035: 髪の長い女


 舞い散る桜を眼下に従えた、共通教育棟。いわゆる一、二年生が一般教養を受ける教室は、四限終了後、帰途にむけてざわめいていた。
 まだ本格的授業が開始されたばかりのこの春先。さほど親しい間柄の相手もまだできていない一年らは、せいぜい数名のグループで三々五々に散っていくばかりだ。必修単位の都合などで高校までの知り合い等がいなければ、口を利く相手すらいないかもしれない状況だ。
 そんな人間らは、教室を既に立ち去っているか、もしくは逆にのんびりとノートなどを見なおしているか。大抵、そのどちらかに二分される。
 カットソーの重ね着にジーンズを穿いた人物は、その後者に属しているのだろう。癖のある茶色の髪をときおりかき揚げながら、ひとりゆっくり荷物をまとめていた。
「困ったわ……」
 徐々に静けさを増してきていたせいもあったのだろう。その耳をかすかな声が打った。
 窺うようにそっと見上げれば、困惑しているのは、他の講義でも同じになることの多い女生徒だった。そのまわりにいる学生もまた見知った相手ばかりだ。
 この者が入学している保健学部は、必修単位が多いところだ。基本的に同じ学部の学生は似たようなカリキュラムになる。むしろ同じ単位を集めていれば、学部も同じと考えて差し支えない。つまり彼女らはこれから四年間、ともに学んでいく間柄になるのだろう。
「そろそろ行ける?」
「あ、先輩っ」
 そんな彼女らの前に、ひとりの女性が現れた。颯爽とした雰囲気はやはり年上ならではなのだろう。はじめて見ただろうその人物は、一団とは異なる空気を発している。
「もうそろそろ行かないと」
 そんな女性は、壁に掛けられた時計に目を向けたのだろう。その瞬間、まっすぐに顔を見合わせそうになれば、あわてて視線を逸らすのは年下ゆえの慎みか。堂々見返す彼女とは対照的に、素知らぬふりをついそそくさと装っている。だがそれでも、自然と聞き耳は立ってしまうものだ。
「ひとり、足りないんですよ。バイト入ったからって」
「時間なのに……。いいわ」
 ため息として吐かれた息は、すぐに毅然と吸い込まれた。
 どうするのだろうかと気にはなれど、所詮他人事。そう思い、鞄を閉じた瞬間だった。
「ねえ、そこのあなたっ!」
 にこやかながら鋭い呼びかけは、伏せたばかりの顔を跳ね上げさせた。驚きもあらわにそのまま周囲を見渡すが、声が投げられた方角には自分以外誰もいない。
「そう、あなたよ。あなた」
 嬉しげな声はかさねてかけられる。暇そうに座っていた後輩を、よい標的と定めたのだろう。まぎれもなく目線は、その『ひとり』に向けられていた。
 やはり無意識ながら遠慮なく向けていた視線は、気づかれていたらしい。
「え、あ、あの」
「ちょっと、夕食、ご一緒しない?」
「え! 先輩、だってその人……」
「いいのよ、このコなら。ね? おごったげるから、おねえさんが」
 あわてふためく周囲をよそににっこりと微笑むその表情は、有無を言わせぬ力を全面に押し出している。誰一人として逆らうものはいない。そして部外者であったはずの相手をも、また強制的にうなずかせていたのだった。
(先輩って、こういうものだったっけ……?)
