パセーナディ大王との出会い

 

 

 

 釈迦はシラバスティーに行く途中、カピラビッツに立ち寄る事は無かった。カピラ城の王であるスッドーダナ王は、悲しんだ。

「カピラヴァツスはラージャグリハからシラバスティーに移る時、少し寄り道すれば立ち寄る事が出きるではないか。どうしてゴーダマは……。」

そう言うスッドーダナ王の顔は苦悩にゆがんでいた。妻であるヤショダラの悲嘆に暮れていた。

 

このようなカピラヴァツスの人々の心を知ってか、知らずか、釈迦はシラバスティーの町に着いた。シラバスティーはマガダ国のラージャグリハと並ぶ、インドの大都市である。シラバスティーの町は、五つの山に囲まれ、外的に対して堅固な地形を有している。また、現在でもインドでは数少ない温泉が沸き、地下水など水資源も豊かな知であった。

 

釈迦はシラバスティーの祇園精舎に着いた。祇園精舎の東門はジェーダ王子が寄進したものであり、特に壮大、華麗を極めていた。

釈迦はその説法の時、いつも西に座り、東を向いて説法した。その為に東が最も重要な門となったのである。

 祇園精舎に入った釈迦は、休む間もなくシラバスティーのパセーナディ大王に到着の挨拶に出向いた。

「私は、大王と同じ祖先を持つ、釈迦族ゆかりのものです。どうか、このコーサラ国に仏教の布教をお許し下さい。」

すでに、コーサラ国では仏教は民衆の間に少しずつ浸透していた。また、ジェーダ王子からの報告も聞いていた。

「釈迦の悟りはこのコーサラ国にも伝わっている。わしもお前の教えを聞きたいものだ。」

「私は人々に私の悟りを広める為に、この祇園精舎に参りました。私は国王であろうと、クシャトリアであろうと、ヴァイシャであろうと、スードラであろうと、私の悟りを求める人には平等に悟りを示すつもりでいます。もし、大王が私の悟りを聞きたいとお思いになられたら、何時でも精舎に来て下さい。」

そう釈迦が言うと、パセーナディ大王に深く礼をして城を立ち去った。

 

 翌日、多くの兵を従えたパセーナディ大王が祇園精舎の釈迦の下を訪れた。その時、釈迦は菩提樹の下で禅定していたが、弟子がパセーナディ大王の来訪を伝えると、ゆっくりと祇園精舎の講堂に向かった。

 

すでにパセーナディ大王は講堂に着座していた。ゆっくりと釈迦が座ると、パセーナディ大王は釈迦に合掌した。合掌が終わると、パセーナディ大王は釈迦に言った。

「今日は、貴方の悟りを聞きに参りました。どうか私に仏の道をお教え下さい。」

その言葉を聞いた釈迦は言った。

「貴方はこの世界で一番力を持った国の大王ではありませんか。どうして私が貴方にお教えする事がありましょう。」

この当時のインドでは、コーサラ国が最も有力な国であり、マガダ国はまだ新興の国家に過ぎなかった。釈迦の言葉にパセーナディ大王は沈黙した。パセーナディ大王は沈黙の中でその顔は苦痛に歪んでいた。最初に言葉を発したのは釈迦であった。

「どうして貴方はこの祇園精舎に来られるのに、このように多くのクシャトリア達といらっしゃるのでしょうか。」

この釈迦の言葉はパセーナディ大王に、その苦悩を自ら言わせるきっかけとなった。

「お釈迦様、貴方が羨ましい……。」

パセーナディ大王のこの言葉に釈迦は黙っていた。釈迦にはパセーナディ大王の苦悩の総てが解っていたが、決して言葉に出さなかった。もし釈迦がパセーナディ大王の苦脳を言い当てれば、釈迦は偉大な予言者としてパセーナディ大王に尊敬されるであろう。しかし、釈迦はあえてそれを言わなかった。バラモン教徒に対して決して論争を挑まなかったように、パセーナディ大王に対しても自分の口からその悩みを打ち明ける事が、苦から逃れる最善の方法であると思っていた。しかし、それは相手により違う。相手があまりにも無知な場合、釈迦から説法せねばならなかった。しかし、パセーナディ大王は優れた仁徳を備えていると釈迦は本能的に思った。それは、もしパセーナディ大王が無知な人間であれば、昨日釈迦がシラバスティーの城を訪れた時に、釈迦に尋ねたであろう。しかし、大勢の家来がいる城では尋ねず、わざわざ祇園精舎を訪れて、一人で釈迦に教えを乞うのは、パセーナディ大王が真に悩んでいるからであった。

