040: 小指の爪



「あ、折れた……」
 二年次に上がった保健学科の学生にとって、本学キャンパスはほとんど縁のない場所である。
 ライブに向けて夢中だった数ヶ月前ならばともかく、今日は練習日ですらない。いくら友人ふたりがそこを根城にしているとはいえ、軽音のコンテナ内でおとなしく座っているのは意外な姿であろう。
「なにが折れたんだ? って、爪かよ」
 だがそんなことをいちいち指摘しないのが彼らである。いたいときに集い、そうでなければ個々に過ごす。この半年とすこしの間に、そんなスタンスがきちんと組み上がっていた。
 原因はたぶんこの和真に恋人ができたこと。だがその相手はいまこの場にはいなかった。
「気をつけろよ? たかが爪ったって、危ないんだから」
「うん、でも」
 机に向かったまま呟いた和真に対して、ふたりは楽器を握っている。だが離れた距離にいても声が聞こえた辺り、それなりに気を配っていたようだ。目線を合わせた彼らはため息をひとつ吐く。それから長机に向かってきたのは、意外なことに政人の方だった。
「ケガしたのか?」
「ううん」
「だったら、ケガする前に削っておけよ」
 ギタリストもベーシストも爪には気を遣っているからだろう。言葉とともに、机上へは爪ヤスリが滑らされる。ぶっきらぼうな態度は、謝罪も礼も受けつけない雰囲気を漂わせている。だがそれは照れ隠しだ。
(前から政人ってこういうヤツだったっけ……?)
 気がついたのはつい最近だ。けっこう政人は甲斐甲斐しい。彼が変わったのか、そう感じ取る側が変わったのか。それを客観的に判断できる人間は、残念ながらここにいない。
「……どうかしたのか?」
「え? ううん、ありがとう」
 ふわりと覗き込むように心配そうな顔を見せられ、あわててヤスリを手にする。にっこりと笑い返す表情は引きつりはしなかっただろうか。気にはなるが、相手は背を向けてしまったのだから今さらだろう。達彦と話をはじめたその姿をみつめて、和真はふっとため息をついた。
「なんでかな」
 あの行動ひとつひとつが、どことなくここにいない相手を思い起こさせて止まない。高い身長がではない。彼もずいぶんと世話焼きだったのだ。こうして離れてみるとよくわかる。
「あーあ……」
 親切心のヤスリを当てかけ、ため息はふたたびこぼれ落ちた。
「もうすこしだったのにな」
 教えられた1cmまで、あと1mmもなく到達するはずだった。
 小指の爪をそこまで伸ばせば願いが叶うと、教えてくれたのはいったい誰だったのか。かなり昔の話だ。きっと同じマンションに住んでいたクラスメイトか、そのあたりの女の子だったろう。
 赤い糸をつなぐといわれる指だからか、それとも指切りをするものだからか。どちらにせよ、それは約束の指。だから願掛けにもこうして使われたのだと推察はできる。もちろん信じるにも値しないと、そのときには一笑に付したまじないだ。きっと教えてくれた当人すらもう覚えていないことだろう。なのになぜ今さら伸ばしてしまったのか。
 少女趣味だということくらい知っている。それにこんなことをしなくても、彼はここに帰ってくる。
「そろそろじゃなかったか?」
「……うん。今週中にはって、結城先輩が」
 ヤスリを手にしたまま動きをとめたことを不審に思ったのだろう。主語なくかけられた声は、達彦のものだった。肩越しに振り返れば、心配そうな表情の先に携帯電話をいじる政人も窺える。電話かメールか、いずれにせよめずらしい。
「あ、今週中なんだ」
「そう、もうすぐ帰ってくるんだよね」
 ぼんやりしがちな意識を、再びかけられた言葉で引き戻す。
 一週間は七日。もう残りの方が少ないくらいだ。薄汚れた天井を見上げつつ日数を数える。
「だったら元気出せって、なあ」
 思いめぐらすうちに再び和真の肩は落ちていた。励まされても、今度はうつむいた顔を上げる気になれない。彼はいったいどこに帰ってくるというのか。身体だけ戻ってきても意味はない。伝言でしかないことがなおさらに彼の不安を煽っている。
「なあ、和真ぁ……、あ」
「おまえな、そんな落ち込んだ顔を見せる気か?」
 険のある声は、最前折れた爪を気にかけてくれた者と同一とは思わせない。引き結んだ口元は整ってはいるがきつめな印象の拭えない顔立ちにより厳しさをまとわりつかせている。
「そんなひどい?」
「ああ」
「……似てるね、ホント」
 笑ってごまかしてみてもきっちりと見抜かれているのか。きつい言葉は、けれど和真をあたたかく包み込む。わかればこそ呟きは無意識にこぼれ落ちた。
「似てないな、あいにく」
「どうだか」
「すぐにわかるさ」
 政人にしてはめずらしく、皮肉さのない笑みで話をはぐらかした。けれどその表情を怪訝に思う暇はなかった。
「ここにいたのかよ、探したぞ」
 隙間があったのだろうか。音もなく開かれた扉の先、息を切らした男が外光を背負って立っていた。むろん見えたのはシルエットだけだ。
「……せんぱ、い?」
「メールもらえて助かったぜ」
 視線が巡った先は言うまでもないだろう、携帯を操っていたわけが今さらながらにわかる。だが彼らはそれ以上言葉を交わすこともない。ようやく戻り来た男はただひとりの相手へとだけ歩み寄っていく。
「ただいま」
 扉を閉めてゆっくりと近づいてくれば、その顔は呆然としている和真の目にもはっきりしてくる。いつかに似た登場。だが疲労の色はあの日よりは薄い。浮かぶ微笑みにも、痛いほど張りつめた緊張感はない。
 そうしてひょいと差し出されたのは、またもや白い紙。だが今回は一枚きりだ。
「今度は、なに?」
「これで引っ越さずに、就職できるぜ?」
 旅立つときも無言ならば、戻ってきても曖昧な言葉だけ。本当にいつも一言足りないのだ、彼は。
 とりあえず意味もわからないまま、渡された紙面に目を落とす。横書きのワープロ文書は明らかに小説ではない、むしろ何かの契約書のようだ。長くもない文章に一通り目を通すと、だが焦ったように和真の目線は渡した男を振り仰ぐ。
「っていうより在宅で。小説も書けるし、いい仕事先だろ?」
「あんたってひとは……」
 帰ってきたことを喜ぶより先に、呆れを隠せずにいられない。もともとコンピュータ関連で既に経験を重ねていた彼だ。確かに就職口としては問題もないのだろう。差し出された紙面は、就職の内定書だった。
 しかし東京へわざわざ行かなければならなかった、その理由はなんだったのか。
「ってことで、あとは卒業だけだな」
「……はい?」
「これが一番問題だったりして」
 語られる不穏な内容とは裏腹に、その顔はひどくすがすがしい。
 きっと大丈夫。残りの単位数すら知らないが、理由など必要なく和真はそう確信していた。


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