 一年間、最上級生として過ごしてきたせいで、年上相手との感覚がつかめないのだろうか。
 恐るべき上級生のオーラ。しかしそれはまだ今宵の序章にもすぎなかった。



 そして遠足のように引率されて辿りついたのは、大学から地下鉄で数区も離れた場所であった。
 とはいえ、大抵の人間の足となるJRや私鉄等の集まる主要駅だ。見知らぬところではないだけ、突然つれられてこられた者にとってはありがたい。
「お待たせ!」
「ああ、こっちだぞ」
 歩くことそこから数分で着いたカジュアルな居酒屋には、既に先客がいたようだ。大声に応えるかのごとく振られている大きな手が、通路からもはっきり見えた。
「保健学科の一年生たち。高校の後輩の知り合いよ」
 その言葉に、着席していたメンバーから独りが立ち上がる。
「適当に座ってもらえばいいから。自己紹介は、あとな?」
 彼が代表なのだろうか。メガネ越しの目線で全員にかるい挨拶をして、すぐに席を勧めはじめた。最後の言葉は、先導の女性に対してのものだろう。
「そうね。好きに空いてる場所でいいから」
 うながしにまわりは各自ちらばっていくが、見事に茶髪の頭は取り残されていた。
 先客の顔ぶれから、コンパということは飲み込めた。それゆえの反応の鈍さだが、まごまごするうちに椅子は次々埋まっていく。
「で、あとはこの子ね。予定のコじゃないんだけど」
「いいさ、別に。ああ、もうはじめてくれよ」
「ってことで、あなたはここね」
 強制的に指定された席。軽く会釈して座れば、逆サイドは空席だった。
 背後にはいまだふたりが立ったまま。だがメニューはすぐにまわされはじめた。
「ずいぶん毛色の変わったヤツ、つれてきたもんだな」
「そう?」
「明らかだろう。まったく……」
 対象が誰かは明白だ。だがさほどの観察すらなしに、何をもってして毛色が違うと評したのか。聞き耳を立てるが、目立つのは軽やかな笑いばかりだ。
 不毛さを増しただろう会話は、あからさまな男のため息で締めくくられた。
「隣、いいか?」
「っていうより、あんたの席そこしか空いてないから」
 上からの声に反応しきれずにいれば、再び追い打ちをかけるような女性の声。思わずあたりを見回せば、彼が元々座っていただろう場所は既に他の人間に占められていた。
(どうせなら、彼女がとなりに来てくれれば……)
 どこまでも唐突な展開は、こちらのパニックを招くばかり。わずかな差とはいえ、まだしも顔見知りの相手である。多少なりとも心強いはずだ。とはいえ彼女のむかった席の両隣は、すでに男性が埋めている。それではこの彼が座るわけにはいかないのだろう。
 だから仕方がない。そう割り切って向けた笑顔は、強張っていただろう。
「らしいから。よろしくな」
 しかし彼は気に留めた様子もなく、わざとらしく脱力して笑うとその席へと腰を下ろした。そのままぐるり首をめぐらせていく。
「おーい、さっさとグラス回せよ? 女の子たち優先なー」
 幹事精神が豊かなのか。それともこちらに関心がないだけか。
 なににせよありがたい話だ。ぼんやり投げていた視線は、そんな相手の動きだけを捕らえていた。
(へえ……、割といい雰囲気のひとなんだ)
 よくよく見れば整った印象を与える相手であった。長すぎるほどの前髪は崩しながらあげられ、隙間から二重の切れ長な瞳が覗いている。飾り気のないシャツがつつむ身体も、男性的に均整がとれていそうだ。
 そのせいだろう、クラスメイトからの視線は少々痛かった。だが何も口にだす気はないようだ。ここへつれてきた女性ひとりだけが、くすくすと愉しげに笑っている。
「その子ね、風邪気味だから」
「あんま、声だせないってことだろ」
「ええ、そうよ」
 よく分かってるわね。ほんの少し目を見開きながらも、即座に答えを返した相手へ彼女はにっこり微笑みかけた。そのまま滑らされてきた視線は、強引につれてきた者への心遣いか。ちいさくこちらにだけ示されたウインクは、安心して任せなさいという合図のようだった。
 どうやらこの隣の相手は、彼女がよほど信頼している人物なのだろう。改めて眺める横顔は、現金だがなんとなくたのもしく映る。