 

インド一の大国である、コーサラ国の大王が真に悩むということは、パセーナディ大王が英邁な大王であるという何よりもの証拠であった。パセーナディ大王が英邁である以上、釈迦は自分の口でその悩みを発する事、その事がパセーナディ大王を救う一番の道であると思ったのである。黙っている釈迦にパセーナディ大王は言った。

「この祇園精舎は、この世のものとは思えません。鳥がさえずり、草木は繁り、ここにいる修行者たちはすべて仏の顔をしておられる。」

その言葉を聞いた釈迦は、パセーナディ大王に尋ねた。

「どうしてこのような所に多くのクシャトリア達を連れてこられたのでしょうか。」

その言葉を聞いたパセーナディ大王はしばらく黙っていたが、ゆっくりと釈迦に言った。

「私が大王の座に就いてから、心の休まる暇がない。何時毒をもられるか、何時敵に教われるか・……。」

釈迦はパセーナディ大王に言った。

「だからこそ多くのクシャトリアたちに大王は守られているのでしょう。」

パセーナディ大王は首を横に振って言った。

「多くのクシャトリア達に守られれば守られるほど不安が積もります。私の部下のクシャトリアが敵であるマガダ国に内通して、私を襲うかもしれない。私を警護するクシャトリアが多くなれば、多くなるほど私のますます不安は増すのです。」

その言葉を聞いた釈迦は言った。

「では、今の大王の不安はどうでしょうか。」

パセーナディ大王を護衛する千人ものクシャトリアの大部分は祇園精舎の外で待機していた。祇園精舎の中に入った数人のクシャトリアも、この釈迦と対面している講堂の外で待機していた。この講堂にいるのは、釈迦とパセーナディ大王ただ二人きりであった。パセーナディ大王が言った。

「この精舎にいると、すべての不安が立ち去ります。」

「どうしてこの精舎で大王の不安が無くなるのでしょうか。」

パセーナディ大王は黙っているばかりであった。黙っているパセーナディ大王に釈迦は言った。

「大王が不安に思われるのは、何時隣国のマガダ国から攻め込まれるか、そればかりを考えているからでしょう。また、自分を警護するクシャトリアが多くなればなるほど、何時、クシャトリアが自分を殺めるかを危惧するのでしょう。しかし、この祇園精舎は修行僧の集まる精舎です。決して大王を殺めることは無いでしょう。だからこそ、大王は不安が無くなるのです。」

パセーナディ大王は黙っているばかりであった。黙っているパセーナディ大王に釈迦は言った。

「おそらく同じことをマガダ国の大王も思われているでしょう。お互いにお互いを恐れているのです。だから、お互いにすきあらば、隣国に侵攻しようと思っているのです。」

「では、私はどうすれば良いのでしょう。」

「仏の前では、バラモンもクシャトリアもヴァイシャも、そしてスードラもありません。もし、大王がマガダ国を滅ぼしても、そのことは仏の前では何の価値もありません。」

「しかし、私にはコーサラ国の大王として、祖先の為に、この国を守るという義務がある。」

「そのコーサラ国を守るという義務が、隣国のマガダ国を侵略しようとする事となっているのです。マガダ国の大王であるビンビサーラ大王は、パセーナディ大王がマガダ国を侵略しようとする意思が無い以上、決してコーサラ国を侵略しないでしょう。」

この釈迦の言葉にパセーナディ大王は笑顔を見せた。コーサラ国は当時のインドでは最も強力な国家であったが、ガンジス川流域の商工業の利権を得たマガダ国の恐怖を恐れていた。パセーナディ大王にとっては、釈迦はマガダ国からの友好使節団でもあった。安堵したパセーナディ大王に釈迦は言った。

「悪魔は決して心の外にいるのではありません。悪魔は自分の心の中にいるのです。」

 

仏教の他の宗教と最も違う点は、その最高神である仏が、人間の心の中にあると言う事である。従って悪魔も人間の心の中に巣くっている。この意味では釈迦がパセーナディ大王に言った事は仏教の真実であった。しかし、この釈迦の言葉はそれ以上に深い意味があった。そのことはパセーナディ大王には、到底気付く事は無かった。当時のインドで最強のコーサラ国が、結果的には新興のマガダ国ではなく、コーサラ国の内部分裂で衰退する事となるのである。しかし、この時のパセーナディ大王に知る由も無かった。