030:通勤電車


「逃がさないって、言ってくれたのに……」

 告白されて、受け入れた。
 だけどいったい、何がかわったというのだろう ―― ?



 元々はほとんど学校に来なかったという先輩は、後期から履修しはじめたのか毎日のように構内へ現れるようになった。
 彼の通う文学部と共通教育棟は、ほど近くにある。だから利用する食堂や生協も、ほぼ同じ範囲。ならばと時間が合う限り待ち合わせて、講義以外の余暇をともに過ごす。それは当たり前のような努力にきっと成り立っている。
「和真ぁ、帰るぞ」
 そうして今日も彼は、文芸の部室に現れた。
「……あんた、なにしに来たのよ」
「いや、今日は必修が5限だったから」
「だったら来る必要ないでしょう!」
 刺々しい女性的な声は、高らかに室内で響き渡る。どうやら第一声があれであったことが、ひどく副部長の勘に障ったようだ。だが確かにクラブハウスの正規閉鎖時刻は間近に迫っている。
「ま、それはそれってことで!」
「なにがよっ」
 相も変わらずコントのようなやり取りの合間に、だが荷物をまとめれば脱出準備は万端だった。
「じゃあ、おいらは帰りますねー」
「おい、コラ! 待ちやがれっ」
 くすくす笑いながら逃げ出しかければ、唯一の出入り口に立ったままの彼が襟首を掴んでくる。お約束の行動。ついでいつもどおり背後から呆れたようにかかる送り出しの挨拶へふたり揃って返し、そうして今日もまた連れだって帰るのだ。
 いっしょに歩いて向かう先は、彼がいつも走り抜けてきた一区分だけ先の駅。無駄にも思える道のりは、彼の右となりの場所とともに慣れてきている。利き手だったという左が、右に矯正されたいまなおつい動く彼。だからこそ邪魔にならないようこちら側へ立つ癖がついた。
「きょうは、どうする? なんか喰ってくか?」
「え、あ……」
 夕食は、けっこう一緒に食べて帰る。ときには連れだしてもくれる。適度な遊び、適度な距離。
 どれもが心地よく、彼の思いやりを深く感じさせてくれる。
 けれど ―― あの首筋に刻まれていた痕は、もう消え果てた。
(どこまで、ひっかきまわしてくれるの?)
 振り回す彼に、振り回される自分。いつまでたっても、この関係は変わらない。だが感じるのは苛立ちではない。ほのかに心あたたまる幸せが、確かにここにはある。たぶんそれは彼も同じなのだろう。答えをせっつかれない、そのことが証と感じられる。生まれた沈黙すらを心地よく感じつつ、慣れた駅から地下鉄へと並んで乗り込む。そうして電車に揺られるまま、数駅をすぎた頃だった。
「でさ。結局、夕食は……」
「ひぁっ!」
 飛び出したのは、悲鳴というには間の抜けた声だった。
「……ワリぃ。驚かせたか」
 振り仰げば、恐縮したような顔がある。困惑した目元にメガネ越しでかぶる前髪は、いつしか短くなってきている。そのせいで顔立ちのよさは誰もが認めるものとなった。だが彼の魅力はいわゆる外見だけではない。
「そろそろ決めないと、と思ったんだが」
 ふっとこぼれたため息が耳をくすぐる。この距離は、あの週末の“儀式”を思わせた。あと数pで、その唇が首へと触れる。魅入られた感覚が疼くように甦れば、見上げている瞳が徐々に潤んでいくのを自分ですら認識した。
「きょうは、まっすぐ帰ろう。な?」
 そっと浮かべられた表情は、歪んだ視界でも間違えようのない苦笑。
(呆れた? 呆れられた?)
 こんなにドキドキしているのに、感じているのに。彼はなにも感じないのだろうか。もう関心すら本当は失せているのか。そんな不安が募るほどに視界は揺れる。頷けばきっと雫がこぼれ落ちる。そこそこのラッシュアワー。あわてて背けた眼には、人の頭越しに駅名表示板が窺えた。見覚えのありすぎる名前は、だがますます焦りを誘う。
 ドアを開閉するエアーの音が車内にちいさく響く。とまらない不安。衝動が、閉まる直前の扉から身を躍らせた。
「ちょっと待てっ!」
 激しい制止の声とともに、行動はぴたりと疎外された。振り返れば、鞄をつかんでいた左手はそのままに右手が伸ばされてきている。そのせいで半分、扉に挟まった彼の身体。だがそれでもつかんだ腕を放す様子はない。
「すみません、降りますから」
 周りへの謝罪をしながら、ようやく再度開かれた扉を抜け、彼もまたホームへと降りてきた。その背後を、警笛とともに地下鉄は流れ出ていく。
「危ないだろうがっ!」
 乗降客がまだホームを塞ぐなか、痛みを訴えるより先に彼は怒鳴りつけてきた。その顔にあるのは非難でも侮蔑でもない、ただ純粋にこちらを心配して思い遣る心。掴む腕の力はそれに比例するかのように強かった。
「……ごめんなさい」
 もう逃げられない。そして、逃げなくてもいい。
 ついに涙は頬を伝い落ちた。
「ど、どうしたんだ」
 衆目を浴びてなお離されない手は、ひどくあたたかかった。手を取られたのは、いや、触れられたこと自体どれだけぶりだろう。とまどった表情とともに注がれるぬくもりと愛情は、揺らいでいた心を急速に安定させていく。
(こんなことで愛情を確認するのは、卑怯ですか?)
 突然逃げ出して、追いかけさせて。
 それでも知りたかった。そうしてわかったのは。
「手ぇ……」
「あ?」
「あったかいね」
 みっともなく濡れた頬だけれど、せめて綺麗に笑いたい。
「……ああ。そうだな」
 しばらくののち、ゆっくりと返されたのは確かな頷きだった。やさしさに涙はしばらく止まりそうにない。それでもきっと彼は黙ってここで一緒に居てくれるのだろう。
「せっかくここで降りたんだ、夕飯、食べに行こうぜ」
 しばらくののち、くしゃりと頭をひと撫でしてきた手は、そのままこちらの左手へつなげられた。
 過ぎ去った狂おしい夏。けれど訪れた秋は、ささやかなぬくもりが優しかった。



≫≫≫ 077:欠けた左手


『手』に関して、3部作。
手はセクシャルだからね。




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