 そんなふうに彼ばかりを注視していたせいだろう。
「ねえねえ。キミって高校、どこだった?」
「へ?」
 背後からのいきなりの問いかけに、間の抜けた声が口を突いて出た。ばっと振り向けば、反応がよほど意外だったのだろう。彼とは逆側に座っていた男がその身をわずかに退いていた。
「えっと、出身? 県内かな。俺は県外なんだけど」
 隣に座るクラスメイトとの会話の合間に、ついでとして振ってきたのだろう。だがわざわざことばを換えて問う表情は人好きのするものだ。
 当たり障りのない内容は、この席上では適当なもの。だが言葉なしには返せない質問だ。
「声出せないって言われただろ」
「あ、そっか……」
 間髪をいれずに発された忠告は、肩越しのものだった。
 確かに頼りになる。内心で安堵の吐息をつきながら、あいまいな笑みだけで問いの主へと謝罪を示した。しかしいたたまれなさは、どうにも残る。
「喉痛いんだから、ウーロンな。ほい」
 だがそんな雰囲気をものともせず、幹事はグラスを押しつける。手に持たされたグラスは、氷の大量投入されたみるからに薄そうなお茶だった。
「んじゃ、堅苦しい挨拶は抜きにして。乾杯ーっ」
 強引な幕開けは、けれど隣席のふたりの会話をふたたび弾ませるには十分だったようだ。
 だがこれで安心してはいけない。とりあえず口を利かないためには、別のことでそこを塞いでおくべきだろう。
 などと適当な理由をつけつつも、健康な体は目の前の食卓にただ惹かれているだけだ。まずはとグラスを運べば、冷えすぎたウーロン茶はイヤな水の味だけを舌に残した。
「ほかのがよかったら、あとでメニュー見せてやるから」
 首をひねっていれば即座にあげられる提案。むろんそれは、もう聞き慣れた彼のものだ。
 別にこれで不満というわけではないが、確かに他にも選択肢があるならば考えたい。コクリとうなずけば、OKとだけ返される。かいがいしいというにはちょっとおおざっぱな気の遣い方は、意外にも安心できて心地がよいものだった。
「えっと、あなたは何を?」
「あ、俺?」
 だがそんな声に世話を焼いてくれていた相手の席をみれば、そこにグラスはなにもない。先程まわしたグラスが、彼のものだったのだろう。
 目端の利き方は年上ゆえのものか。だが気づいたところで、視線すら絡まされなければ謝罪のしようもない。思わずこぼしそうになるため息は、ウーロンとともに流し込まれていった。
「じゃあウーロンでいいや。ありがとう」
「なに? おまえ呑まないわけ?」
 受け渡しに一役買った向かいの男が、意外そうに問いかける。その手にあるのはビールらしかった。
「いや、あんま酔うと役に立たなくなるから」
「役にねぇ……」
「幹事としてだって」
 やはり水っぽいだろう液体を口にして、彼はどこか含みを持たせたコメントをあっさり切り返す。整った顔立ちと相まって、皆を白けさせかねない冷たさだ。
 だがそれだけでは終わらせないのが彼であるらしい。
「そういうツッコミはもうすこし後でな」
 自ら下ネタに落とせるのは、余裕ゆえなのか。それとも役どころの自覚ゆえか。なににせよ彼の嗤いを皮切りに、他人行儀になりそうな場は徐々に崩れはじめていった。
「そういや、おまえ。このごろ文芸のほうはどうなんだよ」
 酒と食事と会話。せわしなく口を使いつづければ、話題はふとその相手に振られていた。
「だからこうして勧誘しに来てんじゃん」
「なんにも誘ってないだろー」
 スムーズすぎるやり取りに、場がどっと笑いに崩れる。
 そんな波が一陣すぎれば、つぎの流れは彼に話したくてたまらないだろう女性陣の声になる。
「文芸って、なんですかぁ?」
「サークル。こいつの入ってる、小説とかのさ」
「ようは同人誌だよ。あいつの知り合いなら、そのほうがわかるだろ?」
 甘えた声に返されたのは、別の男のもの。それでも注釈のように、彼もまた言葉をかえした。
 あいつというのは、ここへつれてきた女性のことだろう。
(同人誌ね……)
 そのほうがわかりやすい。会話に加われない唯一の者は、新たに得たグレープフルーツジュースを手に、内心でひとりうなずいていた。本来は部外者のはずだが、偶然とは怖ろしい。知らぬものでもない単語に、思わず耳がピンと立ってしまったわけだ。
