077:欠けた左手



「そろそろ、帰ろうか」
「うんっ」

 抜け出すクラブハウス。歩き出したいつものグリーンロードは、冬晴れの陽射しに包まれていた。冷たいはずの空気はほのかなぬくもりを宿し、コート姿の彼らもまた穏やかに並び歩く。
 そろわない歩調に、そろわない頭の高さ。
 ほんのわずかというには多大かもしれない身長差は、だがとうに和真の笑みをくもらせる原因にはなり得なかった。170にはどうしても満たない背と、小作りゆえにかわいらしく感じさせる顔立ちは、以前ならばコンプレックスであったはずのものだ。付け加えるならば、なんとなく同性から好かれやすい雰囲気もだろう。抵抗しないと甘く見られるし、からかわれるのも性に合わない。だからこそ道化を演じて、対抗していた。そのはずだった。
(別にたいしたコトじゃなかったけどね)
 振り返ればそこそこ危険な目に遭ったことも忘れ、彼は楽天的に笑った。すべては過去のことだ。
 いまは隣に彼がいる。和真がそっと見上げれば、すぐに彼は気づいてくれる。
「なに笑ってるんだ?」
「え? 別になんでもない」
「……ウソつけ」
 グチにも似た悪態は、けれど決して追及となることはない。暴く必要がない限り、彼はただ微笑んでそのごまかしを許してくれる。道化の化粧は、だからもういらないのだ。
(こんな自分もキライじゃないな)
 コンプレックスは自分の一部だと、素直に受けとめられる。そう思えるのは、つないだこの手がとてもあたたかいからだろう。寒がりな彼のおおきな掌は、手袋越しにすらいつだって和真の体温よりすこしだけ高い。そこまで考え、和真はもう一度小さく微笑む。
「ねえ、先輩」
「ん? なんだ」
 ようやく得た高嶺の恋人は、思いがけず心地よい存在だった。
 そのせいでつい浮かれていたのだろう。後になれば、きっとたやすく判ることだった。
 けれどそのとき彼は気づけずにいた。
「おいらの唇みてると、キスしたくなる?」
 少し挑発すれば、きっと ―― 。
「けっこう、みんな言ってくれてたんだけど」
 立ち止まったのは男のほうが先だった。手をつないでいればこそ、和真も合わせて歩みを止める。
 そうして見上げた相手の表情は。
「……せんぱ、い?」
「興味津々ってな」
 ことばは短く吐き捨てられた。一瞬のうちにかき消された微笑み。かわって向けられたこの表情は怒りを表すのだろうか。むしろ冷め切ったというほうが似つかわしい。
「じゃあ、してもらってくれば?」
 久々に見た、ショウの顔。いや、もしかしたら本当は見せられたことなどなかったのか。

 こんな瞳が、自分に向けられたことなど ―― 。

 認識した瞬間、和真はひとり駆けだしていた。つないでいた手は当然のように解き放たれる。
 ただ前へと駆けて、駆けて。息の上がりだしたころ、彼は気づいた。
「……ッ」
 響いた足音は自分だけのものだった。振り返ってみても、やはりあの姿はない。
 彼は追いかけてこなかった。逃げる必要もなかったのだ。その事実だけが敢然と迫る。
「は、ははは……っ」
 喉を突くようにこみあげた嗤いは、とどまるところを知らないかのようだ。あわてた自分が惨めで、哀れだった。ただでさえ走ったことで苦しかった息は、もはや喉を詰まらせている。それでも嗤いはとまることがない。
「……っ、はは。は」
 冬枯れの景色の中、そうして嗤いつづける和真にはみえなかった。
 いまだあの場所に立ちつくし、からっぽとなった掌を見つめている彼の姿は。



 どれだけ逢いたくないと思っていても講義はある。その翌日も和真は大学に向かった。
(いなきゃ、いいのに……)
 昼下がり、ゆっくりと日常を追うように押し開けるクラブハウスの重い扉。隙間から覗き込んだ先には、だが願いを裏切るようにやはりいた。
 逢いたくて、いま絶対に逢いたくない彼が。
「だからさぁ……」
 飄々としながらも面倒見のよい翔は、いつだって輪の中心にいる。張りつめた雰囲気をなくしたいま、その魅力はなおさら誰もが認めるものとなっているのだ。そんな彼の様子は、別段ふだんと変わりなくみえた。
 そんな相手を横目に定位置に座れば、いつしか響き出すキーの音。背後から流れるそれは、翔だけが放つ激しいタッチのものだ。会話はない。
 ただ無意味に流れた時の元、冬ゆえに早く落ちる夕陽はついに室内を満たしはじめた。
「さて、じゃあ帰るか」
 気にしているのは自分だけなのだろうか。シャットダウンの音とともにかけられた言葉に、疼く胸を感じつつも和真はうなずいた。
「風がけっこうキツイな……」
 並んで歩くいつもの道は、いつもにも増して北風がきびしかった。
「大丈夫か?」
「……うん」
 東に向かい歩くふたりだ、風上はいつだって翔の側になる。けれど気を遣うのはなぜかいつだって彼のほうだ。そっと見上げれば、その風を避けるようにかざされるのは、鞄をもつ左の手。だから互いの間にある手はお互いに自由だ。
 ただそれでもつながることはない。
 並んで歩けばときどきぶつかるように触れる。けれどその瞬間、はっとしたように離れていく。
(かえって自由なはずなのに……)
 ぎこちない雰囲気は、まるでこの左手が欠けてしまったかのようだ。
「どうか……したのか?」
 わずかに緩んだ足取りに、困惑した顔はあくまでやさしい。こちらへの風を遮るためだろう、わずかに傾けて歩く身体など、さりげない思い遣りに満ちている。
 ならば昨日のあの一瞬はなんだったというのか。
「ううん、別に」
「だったらいいんだが」
 けれどもう問うことすらできない。
 あっさりと終わらされた問答は、冬風より鋭く心へ吹きつける。
「……風、痛ぇな」
 そっと胸へと当てた左手。だがそんな相手を窺うことなく、男の顔は前だけを向く。大きな身体がつくる陰だけが和真を包んだ。
 互いの間を吹き抜ける冷ややかな風。

 ―― 違和感はおおきくなるばかりだった。



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本気の恋。だから、ステップアップがむずかしい。

時期的には、051:携帯電話、089:マヨヒガの後。
雰囲気は、030:通勤電車のつづき。手探り迷走中。




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