昭和47年1月24日、グアム島の密林の中から28年ぶりに旧日本兵が発見された。昭和19年に戦死していた人物の生還は、戦争が終わり自由を謳歌していた社会に大きな衝撃を与える大事件であった。
その人物こそが元日本兵、陸軍軍曹「横井庄一」である。
その頃、私はまだ幼くて、父と母との間にどういう事情があったのかわかりませんが、母は生れて三ヶ月にしかならない乳のみ児の私をおいて、実家に帰ってしまいました。
洋服屋の父は、私のことなど構わないため、祖母 (父の母) が、近所に貰い乳をして歩いたあげく、たまりかねて母の里へ母の留守をねらって赤ん坊の私を置いて行く、一方母は、再婚に差しつかえると考えたのか、また私を父の方へ返しに行く、そんなことが何度かあった後、とうとう私は、最終的には母の方に引きとられて育てられました。
その当時、私の母の里は、母の両親はすでに亡く、母の姉で私には伯母にあたる人が、もう主人もなく、あきゑ、キヌ、という二人の娘と、女ばかり三人で暮しておりました。
横井庄一手記「明日への道」
この文章は、昭和49年に発行された「明日への道」の中で、横井庄一さんが私の生い立ちとして本の巻頭に記したものである。
この中に書かれている横井さんの母の里が、私「大鹿 一八」の家である。ここに書かれている横井さんの伯母が「はる」で、その娘「キヌ」が私の祖母にあたる。
横井さんは、大正4年3月31日に愛知県海部郡佐織村大字見越で、父親「山田庄七」と母親「大鹿つる」の長男として出生した。横井さんの手記にあるように、両親の離婚によって幼少の頃から母の実家である大鹿家で育てられた。
その当時、私の母の里は、母の両親はすでに亡く、母の姉で私には伯母にあたる人が、もう主人もなく、あきゑ、キヌ、という二人の娘と、女ばかり三人で暮しておりました。
現代では、離婚をしても何もいわれませんが、その頃 (大正の初め) は、「出戻り」などと、人に後ろ指をさされて女性は大層肩身の狭い思いをしたものです。
それで母も実家には居辛くて、ひとり、街へ、女中奉公にでてしまいました。後に残された私は、私のいとこになる、あきゑ、キヌ姉妹が可愛がって育ててくれましたが・・。
横井庄一手記「明日への道」
横井庄一さんは、母「つる」が正式に協議離婚の届けを出した、大正7年10月の1ヶ月後になる大正7年11月12日に海部郡神守村大字越津26番地の「大鹿庄一」となった事が津島市の大鹿家の戸籍謄本に記録されている。
左の写真、右側が横井庄一の母『つる』、左がつるの姉『はる』である。『はる』は私の父の祖母にあたる。
私は、小さい時から、親も、兄弟もなく、自分の家とてもないひとりぼっちの寂しい境遇で、よく友だちからも「親なし子」と馬鹿にされ、いじめられました。
自然私は、消極的な、おとなしい、無口な子供になり、みんなから私の名前、大鹿
庄一をもじって、「オシか、ツンボか、庄一か」とはやされるほどでした。
子供心に人知れずどれほど口惜しく思ったことか、そして人並みに、親と一緒に暮せる生活を幾度夢みたことかしれません。
横井庄一手記「明日への道」
横井さんの話では、男の同級生からは、からかわれたりいじめられたので、自然と幼なじみの女の子たちと遊ぶ事が多かったと聞かされた。又、母親の奉公先に出向いて一緒に生活した事もあったと聞いた。現在の津島市の片町の「○×」に居た事があると聞いたが、本人が亡くなった今となっては定かでは無いが、いいかげんに聞いていた自分が口惜しく感じる。
当時の同級生の古老からは、横井さんがよく学校を休んだとの話を耳にした。当時の我が家は、女3人と横井さんの4人家族で生活も苦しかったため、男の横井さんは子供と言えども貴重な存在で、農繁期には学校に行けなかったようである。
私の祖母「キヌ」は、昭和8年7月に4人の幼い子供を残したまま、交通事故で名古屋市中区矢場町で亡くなっている。私の父の5才の時である。横井さんにとって「キヌ」は姉のような存在で、母親よりも多くの時間を共にしたため、思い出話や祖母の葬式の時の様子は詳しく聞かせてもらった。
私が十二の時に、母が再婚しました。母の再婚先には子供がなかったので私も一緒につれられて行きました。