「ということで、よければどーぞ」
 思わず目線を食卓から離すが、どうやらこの話題はこれで終わるつもりらしい。
 残念そうに見つめていれば、笑顔での視線は新入生全員をまわり、最後に一番ちかくにいた相手にぴたりととめられた。
 その瞬間、口の端がすこしだけあげられたのは、気のせいだろうか。
「それで勧誘かよ」
「んじゃ、おまえは何しに来てるワケ?」
「そりゃま、そのだな……」
 非難を受けても堂々とした態度は変わらない。むしろ、あきれかえった声に窮したのは相手のほうだ。どもった調子が、なおさら後ろめたさを助長しているようだ。
 どんな回答が返されるのか。場が笑いの準備をして待つ。
「学生の春っちゃー、合コンっしょ!」
 大声で口を挟んだのは、だがまったく別の場所の男性だった。
「酔ってるな、おまえ」
「いいじゃんよ、来年は就職活動で、もうやれないんだろうからさぁ」
 その言葉からするに、彼らは3年生らしい。道理でアルコールを口にしている者が多いはずだ。
 事前情報は与えられていないこの状況。質問すらもできないのならば、端々から想像して埋めていくしかない。
「やっぱ女の子といっしょに騒ぐって、楽しいからね」
「花があるよな、絶対」
 フォローなのかなんなのか。微妙なラインではあるが、否定の要素はないだろう。
 照れながらも、クラスメイトたちは嬉しげにしているのだから、むしろよい会話だったのだろう。気負わず盛り上がりをみせた空間は、だれにも心地よい雰囲気を醸し出していた。
 とはいえ、突然連れてこられた身にはまだ疑問も残る。
(まあね……でも、ご飯おいしいし)
 頭の端に感じる違和感は、それだけで片づけられたようだ。とまることなく動く箸。もはや周囲の状況など我関せずだ。口を利かないせいもあるだろうが、そのペースはまわりと比べてひたすら速かった。
 咀嚼するたびにこぼれる笑顔。おごってくれるというのが本当なら、確かに幸運だと思っていることだろう。ただ人数的な問題でテーブルはかなり大きく、そのため手近にあるものしか取れない。既に悩みは次の内容に達していた。
 離れた場所には、冷めていくには惜しいエビチリが手つかずで放置されている。
「それにしても、みんな癒し系だよね。かわいいし」
 首をひねるうちにも、周囲の話題は女性陣をほめそやす方向へ突き進んでいたようだ。コンパという状況なら当然だが、それはむろんこの相手に対しても例外ではない。いかにその目が、エビチリの皿だけを見つめていてもだ。
「キミは、ふわふわな髪が優しいね!」
 そろそろターゲットを絞りにかかったのか。隣に座る男は、いきなり逆側に背を向けるほどの勢いで向き直ってきた。
「ショートヘアーだからかな?」
 食卓が半分ほど視界から消えるほど、にじり寄ってきている。しつこく声をかけられれば、そちらを向いていないわけにもいかない。曖昧に笑いながらとりあえずエビチリから目を離すと、口を塞ぐようにまずはグラスを手にすることにした。
「キミみたいな感じのコ、すっげー好みだし」
「俺は、絶対にセミかロングだね。サラサラだとなお良し?」
 かき口説くような声を打ち消すように、背中側から別の意見があがる。そのセリフに、場は一気にどよめいた。ほとんどの子がその髪型だったからだ。なんともコンパ慣れしているというか、自分の力を認識しているというか。
 雰囲気を決して白けさせない彼は、確かにこの席において外見以上に魅力的である。
「こんなヤツもいるけど、活動はちゃんとしてるから」
「さすが、副部長。勧誘は任せたよ」
 フォローのように付け加えられたあの女性の声に、ニヤッとすこし品を落とした笑みが返される。だが息のあったやり取りは、決して聞き苦しくない。ちょっとした見せ物にも思えるほどだ。
 このふたりの間に割ってはいる気には、誰もなれないだろう。ある種のサクラではあるが、全体を愉しませているのは確かだから、問題もないのだろう。
 その周りの雰囲気に、いまは口説くタイミングではないと感じたのだろうか。勢い込んでいた隣の男は、ジョッキをあげてビールを請求しはじめていた。
