校長さんの後輩だそう。審判は校長さん、ベンチのコーチは外部講師(私のミニの後継者、土日に指導)、コート際では小玉氏凄く豪華でまた奇妙な光景である。偉大なバスケの大先輩から指導された部員たちはなんと幸せなんだろう。短時間のコーチングでは目に見える効果は少ないであろう。しかし彼女たちの心に点じられた希望の灯は消えることなく燃え続けることであろう。行動範囲が極めて狭い隠居ですが次々と優れた方たちに奇しくもお会いできてとても嬉しく思う日々です。
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  最後に私が文字を間違えていた本物の児玉氏についてmocchin先生の書き込みを掲載します。
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  投稿者:[mocchin]
 投稿日:[2002/11/17(日) 21:13]

  私は45歳ですが、大玉・小玉さんの記憶があります。
  大玉さんは小玉さん、小玉さんは児玉さんとややこしいのです。
  児玉さんは松江第一中学、松江工業高校、明治大学、日本鉱業でプレーされていました。松江工業高校で指導しておられた渡辺晴夫先生から児玉さんの逸話をいくつか聞かされました。島根県でも伝説の人です。
  (mocchin先生http://black-gw.matsue-ct.ac.jp:8088/~y-mori/ )


(68)高校日本一?
  6月の始め時々覗きに行く高校バスケ部員に何かしてあげれないかと考えた。退職後村と町にミニを創設し、そのうえこの高校を数年指導した。一応地域のトップレベルに育ったので手を引いた。その後何年かたちミニを引退して再び高校を覗いた。もう昔のように面倒が見られない。チームは全く退潮ムード。少しずつ助言していたらようやく尾張地区の上位の力量を備えてきたようだ。そこで思いついたのがメールの活用だった。
  尊敬する島根県バスケ理事長、松江高専助教授の森山先生のHPにあるバスケ用語集のことである。この用語をメールで部員たちに送ってはどうか。早速森山先生に転載の許可を得た。携帯の文字数の制限もあるので、毎回2〜3個を送信することにした。第1回目が6月4日でした。
  本日11月28日第62回目最終回を送った。私自身知らない語句がたくさんあって勉強できた。彼女たちもバスケ用語を多く知ったと思う。おそらく用語については高校日本一でしょう。隠居が今できることはこんな程度です。
  次のような用語ご存知でしょうか。エントリーパス(entry pass)オペレーシゾーン(operation zone)クローズアップショット(close up shot)ショットレンジ(shot range)スクエアーアップ(square up)スタガードスクリーン(sttagered screan)スポットパス(spot pass)ターゲットハンド(target hand)・・・・・・・
  「森山先生有り難うございました。お陰で彼女たちとのつながりが太く強くなりました。この頃はメールでネットや雑誌から得たバスケの情報も送信しています。」
  参考:森山先生(mocchin先生)のHP  http://www2.matsue-ct.ac.jp:8088/~y-mori/

  先生は「ミニバスケットボール指導ガイド」という53分のビデオを営利目的でなく原価の半分4000円で出しておられます。(本来は県内用でした)説明書も別にあるようです。今東北あたりでも大人気です。一見の価値があります。


(69)若き高校教師
  先日郡内の公立高校のバスケ部監督の先生の訪問を受けた。ほんの少し前息子より学校に挨拶に見えた先生が親父さんの所へも顔を出したいと言っておられたので、住所を教えておいたと。我が家よりは10Kmほど離れており戦後創立された学校である。
  中国地方の県の出身で今年度赴任されたばかりで地縁もなく、バスケを頑張ってやりたいのだが中学に知人もなく困っている。現状は男子は部員2名女子は5名しかいない。小柄ではあるが堂々たる体躯、若さが溢れていて「僕がこの学校へ来たのはバスケをするために来ました」と言っておられた。今時こんなファイトの教師は珍しい。学校全体も停滞気味で部活に対しても意欲がない。生徒指導の担当でもあるので学校の活性化に頑張りたい。そんな話を聞くうちに益々嬉しくなる。私の顔を出している高校はバスケの顧問のなり手はいない。部員は1,2年で22名もいてかなり有望なのに。この間の選抜地区予選でこの5人のチーム第6位だったそう。感心なことだ。
  これから中学校を訪れ挨拶に回ると。少し知人を紹介しておいた。帰りにビデオ3本(mocchinn先生、金田先生、甲野先生のビデオ)をお貸しした。また教えてもらった先生のメールに、私が交流している方たちのHPのアドレスをメールで送信しておいた。
  不思議なことに「つぶやき(64)これぞ本物」で紹介した県立工業高校のO先生、数名の女子部員でバスケ部創立に今必至に努力しておられる。このO先生と彼は同じ 教員住宅に住んでおられるとは。まだまだ日本は大丈夫だ。こんな意気軒昂な若き教師が各地に多く見えるはず、ぜひバスケ部を充実し学校再生のために立ち上がってもらいたいと願っています。


(70)嗚呼あの子が
  中学最初の教え子恵子さん(仮名)がやってきた。間もなく60才だという。彼女どういうわけか娘時代、世帯を持ってからも、母となってからも、そしてお婆さんになっても、時々遊びに来てくれてた。8年ほど前は私の健康によいと言って、浄化した水を何回も運んできてくれた。また退職したときは別席を設けて彼女たち4人で祝いをしてくれた。その彼女が言う「先生加代ちゃん(仮名)に何処かへ行こうかと家に電話したら、娘さんが母はいないと言う。歯切れが悪いので問いただしたら6月頃から入院していると言う。あの子先生の体操部で活躍した子、ともあれ先生にお知らせする」と。これには驚いた。加代は遺児で戦争未亡人の母親が義母の面倒をみつつ立派に高校を卒業させた。後良縁に恵まれ結婚2人の女子を産む。勿論孫がある。主人は社会的には名士であり、幸福な家庭だった。
  加代は体操部創部(今昔物語 第24話)の2年目に入部してきた。夏休み炎天下の大会で初めて総合優勝し、彼女が平均台での演技が新聞に大きく出た。その彼女が大病で入院していると。翌日早速病院へ。なんと私が白内障の手術で1週間入っていた同じ5階にいるではないか。突然の私の見舞いにびっくりしていた。少し前には三途の川を渡りそうだったという。頭は帽子をかぶり頭髪を隠していた。顔色は悪かった。でも声はしっかりしていた。もう退院できるかと毎月思っていたがずるずる12月まで。多分間もなく自宅療養になるらしいと喜んでいた。
  「まだまだ娑婆でする使命が残っているから、病気に勝て!私のパワーでどんどん元気になるぞ。朝夕の祈りに加代の快復を念じよう」と別れに告げたら、加代は私の手を両手に握って「先生有り難う、有り難う」と何回も繰り返した。世の中うまくいかないようだ。あの元気いっぱいだった中学時代の彼女、でもきっとあのファイトでこの難病を乗り越えると思った。