034:手をつなぐ



 春一番が、ついに吹いた。

 新たな季節の兆しが、かすかに温度として感じられる。手袋などなくとも十分な気温だ。
 けれどこの冬の間、ふたりをあたためていたぬくもりは、なぜかその手から失われている。
「……そろそろ、帰るぞ」
「うん。わかった」
 翔の呼びかけに、荷物をまとめた和真が立ち上がる。そして揃って部室を去る。
「じゃあ、お先に」
 傍目にはそんな、なにも変わらない生活。けれど彼らはすでに数日間、互いに苦しんでいた。緩やかに並んで歩くいまもまた、決してその痛みが消えることはない。
 発端はささやかな一言だった。

『おいらの唇みてると、キスしたくなる?』

 すでに三年ちかく歩く、ただこの冬はすこし冷えた手を包み込みながら進む道のり。不思議な感触を秘やかに楽しみつつふだんよりも幾分ゆっくり歩く男は、ささやきとともに見上げてきた揺れる瞳に愕然とさせられていた。
『けっこう、みんな言ってくれてたんだけど』
 雑踏の中で立ちつくした彼に、重ねられたのは衝撃。しばしの困惑ののち、後手へまわったことをようやく悟った。
(ならないわけがないだろう……っ)
 そう言いたかった。けれどそのことばが声になることはなかった。
 何の行為もないことが、また恋人を不安に陥らせていた。いつだって一拍遅れる自分の行動。それを彼はまた痛烈に思い知らされていた。だが身体だけが目的だなどと思わせたくなかったのだ。いや、心と身体が目的であろうとも、あくまでセックスは愛情ゆえに派生する関係だ。目的ではない。
 だからこその二の足。落ち度は多分に自分にある ―― それでも。
『興味津々ってな』
 引き比べられた衝撃は大きすぎた。
 悪気があったわけじゃないことくらいは、むろん翔とて理解していた。
(あいつらと、同じじゃないから)
 嫉妬に狂って行動したくはない。ちゃんと“おまえ”を見ていたい。
 でも、いまはもうどうにも動けない。挑発されてしまったんだ。どうしたって、ただの嫉妬になってしまう。独占欲の激しさなら、彼自身が一番よく知るところだったろう。
(それでも、離れたくないんだよ……)
 懊悩はどこまでも暗くて深い。視線はうなだれた相手のつむじを見つめている。
 あの日から変わらず、生じた迷いは尽きることがない。逃げ道のない迷路に閉じこめられた彼の足取りは、今日もまた限りなく重かった。
「まだ冷えるね……」
「ああ、本当にな」
 春めいてくればこそつい手袋は外してしまっていた。素肌をさらした互いの手は、自然と触れそうな距離にある。だが決してゼロになることはないその隙間を吹き抜ける風の冷ややかさは、指どころか心の芯まで凍らせていきそうだった。
 そんな寒さを感じつつ歩けば、地下鉄の入り口すらすぐだった。見慣れた暗いトンネルに、翔の記憶はクリスマスへとさかのぼる。怯えながら独り待った時間。そして頬へとかすかに触れたあの唇。つなげない右手の指先をそっと伸ばせば、だが感触は似ても似つかない。思索だけがぐるぐると立ち往生する。
 もの言いたげな顔はキライだ。そう叩き返せたころが懐かしい。切り捨てられない。いいや、その心を知りたくてたまらない自分がここにいる。だが問い方すらわからない。一度としてこんな心境になったことがなければ、経験などあるはずがない。もはや沈黙だけが彼に残された逃げ場だった。
「なんだ」
 唐突な呟きに、それさえも途切れさせられた。
「……え?」
「オレのことなんて、どうでもよかったんだ」
 思いがけないセリフにあわてて見やった先、淡々とつづけた和真が前だけを見ていた。その横顔は何の感情も示していない。あれほどくるくると変わる表情はどこへ消えたのか。見つめることもできず、すっと視線を逸らす。空きっぱなしの右手は、無意識に服の合わせ目をぎっと押さえていた。
 心臓が痛かった。
 あの日から、幾度くり返しても思索の行き着く先は同じ。こんなふうに困らせるばかりの俺は、もうおまえを手放したほうがいいのかもしれない。
 ホームに隣り合ったふたりの前に、電車が滑り込んできた。
「悪いが……。さきに、帰ってくれないか」
「わかった。帰る」
 突き上げる想いを隠して告げた懇願は、あっさりと受け入れられた。だがかたくなな声は、吹きすさぶ春一番よりも冷たく痛い。
「オレたち、別れたほうがいいかもしれないね」
 エアーの抜ける音とともに、そんな声が右側から響いてくる。
 いまなら、まだ何もはじまってはいない。
『ああ』
 そう、うなずこうとしたはずだった。だがその首はかすかにも動かない。ほんの少しだけ先へと進んだ相手の後頭部を見やるだけだ。ただ前だけをまっすぐ見ているはずのそれ。だがすっとその首が前へと折れた。
「やっぱり、キラわれちゃった」
 北風が吹き飛ばしかねない呟きを拾えたのは、本当に幸運だったろう。
「だから、その手も……」
 つなげないのかと。消えた語尾は補われるまでもなくわかった。カタカタと震える肩と背中に伸ばしかけた手は、すっと深く吸われたらしい息の音に戸惑った。
「さよなら、だね」
 なんとも安直な別れのことば。振り向くことすらなく、ただその一言だけで和真は駆けるように電車へ飛び乗った。一気に開く間合い。けれど去りゆくその肩を掴むことに、長い腕は今度こそぎりぎり間に合った。
「待てっ!」
 人気の少ない時間帯、けれど不審の目は車内から矢のように突き刺さる。だがここで手を離すわけにはいかなかった。強引に引きずり下ろすと、いまだ震えの止んでいなかった身体を反転させる。
「……無理に、笑うな」
 ようやく正面から捕らえた和真の瞳は、既に潤んで涙を湛えていた。
「だってっ!」
「泣くなよ。ここじゃ、何もしてやれない」
 ゆっくりと噛んで含めるように言い聞かせる。整ったその顔に浮かぶのは、焦燥と悔恨の色だ。見つめ返す和真の目は、衝撃に見開かれる。
「教えてやるから」
 祈りを込めて差し出したのは、いつもの右手だった。扉の正面に立ちつくす彼らを追い抜いて、多くはない乗車希望の人間はすべて車内に吸い込まれている。
「ほら」
 なお強く差し出された手。それを見た瞬間、和真の胸はドキンと高鳴っていた。
 いつもつないでいたそれは、改めて見れば、とても男らしいものだった。はじめてのときには、強引に結ばされたそれ。だがこの手を自分から取るということが、何を意味するのか。不安と期待を押し隠しそっと絡めれば、安心させるようにぐっと握り込まれた。
「あ……」
 普段は割と、乾燥した硬い手だった。けれど今はそれが、めずらしくも少し汗ばんでいる。熱い掌。それが奇妙なほど心地よかった。ぐっと握り合えば発車のベルが、ホームに鳴り響いていた。そのまま、地下鉄は音を立てて消えていく。
 乗客は既に電車と消え、また降車した者たちも改札へと去っていく。
「ずっと、したかったんだよ……」
 首に刻まれる、熱い感触。
 ホームが無人となる、ほんの一瞬のことだった。