「悪ぃ、その皿こっちにくれ」
「おまえ、エビ喰ったっけ?」
「喰わないけど。あ、サンキュ」
 副部長とやり取りをしていたはずの彼の手の上には、すっかりと忘れていたエビチリの皿が載せられていた。大皿が軽く乗る手は、ひどく筋張っている。しかし食べないものをどうするのだろうか。不思議そうに眺めていれば、その皿はなぜか目の前にドンとおろされた。
「……なんだよ、ちがったのか?」
 瞬時にすがめられた瞳に、ぶんぶんと首を振って答える。不快にさせる気はないのだ。
「おまえの目、口より物言ってるからな」
 満足げな笑いが、どこかからかうような色で示された。
 そっちが目ざといだけではないかと思う。だが食欲は、嫌みにすらあっさりと白旗をあげる。ペコリと頭をさげれば、彼は取り箸を渡してくれた。
「ついでだし、これも喰っとけ。これもか」
 続けざまに並べられたのは、それまで手の届かない範囲にあった料理ばかりだ。見開いた目でテーブルと相手を交互に眺めれば、笑いはなおいっそう深くなった。
「じゃなきゃ、損だぞ。せっかくこの店来たんだからな」
 いたずらめいたウインクは、箸の動きを存分に発揮させてくれた。満たされる食欲に、そんな相手や周囲の状況は、すっかり意識からはずれていく。
 その後も置かれる皿ばかりに注視していれば、いつしか制限時間を過ぎていたらしい。追い立てるような促しに席を立てば、外は既に夜を迎えていた。
「二次会、どこにするー」
 ガヤガヤとした賑わいは宴席の雰囲気のまま、なごやかな一団は道路を占拠する。
「ああ。俺、パスな。こいつも」
「え?」
 さきほどまで散々食べ散らかしていた口を、その両手があわてて覆った。風邪ででないはずの声は、わずかに低い。だが思わず飛び出したそんな驚きの声は、まわりで起きた同様の反応に運良くまぎれたようだ。
 女生徒のそれは、たぶんこの彼が帰ってしまうためだろう。しかし三年生の視線は、あわてて口元を抑えてみせた者だけに向いている気がする。
「悪いな、一気にふたりも抜けちまって」
 まったく悪びれもしない言葉は、しゃあしゃあとつづく。指し示された対象は、問うまでもなくわかりきっていた。なにせ彼のおおきな手は、こちらの肩をしっかりと捕らえている。見た目にはさりげなく、だが振り払うのもためらわれる強さでだ。
「えー? お前、ショートカットに興味ないってたくせに」
 絡んできたのは、先刻まで彼と逆となりにいた相手だった。すでにかなりアルコールも廻っているのだろう、露骨なモーションは周囲が呆れるほどに悪化していた。
「だいたい、いきなりお持ち帰りかよぉ」
 だがこの逆ギレは。彼に阻害されていた自覚でもあるのだろうか。
 確かに料理を勧められるタイミングは、嫌みも押しつけがましさもなかった。だがこちらの困惑を見計らったかのようではあった。
「そりゃないんじゃないの?」
「バカか。風邪だってっから、早く帰らせてやるんだよ」
 詰め寄る相手を、鞄を手にした片手でかるくあしらい、彼はあっさりと切り捨てる。決して離されない逆の腕。どうやら本気で一緒に帰るつもりらしい。
「あれだけ食べたら、もういいだろ」
「はあ……」
 いったい何を考えているのだろう。くるりと覗き込んできた姿からも読めない意図に、曖昧な表情を浮かべていれば、こっそりと耳元へ唇が寄せられる。
『あいつに連れ帰られたいなら、知らないが』
 それだけは絶対に避けたい。ぼそっと告げられた内容に、思わず縋るように目の前の腕を掴んだ。
「決まりだな」
 勝ち誇ったような笑いは、けれどひどく清々しい。
 だがこのまま帰ってよいのだろうか。ここへくる原因となった女性の意向をを窺えば、くすくすと愉しそうにしながら、こっそりと手を振ってきていた。どうやらもうお役ご免ということらしい。
 そんな彼女の動きは、いまだ肩を抱く男にも伝わったようだ。
「とりあえず病人だしな。またみんなとは、部室にきてもらえば逢えるから」
 お墨付きをもらった彼はきっぱりと告げると、くるりと女性だけに愛想を振りまいた。さっきまでは笑って眺めていたクラスメイトたちだ。夜目にもうっすら頬を染める者もいる。
