019:ナンバリング



 スローモーション。
 目の前をふっとんでいったのは、実の身体だった。
「……ボケが。ナメた真似、言うんじゃねぇよ」
 暗い室内に響いた声は、たぶん、目の前の男が発したもの。 
 しかし、そのとき。俺にはまったく現実感がともなってなかった。
 防音完備のこの部屋で、コトに及ぼうとした経緯、それすらも ―― 。


 いま俺がいる場所は、むかし軽音の部室として使われていたという、今は立ち入り禁止のコンテナ。
 そして壁際で気絶しているのは、中学のときからなぜかよく一緒にいた実だ。
 俺らには達彦という男友達がもうひとりいて……和真とは高校のとき、あいつを介して知り合ったんだった。
『和真がさぁ』
 それからずっと達彦が、繰り返しその名前ばかりを言うことに、俺たちは苛立っていたのかもしれない。
 いつもいつも、会話のはじまりは同じ。
『きっとタツのやつ、アイツのこと好きなんだぜ〜』
 よく冗談めかして、実はそう笑っていた。多分に思春期らしい感情があってのことだろう。
 でもそれはきっと、事実だった。性的欲求があったかは知らないが。
 だというのに、和真はロクに達彦のことなんか見てなくて。
 少なくとも、俺にはそう見えたんだ。
『一回試してみたいと、思わないか?』
 その言葉を発したのは、確かに実だった。

 けれど挑発したのは、俺だったのかもしれない ―― 。

「うわっ! え……?」
 赤色の掌が、鋭い音とともに目の前を流れていった。頬が熱い。どうやら俺は、一撃ひっぱたかれたらしかった。
「ノセられやがって……」
 コンテナボックスの鍵を吹き飛ばして入ってきた男は、和真が最近追っかけまわしているという、文芸部の先輩だ。その男が、いま和真をかばうように、俺の目の前に立ちはだかっていた。
「いや、ノセたのはてめぇかもな」
 どうして、そう思うんだよ。あんたなんかに、なにがわかる。 
 クッと皮肉げに歪められた顔を、俺はこぶしを握りながら、必死に睨みつけた。
「せ、んぱい……、うわっ!」
 実に押し倒されていたせいで、まだ動けなかったのか。和真はようやく、わずかにその身体を起こした。
 その方向を見ることなく、この男は着ていた白い上着をあいつに投げかけた。
(……血?)
 扉を破るときにでも、怪我をしたのだろうか。さっきの掌も、確か同じく赤かった。
 上着についた、強すぎる色。そんなどうでもいいはずのことが、目に灼きついた。
 そのまま俺は、この男から視線を外せずにいた。
(なんでそんな目で見るんだよ……)
 表情は険しく、口元は嫌みなほどに嘲っている。
 けれど、その瞳は。
 哀れむような色こそあれ、決して蔑みではないものに彩られていた。
 まっすぐに見下ろしてくるまなざしに、俺はようやく自分が床に座り込んでいたことに気づいた。
「お前がしたいのは、なんなんだよ」
 順序だてて言ってみろ。
 特に近づかれたわけじゃないのに、壁へと追い詰められていくようだ。俺は必死に後ずさった。
「もし、お前がこいつ自身を傷つけたいなら、かまわないさ。手段を選ぶ必要なんかない」
 淡々とした口調は、より俺を縮こまらせる。
「ヴォーカルおろしてやりたかったってんなら、それでもいい」
 ジャリ、と。革靴がコンテナの床を擦る音が鳴った。もはや逃げることもできない。
「ただヤリたかったんでも、いい」
 こいつが俺に言ったようにな。
 靴先だけで実を示し、この男は即物的な表現を発した。
 そして、続けざまに罵倒がくるだろうと思った瞬間。男はその口を引き結んだ。
 なぜかほんの一瞬だけ、痛そうな顔をして。
 けれどそれは幻だったかのごとく、かき消えた。
「だが、それもこれも」
 残ったのは、天を仰いでの吐息ひとつ。
「お前の気がすむんならだ」
 ビクリ、と。俺の肩は、無意識のうちに跳ねた。視線はもはや床へ落とすしかなかった。
 その様子にも、相手の言葉はとまらない。
「本当に、こいつに何かしたかったのか?」
 真上にある顔は、限りなく無表情。けれどその目は俺の中までえぐってくる。
 どうして、俺も気づかないふりしてたこと、気づくんだよ。
「ホントのガキじゃあるまいし、相手、まちがってんじゃねぇよ」
 ザクリと刺さった。
 すべて見ぬかれていたのだ、この男には。
 どうしてか知らないが、泣けてきた。子供のように。
 ぼやける視界のなか見上げた顔は、けれど呆れの表情ではなかった。
 見守るような、少しだけあたたかな瞳。
「もし、そうだったら……いいのかよぉ」
 最後の足掻きとばかりに、俺はゴネてみた。そうでもしないと、ますます泣きそうだったんだ。
「……ああ。だが、そのときはな」
 すっと眇められたまなざし。チャチなブリキのゴミ箱が、次の瞬間、ふたつにへしゃげた。そして実のそばへと落下していく。
「こうして俺にも、行動の自由はあるってことだ」
 派手な音とともに、元へと戻った表情。そして鋭い蹴りを見せた足は、ゆっくりと床へ下ろされていった。
「あ、いたた……」
 俺たちのやり取りが終わるまで待っていたわけでもないのだろうが。投げられた上着を着こんだ和真は、男の影でゆっくり立ちあがった。大きすぎる上着は、釦のはじけとんだシャツを完全に覆い隠している。
「先輩、その手……っ」
 第一声は、それだった。俺という存在には、目もくれない。
「ああ? 気にするな、こりゃキーボードのせいだ」
 和真があせるのも道理だ。上着をかけなおせば、また白地に赤がにじむ。
 どうやら爪が割れているようだ。ロクな明かりもなければ窓もないコンテナとはいえ、その手がひどく血まみれなことを、いまさらながらに認識させられた。
「はやく、消毒しないと……」
 慌てふためいたのは、俺も同じだ。しかし彼は、気にするなと、片手で制してきた。
「書きはじめると、いつもこうなんだ」
「 ―― ! 書きはじめって、もしかして」
 苦笑してみせた相手に、和真はその顔を花のようにほころばせた。
 書く ―― ただ、それだけのことで喜ばせるのか、この男は。
(かなわない……)
 俺たちが何をしたところで、こいつを傷つけることはできなかったというのに。