 互いに片手を取られたまま、次の電車を彼らは待っていた。無言のままに移動した数区間の距離。確認もし合わずなだれ込んだのは、駅からほど近いラブホテルだった。ベッドがひとつにソファーとテーブル。大きなテレビの乗るチェストがあるだけのその空間は、見慣れぬ者にはひどくがらんとした印象を与える場所だ。
「ま、こんなもんか」
 オートロックの扉を閉めれば、もはや邪魔は誰にもできない。室内が過剰に装飾されていなかっただけで満足した翔は、独り先にベッドに座っていた。手をつないだまま連れられてきた和真は、その傍らで呆然と立ちつくしている。
 安心して、いいのだろうか。
「ここでなら、いくら泣いてもいいぞ」
 そう告げた彼はコートだけを投げ捨て、ゆっくりとその腕を開いた。受けとめようとする仕種。ここへ連れ込んでおきながら今さらな行動ではないだろうか。だが非難する前に、とっくに引きかけていたはずの涙が和真の瞳から急に流れ落ちた。嗚咽とともにあふれ出させたのは、澱のように溜まっていた不安だった。
 手が与えられた。ただそれだけで、これだけ泣きたくなるほどに。
 抱きとめたままやさしく掌で背をあやす男は、一通り落ち着くまで黙ったままだった。
「ありがと……」
 涙も引けば和真もようやく気恥ずかしさが戻ったのだろう。子どものような振る舞いと体勢に、寄せた身を離そうとする。だが少しも相手との距離は開かない。
「どうして、そんなに焦るんだ?」
「だって! あのときからずっと、求められたかったんだっ」
 抱きしめたままささやかれた問いかけに、まだ高ぶっていた感情は激しく動揺したらしい。思った以上の叫びに焦ったのは発した当人だ。
 だが求められたいのに求められず、あまつさえこの質問。とはいえ廻された腕は揺るがない力ですべてを受けとめてくれている。
「あんたに、求められたかった」
 恋とは、思いたくなかっただけ。今となっては意地を張っていたとも思う。
「もう……あんな痕は、つけたくなくなったの?」
 消えることのない想いの、その証。ただ一時とはいえぶつけられる熱情は、生々しく感情を示して逃げ場を失わせるほどだった。瞳に浮かぶあの輝きは、いまどこへ消えたのだろう。
 不安は募るばかりだ。けれどまだ涙を残したまなざしで、それでも和真は凛と答えを待っている。
「……スタートが、ちがったんだな」
 あのとき。その言葉の示す地点を汲み取り、翔はその瞳を伏せた。
 抱きしめている腕は、ひどくこまかく震えている。
「わかった」
 そんな一言とともに、なぜか彼はその身を離した。そして、寝台の奥へと乗り上げる。
「 ―― 来いよ」
 息詰まる緊張のなか、響いたのはただ一言だった。男の色気とでもいうのか。ささやきだけで、熱があつめられる。
 そして、右腕が差し伸べられた。
「手だけじゃ、足りないから」
 真摯なまなざしは、抑えきれない情熱に満ちている。決して自分には向けられないと思いつつ、それでも諦められなかったあの輝きが、和真だけを射ている。
「あ……」
 震える手できちんと取った手は、まだ外の名残で冷えていた。
「俺も不安だったよ、ずっと」
「え?」
 抱き込まれた胸から直接響いたかの声は、言葉どおりの感情を露呈していた。だが服のうえからゆるやかに動く腕は、それとは裏腹に明確な意図をもって動き出している。身体のラインをたどり、まずは相手を確認していくようだ。
「俺は……愛する相手を抱いたことがない」
 かかえた身体の細さに怯えつつも、決してもう手放すまいという腕は決して緩まない。そのせいで互いの表情は窺い知れない。だがゆっくりとした告解はその体勢のままはじめられた。
「だから、ちゃんと愛せるのかどうか。不安で仕方ない」