「ああ、やっと母と一緒に暮せる、自分の家もできる」
と、喜んだのも束の間、やはりそこも、私にとって安住の場所ではありませんでした。新しい義父は、とてもよい人で、ひとから「仏の重三さん」といわれるほどでしたが人が好すぎるために押しがきかず、まわりの人たちに、母も、連れ子の私も、ずいぶんひどく扱われました。ことごとに苦労する母を見るにつけ、「こんなに口惜しく、辛い思いをするぐらいなら、母はなぜ、再婚なんかしたんだろう。もうあとわずか二、三年の辛抱で、自分が学校を卒業したら一生懸命働いて親子みずいらずでも幸せに暮せたものを」と心の中で、何度思ったことかわかりません。
横井庄一手記「明日への道」
私(大鹿 一八)には4人の子供がいる。我が家で法要が営まれた時、私の父が横井さんに、「こいつはヨゥ、たくさんの子供がおるで、庄一ッア、誰でもいいでヨゥ」と冗談で養子話をした事があった。
「時義、おめーはいいけど、子供の身になったらそんな事できる話じゃーないよ。自分がそういう目にあって悲しい思いをした事を、またさせる事はできるはずないじゃないの」と、私の父をたしなめた事があった。母の再婚でついて行った横井家でも、学校だけでなく、親族ですら、良い思い出話は横井さんの口から聞かれなかった。
昭和四年三月、私は、冨田高等小学校を卒業しましたが、正直な気持ちとして、家にはいたくありませんでした。しかし母は手元から離したがらず、母のすすめで約一年間、家から愛知速算学校へ通いました。私は昼夜の部ともに通い、教師免状を取りました。その間に父母と私との間で、私の将来について、いろいろ相談し合い、私としては、「アヒルの子は生みっぱなしにされても育つ、自分は洋服屋で身を立てたい。縁のうすい実父(実父は私の数え七つの年に亡くなりました)ではあったが、草葉の陰で私をたすけてくれると思う」と決心をのべ、しかも「名古屋にいては両親への甘えが出て、せっかくの志の邪魔になってはいけない、できることならよその土地へ出たい」と希望し、母の反対を押しきって、義父の世話で、豊橋市の花井洋服店へ奉公に出ました。
横井庄一手記「明日への道」
幼くして別離した横井さんの実父は洋服の仕立て屋をされていたと聞く。本の中では、豊橋の花井洋服店へは義父の世話でと記しているが、事実はちょっと違っている。
豊橋の花井洋服店には、我が家の近所に新家として分家した大鹿家から、横井さんの奉公する以前から大鹿則吉という人物が奉公に出ていた。私はこの人の関係で花井洋服店に奉公に出たと新家の家族とか親族より聞かされている。
横井庄一さんは、昭和5年から豊橋の花井洋服店に勤め、昭和11年に実家にて洋服仕立て業を始めた。昭和13年5月に臨時召集により輜重兵第3連隊(名古屋)に補充兵として入隊。翌年3月に召集解除となり、実家で洋服仕立て業を再開していたが、昭和16年8月に2度目の臨時召集をうけ9月には輜重兵第29連隊(満州奉天省遼陽)に転属された後、昭和19年3月にグアム島に上陸している。
グアム島から28年ぶりに奇跡の生還を果たした横井さんの強い精神力を、私は幼い少年時代の苦しい生活にあったと推察する。
横井さんの少年時代を知る人々は、もうほとんどいない。しかし、数年前までは横井さんが小学校5年生まで学んだ神守小学校時代の同級生がたくさんおられ、「おい、庄一は元気にしとるか」などと話しかけられたものである。
横井さんが亡くなって7年が経過した今になって、もっと話を聞いておけばよかったと後悔している。考えてみると、横井さんは我が家で「大鹿
庄一」として、小学校5年生まで生活している。私の会った事もない祖母や、戦死した伯父の事は私の父以上に知っていたはずである。亡くなる年の病院のベッドで横井さんは当時の事を詳しく話してくれた。私のまったく知らない、当時付き合いのあった親類の話を聞いた。横井さんは何でも知っていた。しかし、横井さんが亡くなった今となっては聞くすべは無い。
我が家の歴史としても、残された資料や手紙から、横井さんの少年時代を振り返って検証していきたい。
平成16年2月
関連ページへつづく(リンクしています)