 だがその視線は、男の手をたどりこちらへ流れるにつれて不安の色を帯びてきた。彼に選ばれた自分への羨望などではない。明らかにこちらの身を案じるまなざしだ。
 でも、この先輩ならば大丈夫だろう。
 よくは知らない相手ながら、無意味な信頼がなぜかあった。そもそも女性に心労をかける趣味もない。だからそっと微笑みだけで合図してみせた。
「じゃあ、月曜日に」
 気軽なあいさつを向けた彼に、二次会組も背を向けて次の会場へと動きはじめる。まばらながら返事をくれた女性陣もまた、副部長につれられネオン街へと消えていった。
「駅でいいのか?」
 取り残されたのはふたりだけ。拒絶するなら、今しかないだろう。しかしそうしてよいものか、問うべきあの女性はここにはいない。戸惑ううちに、彼は帰途への道を進みはじめたらしい。促されるまま並んで歩けば、だがそれは知らない裏道だ。
「ああ? こっちが近道だから」
 足取りが重かったのだろうか。すぐさま苦笑で指さされたのは、市内一だろう高さを誇るツインタワーだ。確かに各鉄道の駅はそこに集中している。道は多少うねりつつも、まっすぐにビルの隙間を抜けてそこへ向かっていた。
「だけど独りのときは、誰であれ勧められないな」
 普段は通るなよ。真面目な声音が、ひどく耳元で響いた。どうやら声をかける際に覗き込むくせがあるようだ。
 そのせいで、並んで歩いても正確な身長はわからない。けれど座っていた印象より、ずっと高いようだ。このご時世、とにもかくにも高身長はうらやましいことでしかない。
 しかしそんな外見より、実のところ気になるのはもっと別のことだ。
 迷惑をかけたとは思うが、ふたりきりというこの状況。もっともらしい理由にほっと安堵したが、まだまだ油断できる状況ではない。
(まさか、ね……)
 自分よりも彼に似合う女の子は、いくらでもいたのだ。だがいまだ外されない肩の上の掌が、どうにも不安をかきたてる。
「どうした?」
 そうして顔を寄せられれば、ドキドキとする心臓。ふっと笑ったような気配は、けれどなにも言葉にされなかった。思い上がりに等しい不安は、互いの間に流れる沈黙をより深めていく。
「そうだ。興味あるなら、来いよ」
「えっ?」
 場所はここだから。突然差し出されたのは、入部届と部室までの地図だった。
 入部届自体は準備されていたものだろうが、いつの間に書いていたのだろう。さらさらと記された地図は、さきほどの店のチラシの裏だった。
 驚きに満ちた瞳で見返せば、相手は既に前を見つめている。よほど関心ありそうだと思ったのだろうか。だとすれば、相当な観察眼といえよう。ただひたすらに食べていただけの姿しか、彼には見せていないのだから。
 けれども嬉しいことは確かだ。断ち切られた内容は、食べ残し以外で唯一の心残りだったのだ。
 あわててDバッグを下ろして、いそいそとしまい込めば、上方からわずかに空気の振動が伝わってくる。まぎれもなく微笑みの気配だ。
 よほど子供じみて映るのだろうか。なにもかも見透かされているようだが、それにすら反発心が湧かないのは、だがきっと相手の雰囲気のせいだ。
「ほら。駅だ、近かっただろ?」
 年上とはこういうものだっただろうか。くすぐったい感覚は、悪いものじゃない。すでに外された腕にも気づかず、寄り添うようにふたり並んだまま駅への階段は降りられていた。
「俺、この線なんだけど。ホームは?」
 この時間帯としては多いだろう人波に紛れて、同じ改札をすり抜ける。互いに通学経路なのか、切符はどちらも購入していない。問われて指で示せば、ホームも同じようだった。
 だが多方面への電車が入り乱れるこの駅では、電車までも同じとは限らない。各方面への電車が止まっては再び流れていく。どれも目的の駅行きではない。数本見送るうちに、ほとんどの方面を見逃している。乗るべき電車は一巡したその最後に来たようだった。
「あ……」
「これに乗るのか?」
 開いた扉の内と外。同じく見逃していた相手は、なぜかホームにたたずんだままだった。どうやら駅に独り残さないために待っていてくれたらしい。さりげなさすぎる気遣いだ。きっとコンパじゃなくても彼は人気があるのだろう。
