名前。



 ―― めずらしいものを見た。それが、一番の感想だった。

「どうかしたんですか?」
 部室だからだろうか。久しぶりに丁寧語を使いながら、和真はちょっと他人行儀に相手の肩へと手を乗せた。彼の定位置である、ドアから遠い一隅の机。その背中合わせの席に座っているのは、もちろんあの男だ。
「せんぱい?」
「あ? なんだ、お前か」
 にっこりとした微笑みにさえあっさりと暴言を吐き、相手はそのまま机へと突っ伏した。
(おいらで、なんか悪いワケ?)
 文句の一つも言いたいところだが、くたばっている相手にムチを打つほどの性格の悪さは、あいにくと持ち合わせていない。それよりなにより、目にしている現状のほうがよほど気にかかる。狂ったようにキーを叩きつづけることこそあれ、虚ろにモニタを見つめていることなど、はっきり言ってめずらしすぎる姿だ。
「なに、悩んでんです?」
「……なまえ」
 キーボードの真上ではないだけマシというべきか。べたっと机に張り付いた状態で、それでもモニタを見ようと片頬を組んだ腕の上へと乗せあげる。短い答えまでも、どこかトロい印象を与えてきた。
 本当にかわったものを今日は見せてくれる。思わず和真がその瞳をまたたかせると、丸まっていた背中が一気に伸び上がってきた。
「キライなんだよなぁ、コレ考えるの」
 ぐるりとふり返ってきた相手は、ちいさくため息をついた。眉間には、薄くしわすら浮かんでいる。ふざけているように見せかけて、いつも真剣なのだろう。
「名前は、大事なものだからな」
「親になるって、大変なんでしょうねぇ」
 自分がなるという感慨があるわけでもない。けれど相手のまっすぐな面もちには、考えさせられるところがあったらしい。微笑みを浮かべながら、和真はそのまぶたをわずかに伏せた。
 けれどそんな感嘆めいた姿は、なぜか相手のまなざしを怪訝なものへと変えたようだ。
「ウチはあんま、悩んでなかったぞ……」
「どうして? 翔って、いい名前だと思うんですけど」
「別に、悪かねぇさ」
 反動をつけるようにして、男は椅子から立ち上がる。ギィっと椅子が軋みをあげた。
「お前さ、『神楽』って、なにか知ってるか?」
「名字」
「……そうじゃない」
 勘違いなのか、ジョークなのか。それともただの天然ボケだったのか。返された回答に、男の親指はみずからのこめかみを押していた。
「あ、じゃああれ? 神前奉納の舞みたいな」
 けれど彼が脱力しきる前に、あわてふためきながらも今回は正解がでた。
「そう。要するに、SHOWだろ?」
「え、と。それって……」
「ちなみに漢字は、そのとき辞書でぱっと開いて拾っただけ」
 手振りつきの説明に、和真の口はぽかんと開かれた。
「姉貴なんか、そのまんま『舞』だしな」
「はぁ……」
 連想ゲーム的発想なのだろう。理解はすれども、名づけるという行為からはかけ離れた印象だ。聞かされたほうは、どうにも遠い目をせざるを得ない。けれどそれすらも予想通りなのか、相手はその反応に苦笑するだけだ。
「でも。おいらも、女だったら似たような感じだったかも」
 つぶやきは、ぼそっとしたものだった。しかし、男は敏感に視線だけで問いかけてきた。
「ねーちゃんがいるんですよね、おいら」
「 ―― 初耳だな」
「もうとっくに結婚しちゃってるくらい、年も離れてるから」
 気がなければ、無視を決め込む相手だ。ふんふんと軽くうなずいてくるあたり、どうやら関心を持っているらしい。
「で、名前が『ゆかり』だったんですけど」
 調子よく紡がれた言葉は、そこでいったん停滞した。しかし興味津々のまなざしは、つづきをうながしてくる。
「てっきりおいらのときも、女の子が生まれると思いこんでて」
「それで? 名前はなんだったんだ」
「……『さゆり』です。『ゆかり』のちいさいの、だからって」
 恥ずかしげに、声はちいさく消えていった。
「いや、そりゃあなんつーか……すげぇセンスだ」
 さすがに意外な展開だったのか。髪をばさっとかき上げながら発されたのは、なんとも言い難い微妙な感想だった。見つめ合う視線も、どこかしらお互い苦笑いになっている。
「だから『和真』も、あり合わせなんですよ」
「そうか。俺はでも、『かずまさ』っていう響き、いいと思うぞ」
  照れ隠しのような言葉が、まずふたりの間を揺らした。けれど受け流すように返されたセリフは、どこかしらあたたかな雰囲気をにじませていた。
(重要なのは、どんな名前であるかではないけどな)
 男は口の中だけで、幻と消えた名前をささやいてみる。やはり響きは甘い。
「ま、そんな名前もいまは好きですけどね」
 そんな相手に、和真はさわやかに笑ってみせる。その頬は、ほんの少しだけ頬が染まっていた。
「だから、気楽にいきましょ」
「 ―― だな」
 ちいさく息をつくと、男はふたたびモニタへと視線を落とした。そうして椅子へと座り直した相手の肩に、和真の掌は添えられていた。



 名前が重要なのは、呼んでくれる相手がいるからこそ。
 どんな名前であっても、恋しいひとが呼んでくれれば、それで ―― 。


≫≫ 044:バレンタイン


命名秘話。けっこう現実かも…。



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