『おいらって、やっぱりこういう人間なんだ』

 諦めたような目だけを、見せていた。少しでも抵抗してくれれば、救われたのに。
 達彦を無視したから、腹が立ったんじゃない。達彦すらもを、無視したからだ。
 俺はきっと、こいつの関心も買いたかったんだ。この人の言ったように、一番の目的ではなかったけれど。
 しかし、そんな内容。いまさら釈明しようもない。だいたいにおいて、改めて和真に合わせる顔もない。
 逃げるわけでもないが、俺がその場を去ろうとドアを見た瞬間。
「かずまさぁ! 政人、実っ。お前ら……っ!」
 一瞬にして、心は冷えた。
 そうだろうな、大事なこいつの一大事だもんな。こいつが手をこまねいているはずがない。
 ドタドタと走りこんできたのは、もちろん達彦だった。
「な、なにしてたんだよ! おいっ」
 あせりもあらわな声は、ますます俺を冷静にさせていく。
 もはや、こいつともこれまでか。
「訊かなきゃ、わからないのか?」
 悪ぶった声は、うまく出た。たぶん、表情も。おかげで涙はでてこなかった。
「ま、政人……お前っ」
「なんだよ、タツ」
 首根っこをひっつかまえられても、抵抗する気すら起きない。そのまま俺は、逆の腕が振り上げられるのを、見つめていた。
「タツっ!」
 そのこぶしを制したのは、和真の声だった。
「別に、なんでもないんだって」
 イイコちゃんぶるつもりかよ、こいつ。
 お前がどれほど言いつくろったって、いまさらなんだよ。
 俺たちの間に割ってはいってきた和真を、俺はひどく憎々しく思った。
「なあ、いったい……」
 いい判断だ。達彦は、俺と和真をかわるがわる見たあと、もっとも第三者であろうあの男に視線を向けた。
「こいつがそうだってんなら、そうなんだろ?」
「 ―― あんた」
 そのときの俺の顔は、ひどく間抜けだったにちがいない。
「俺も今さっき来たトコでさ、よくわかんねぇんだ」
 両掌を肩のあたりで上に向けつつの声は、飄々としていた。
 和真のプライドを慮ってか。それとも俺に多少なりとも同情してか。
 いやきっと、誰をかばうわけでもないんだろう。
(和真も ―― もしかしたら同じなのかもしれない)
 彼を見て、ふいにそんなことを思いついた。
「みのる、は……?」
「そこでひとり、オネンネしてるけどな」
 一瞬にして獰猛な瞳を見せてうそぶき、彼は顎の先を軽くしゃくる。
 その先にいた実の、腰からずり落ちたズボンだけで、状況は簡単に把握できただろう。和真が否定したところで、そんなことは無意味だった。
 いや、予想が確信に変わっただけのことか。達彦はぐっと息を詰まらせた。
「ちょ、ちょっとふざけてただけだよ。ね、タツ」
 青ざめた顔は、それでも必死に平静な声を出した。その様子は、達彦から否定の言葉を奪った。
「……お前らにとって、何もなかったなら。いいんだ、それで」
 俺の首元から、ゆっくりと手が離されていった。ほっとあからさまに息をついたのは、和真だった。
 何が言えるんだろう、俺に。そして、この男に。
 こいつが和真に執心していたのは、どういう意味合いであれ、事実。
 一歩間違えれば、同じことを冒していたのは自分だったかもしれないんだ。
(ああ、でも。その執着は正しい……)
 一番を求めるのは、誤りではない。手段としては別だが、想いは自由。
 それを教えてくれたあの人を、俺は覗き見た。ちょうど、タバコをくわえたところだった。
「……政人」
「え?」
「だいじょうぶか?」
 血が、ついてる。いきなり達彦の手は、俺の頬をぬぐってきた。
「平気だ。これ、俺のじゃないから」
「ああ。そうらしいな」
 すっと振りほどけば、あっさりそう返される。さすがにあの人の手は、見るにあまるものがあったのだろう。
 そのやり取りに、和真は傷の具合が気になったのか、煙を吐いている彼の姿をこっそりと見つめている。けれどもまだ達彦が何かするかもしれないと不安なのだろう。どうやら俺らから離れられずにいるようだ。
「でもな。無茶、すんな」
 そんなヤツに苦笑しつつも、ぽつりと達彦は俺につぶやいた。
 何をしようとしたか、わかってるんだろう? なのにお前は、そう気遣ってくれるのか。
 俺は、目を見開かずにはいられなかった。
「言いたいことは、口に出せ。俺も、言うから」
 言えないことも有るだろうけれど。
 和真もまた俺のほうをしっかり見つめたまま、無言のままにうなずきをしてきた。
「お前ら……」
 許してくれるのか?
 いや。お前らの中に、俺の場所はまだあるのか。
 他に誰かがいたって……感情に順番〈ナンバー〉があるかないかなど、どうでもいい。同じくらい大事なものだって、あるかもしれない。
 少なくとも、俺への感情があること。それは変わらなかったんだ。
 気づいてしまえば、ただそれだけのことだった。何を盲ていたのだろう。
 ならば、責められないから、つらいなんて。そんなことはもう、言っていられない。
 俺は、ふたりの想いに、報いなければならないのだから。
「わかった。言うよ」
 はっきりと、俺は宣言した。もう迷わないと。
 すると。どうしたんだろう、俺。
 それまであふれずに済んでいた涙が、頬を一気に流れ落ちていった。
 達彦が右を。和真が左を。ふたりは、それを優しくぬぐってくれた。
「おい、マサト」
 はじめて、この人に名を呼ばれた気がする。
 泣き顔のまま振り向けば、あの人は携帯灰皿に吸殻を片づけているところだった。さっきの一本吸い終わったのだろう。
「あとは、お前ら次第だ」
 言葉とともに、彼は俺たち三人をひとりずつ見まわした。
 そして、最後にまっすぐ、俺を見つめてきた。