 発車のベルが鳴った。お礼と別れの挨拶かわりに、そんな相手へちいさく頭をさげる。
「それじゃ。ああ、家入る前に、それ取れよ?」
 ニヤリ。突如として変貌した笑みとともに、彼は指を自分の頭に伸ばした。だがそこには何もついていない。怪訝なまなざしを向ければ、なおさら吊り上がる口元。つられるように、自らも同じポーズを取れば。
「……ああっ!」
 指先に触れた感触に、思わず口から叫声が飛び出した。焦る心理は、けれどそれ以上の言葉を紡がせない。きっと顔は真っ赤に染まっていることだろう。
「顔もさっさと洗うんだぞ。じゃないと家族に誤解されるぜ」
「あ、あのっ!」
 あわてふためけば、なおさらに笑いを誘ったらしい。
 声を阻んだ発車のベルが、ようやく止まる。そして空気の抜けていく音。静かに閉じられた扉は声を伝えることなく、ただ羞恥に紅潮した頬だけを残していく。
 ガラス越し、男はそんな相手にひらりと手を振っていた。
「しっかし、二歳下ってのはあんなにガキっぽかったもんかね……」
 抑えきれないという風情でひとりでにやける姿が、しばしホームには見受けられたのだった。



 そして月曜日。クラブハウス棟の一室は、意外なほどのにぎわいをみせていた。集まっているのは、まだ大学に馴染みきらない新入生。団体でやってきては、しばらくのち期待に満ちて、だが少しだけ残念そうに帰っていく。
 そんな波も夕方が近づけば、徐々に引いていく。頃合いを見計らったように、ひとりの男がその部屋へと滑り込んできた。いたって軽装な姿は、テキストの入っていそうな鞄すら携えていない。
「めずらしい、あんたがこんな日に来るなんて」
「そうか? まあ結果を確認がてらな」
 メガネの上、長すぎる前髪が今日はすだれのように落とされている。だが正体はすぐに見破られたのだろう。即座に嫌みをぶつけたのは、応対に追われていただろう副部長だった。
 とはいえ、飄々とした男はちいさく苦笑するだけで、それ以上の感情は表さない。
「新人、はいったか?」
「まあね。いつまでつづくかわかんない、女のコばっかりだけど」
「女だけか?」
「そりゃあ、コンパで集めてるから。ゼロよりマシってね」
 副部長の手元、トントンとそろえられた用紙は、ばらまいていた入部届だった。もともと部の性質上、女性に偏るのも当然である。覗き見たそれらに、男性名はひとつもない。
「なに?」
「いや。見込みちがい……な、ワケないしな」
 この名簿の中にあるのか、まだ来ていないだけなのか。それともそんな気はなかったのか。
 皆目、見当がつかない。
「見込みって?」
 無意識のうちに少々顔をしかめていたのだろう。見上げてくる副部長の怪訝そうな表情に、とりあえずなんでもないと軽く手を振ると、彼は手近な椅子へと腰を下ろした。元々ある身長差がようやく少し縮まっていく。
「そういえば、あの後どうしたの?」
 近づいた目線の高さは、新たな会話を発生させるのに十分だったようだ。
「あの後?」
「ほら、あの『お持ち帰り』っての?」
 机の引き出しへと届けをしまい込めば、あとは赴くままのいたずら心か。からかいばかりが目立つ声に、なおさら眉間のしわは深くなった。整った相貌ゆえに、微妙な剣呑さがにじんでいる。
 けれど向かいあう女性は、なんら気にもとめないようだ。
「ちゃんと駅まで送ってきた。まったく、あんなの連れてきて……」
「あんなのって、別に問題なかったでしょ。人気もあったし」
「だからだろうが」
 ばさりと前髪を跳ねあげれば、らしからぬ舌打ちがひとつ飛び出す。
「もし他の奴らが、そのお持ち帰りとやらをしたら、どうする気だったんだ」
「別に? あの子なら逆に、なにも問題にならないでしょ」
「俺の履歴に、傷がついちまうだろうが」
「あんたの、ねぇ」
 ポンポンとつづけられた会話は、意味深な目線で一時休戦を迎えた。
 どうやらかいがいしく世話をやいていた理由のつもりだろうが、そもそも彼が他者の評価など気にしないことは見抜かれている。まったく気に入らない相手ならば、そんなことはしようはずもない。
「うるさいなぁ……」