 上着すら脱ぐことを忘れていた和真の、まずはその一枚を脱がせる。行動にためらいはない。そっと服の中に手を差し入れ、重ねられたシャツをもかるくたくし上げていく。這わせた手はようやく、直にその肌へと触れた。
「あ……っ」
 外気の寒さか、それとも未知の行為への恐怖か。びくっと跳ねた身体は、けれど決して逃げ出すことはないと知っている。よぎる不安はそれでも小柄な相手をあやすようにして押さえ込まさせる。
 どれだけ優しくしても、きっと実際行為に差などない。けれどそれでも大切にしたいから。
「怒りにまかせて行動したくないんだ」
 息を詰めて続きを待つ相手にかすれた吐息で語る。それはあの日、キスすらできなかった言い訳にもならない、けれど真剣な想いだ。
「あいつらと同じになりたくないから」
「……あいつ、ら」
「奴らもたぶん、奴らなりにお前を求めてた。そう言ったのは、ウソじゃないと思う」
 この状況下でつづける会話ではないのだろう。けれど積み重なった不安は消せないくらいになっている。いま途中で拒絶されても、この感覚が拭えない限りやめてやることはできそうもない。触れた瞬間に感じた衝動は消せない。のし掛かる姿がその証にも思える。
「ああ、実と……」
「だが所詮それは、あの行為を正当化したい俺の声かもしれない」
 ほっと吐かれた息を聞き逃した翔は、硬い調子でつづけた。その手は着実にうごめき、ついには和真の上半身を露わにさせた。白い首筋からつらなる肌は、やはり目を瞠るほど白い。その汚れのなさに喉が無意識にゴクリとなった。
(いや。いまからすることは、決してあれと同じではないはずだ)
 少なくともあいつらをかばう気はない。
 自らのセーターをも投げ捨て、晒した素肌で重なり合う。思いがけない心地よさに、つい緊迫感に似合わぬ吐息をつく。その瞬間だった。
「あんただけが、考えることじゃない」
「え……? それは」
 どういう意味なのか。ドクンと心臓が跳ねた。
「おいらが、いま。あんたになら抱かれたい。そう思ってるから」
 覚悟を決めてついてきたはずの和真も、臆面なく目を見てはさすがに告げられなかった。だが背けた真っ赤な顔を、男の手は向き直らせる。
「なに……っ、あ」
「はじめて、求めてくれたな……」
「あんたもはじめてそこまで心をさらしてくれたよ」
 感慨深く微笑む翔の顔は、だがいまにも涙をあふれさせそうな瞳で揺れていた。
 強引に奪ってくれればいい。そう思っていた。けれど甘えてばかりではいられなかったのだ。気づかされて、ようやく言葉として告げることができた。挑発じみた言い回しなど、しょせん逃げにすぎなかったのだ。
「怖かったんだね」
 そっと廻された腕は、ひろい背中をしっかりと包み込んだ。自然、翔の頭は肩口に寄せられる。その視線が吸い寄せられたのは、和真の細い首だった。
「俺の、痕。残したかった」
 耳元で囁けば、欲求はすぐに形となった。本当は、ずっと。この首にキスがしたかったのだ。
 自戒のために残していたあの痕。だがいまは白い肌が戒めになっていた。
 まだ、そのときではないと。捧げるように差し出されても、受け取れなかった。
 傷ついた顔など、もう二度と見たくはない。
「キスも、まだだったのにな」
「あ……、そうだね」
 苦笑はすれども、求め合う限りとどまる必要はない。まずはひとつだけ痕を残す。
 もはやどんな会話もかすかな毒でしかない。甘すぎる毒。小説で見たり書いたりしたことなど、事実からかけ離れすぎている。
 そっと得た互いの唇は、既に濡れきっていた。



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しかし、この日に最後までヤッたかは、ナゾ。




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