 見誤るな。未来はいつも今の先にあるだけの、一つの仮定形だ。
 いくらでも、変えていける ―― と。

「俺は仕方ないから、一応ホケカン……保健管理センター、行ってくる」
「あ、俺たちで運びますから」
 達彦の言葉に、けれどあの人は軽く手を振るだけだった。
 心底しょうがないという感じで、まだ意識を戻さない実を担ぎあげて、そのまま鍵の吹き飛んだ扉へと向かう。さすがに少々重いのだろう、最短距離を進みそのまま出ていくかと思えば。
「じゃあな」
 ちょうど外からの光が差し込み、ほぼ逆光になる。その場所で彼はぐるりとふりかえった。
 細く眇められた視線を誰を見るともなさげにまわし、すぐさま断ち切るように身を翻して出ていった。
(この人でも、同じなのか……)
 光の加減か、ただの偶然か。
 見えるはずのない瞳が、瞬間だけ、苦悩の色をちらつかせたのを、俺は視た。
 それは和真を窺った刹那の出来事。
 そして、ようやくこの人の、俺を見ていたあの瞳の理由を知った。いや、理解させられた。
『アンタも、こいつをヤリたくて来たんだろ?』
 そうだ、実はこの人に、絶対言ってはいけないことを口にしたんだ。
「おい、和真」
 仕方ないだろ、気づいちまったんだから。みんな同じなんだ、あの人だって。
「え? なに、どうしたの政人」
「追いかけろ、あの人を。いますぐ」
「なにを言って……」
 達彦、止めないでくれ。いや、悪いが俺は止めさせない。
 お前だってわかるだろ、和真。何をただぼんやり眺めてるんだ。
「気になってんだろ。走れっ!」
「 ―― わかったっ」
 肩を一発押し出してやれば、ヤツは大きすぎる上着をなびかせて、駆け出していった。
「悪いな、タツ」
「……いや、いいよ。追いつくといいな」
 どうやら苦笑は隠せないらしいが、俺たちはそうして和真を送り出したのだった。

 すべては、どの者の上にも起こりうること。
 変わるのは、順番だけ。



 次は、誰の番だ。
 1の次が2だとは、限らない ―― 。



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*010 : トランキライザーの続編的
DRIVE ME CRAZY




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