 反発の声は、いささか小さかった。ずっと様子を窺っていた彼女の視線も気づいていただけに、彼もかわしきれないことは気づいているのだろう。
「まあ、あんたのいるコンパって、女の子のランクが絶対高いって噂だもんね」
「そんななかに、あんな ―― 」
 会話を疎外したのは、部室の出入り口で発される奇音だった。
 立て付けの悪すぎる扉だ。慣れない人間が力任せに開こうとすれば、壊れかねない。そうなる前にと、室内でもっとも近くにいる部員が開けに向かう。
「はい。どうしましたか?」
「あの、えっと」
 とまどった声は、いったんそこで区切られる。それは聞き覚えのあるような、ないようなものだ。
 応対にでた人間の肩越しに、彼はその顔を覗かせる。そしてその表情は勝者の笑みに彩られた。
「今日も性別不詳の格好だな」
「あ、あなたは」
 立ちつくしているのは、声そのままの顔つきをした相手。ほっと息をついたのは、見知った相手に辿りついたためだろう。どこか幼くも思える姿は、けれど後輩らしい謙虚さにも感じられる。
「神楽だよ、神楽翔。入部希望だろ?」
 くすりと笑い、先に対応していた部員と入れ替わると、彼はその重い扉を相手のために押さえた。
「はい! よろしくお願いしますっ」
「ようこそ、文芸部へ」
 そのまま彼は、ひょいと握手の手をだす。応えるように、腕は伸ばされる。掴めば意外なほどしっかりした手つきだった。
「数少ない男子部員だ、歓迎するぜ」
「やっぱり、わかってたんですね」
「当然だろ?」
 そのまま引き込まれるように、新たな部員は部室へ連行された。
 他の新入生に対してより粗雑な感のある言葉遣いは、どうやら同性ゆえのものだったらしい。わかってしまえば、それまでのこと。むしろやはりバレていたのかと、安堵する想いでもあった。
 だがそうなれば、他に来ていた人らが気にかかる。いい物笑いの種だったのだろうか。
「大丈夫よ。こいつ以外、見抜けてなかったから」
 不安に囚われかけた瞬間、ふわりと後ろから現れたのは、副部長というあの女性だった。今日もかわらず毅然とした姿は、その言葉を疑う隙を与えない。
「いらっしゃい。来てくれると思っていたわ」
 歓待の微笑みはつい見惚れるに余りある。その顔を包む長い髪に、だが彼はふと思い出した。
「あ、これ。遅くなりましたけど」
 わたわたと差し出したのは、ビーズに彩られた大きめな髪飾りだ。それはあの日、彼女から強制的に貸し出された品だった。
 確かに家で着けていたら、家族に悩まれること請け合いだったろう。
「あら。似合ってたから、あげようかと思ったのに」
「……いえ、遠慮しておきます」
 くすくす笑いは、どこまで本気なのだろう。どうにか押し返せば、だがそれはあの彼の手に取られていった。ひょいひょいと玩ばれる、ヘアコーム。それは自分の手の中にあるときよりも、数段ちいさく感じられる。
「いいバケっぷりだったしな。あいつら、きっと探すぜ」
「スカウトした私を誉めなさいよね」
 ぽんと投げたのは、そのきらめく飾りだけではなかった。狙ったようにはじまる会話。コンビネーションのよさは、あの日で十分に教えられていることだ。
 こっそりと室内をうかがえば、どの部員たちも口を挟む様子がなかった。
(恋人同士なのかな、やっぱり)
 悪ふざけすら似合いの姿に、置いてけぼりにされたと感じた瞬間のことだった。
「だからさ」
 ため息をつきかける隙を狙ったように、男はくるりと振りかえった。
 はるか上から落ちてくる視線。さらりと流された前髪から、切れ長の瞳が覗いていた。ドキっとさせられる、鮮やかなタイミングだ。
「え、えっと……」
 あわてふためけば、やはりどうにも笑いを誘ったらしい。
 そんな彼は、一歩こちらへと近づいた。そして ―― 。
「俺をナメてかかるなよ?」
「は?」
 繰り出されたのは、軽妙なウインク。ふざけた仕種つきのことばに、思わず和真も吹き出した。

 向け合う笑顔は、あの店でみたどの表情より愉しげだった。



≫≫≫ オマケ


そしてまだ、彼らは互いを思い出していない。




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