044:バレンタイン。



 交際歴、一年と少々。言い切ってしまうには、いささかの疑問の余地は残るふたりである。けれどその片割れである和真は、少なくともそう考えていた。
 二度目となる今年のクリスマス、彼らははじめてホームパーティなんかをしてみた。男同士、どこへ出かけるのも目立ちそうだったからだ。
『これも、くつろげるよな』
 相手の言葉ではないが、当然そんな過ごし方もよかった。
 けれど、たまには堂々と腕でも組んで歩いてみたい。恋愛中の人間なら、だれしも望むことではないだろうか。折しも時節は、バレンタイン。去年のこの日は、チョコを渡すのも微妙な関係だった。
 だから今年こそは ―― !
 そう気合いは入れどもネタが思いつかない状況下に、悪魔が囁きに現れた。
『……協力してあげようか』
 ロクなコトにならないことは予想済みだ。しかしその誘いは、あまりにも魅力に満ちていた。つい、うなずきを返してしまうほどに ―― 。

 そして彼はいま、いつもの待ち合わせ場所である、百貨店のショウウインドウ前に立たされていた。
「すごい人だなー」
 大学も後期考査が終わったばかりのアニバーサリー・デー。午後二時という時間もあるのだろう、まわりには学生たちがひしめいている。けれど相手の姿はまだそこになかった。待たされた記憶など、これまでほとんどない。けれど約束の時間は、五分をすぎかけている。
 遠くに行く気はないからと、この昼過ぎの時間を指定したのは彼からだった。
(どうしたんだろ……)
 自分から見つけなければ、今日は逢えないかもしれない。生まれる不安が、その首を必死にめぐらせる。
「どうかしたのか?」
「な、なに!」
 そんなとき、背後からいきなり声がかけられた。内心飛び上がりながらの返事は、思い切り裏返っていた。とはいえ声自体はひどく聞き慣れたものだ。心臓をバクバクさせながらふり返れば、そこに立つのは予想どおりの黒コート姿だった。
「あ、えっと……」
「いや、そんな警戒されても困るんだがなぁ」
 ほんの少し困ったように眉がひそめられる。ポケットにつっこまれていた手が、癖のように前髪をかき上げていけば、ラフなセットがわずかに崩れた。黒い髪ははらりとメガネへとかかっていく。
 見つけてくれたと思う喜びもつかの間、感じるのは微妙な違和感。和真は相手の表情を覗き込もうとして、はっと瞳を見開いた。ウインドウの飾り付けには、ちょうどその驚いた表情が映り込んでいた。
 その頭の下は、白いダウンのショートコートに、くしゅくしゅブーツ。それだけならともかくも、膝よりすこし短めのスカートは、あきらかに彼の性別から逸している。
(このひと、おいらってわかってない?)
 ウインドウでは判然としないが、顔にも化粧がほどこされていたはずだ。そう考えれば、相手の困惑した雰囲気も理解できる。しかしそれでは、呼びかけの理由が消えてしまう。導き出した結論に、顔から血の気が一気に引いていく。
「近場の水族館だけど、どう?」
 めずらしく語尾をあげた口調は、どういう意図なのか。声なく立ちつくす和真に差し出されたのは、コンビニで発券されたらしい、そっけないチケット二枚だった。



 地下鉄を乗り継ぎ、連れられるままに下りたのは終点駅だった。外へと出れば、どことなく潮の匂いがただよってくる。設置されていた案内板覗き込めば、海らしき青いカラーが現在地すぐに存在していた。
「こっちだったと思うんだが……」
 寒さが苦手で、いつもはポケットにつっこまれているはずの手。だというのに、今日はさりげなく誘導してくる。ふいに腰のあたりにときどき触れていく手つきは、慣れたものなのだろうか。
「チケット引き替えてくるから。待ってて」
「あ、はい」
 いかにもな施設の前までくると、相手はかるく肩を叩いて走っていった。ロングコートの裾が、派手にひるがえっていく。そんなあわただしい後ろ姿を、シャドウに彩られたまなざしは、ただひたとみつめていた。
(わかってんだよね、たぶん)
 電車内でのとりとめのない会話は、これから向かう先の話題ばかりだった。けれど逆に言えば、お互いに対する質問もなかったということだ。和真にしてみれば、いくら気になれども人前で声を出したくないという事情もある。あげく、めずらしいくらいに饒舌な相手は上機嫌すぎて、一方的な聞き役になるしかない。
「お待たせ。北館から行こうか」
  しばし呆然としていたのだろうか。くしゃりと髪をなでられた感触で、意識は強制的にもどされた。視線の先にあったのは、いつもより優しげなまなざしだ。かがみ込んで合わせてくれる顔は、ヒールのぶんだけ普段より近い。
「どうかした? 寒いだろ」
「……ん」
 キスをしたい衝動は、自分だけのものだったのだろうか。うながしのことばに和真は顔をそらし、正面へと進んでいった。

「わぁ……っ!」
 ゲートをくぐってしまえば、諸々の考えなど一気に霧散した。
 青い光の揺らめく幻想的な空間が、そこには確かに存在していた。ことばを互いに交わす必要もなく、ただ輝く魚の群を見つめるだけだ。ときおり同じ水槽を背後から覗き込まれれば、耳元に感じる息づかいがどうにも熱っぽく感じられる。人前でこれほどに密着することなど、ラッシュくらいでしかない。
(あの先輩に、感謝かな)
 服装ゆえなのか、まわりの視線も気にならない。心持ちかるくなった気分で、次々と新しい水槽へとふたりは巡っていった。
「あ、ちょっと先に行かないか?」
「え?」
「15:30から、イルカのショーらしいから」
 いつチェックしたのだろうか。驚きに目をまたたかせれば、返されたのはちいさなウインクだった。
 時間配分も、考えられていたのだろうか。はしゃぎながら見たショーが終われば、いったん元のフロアに戻され、その後南館をぐるりと回ることに自然とさせられていた。
「あ……っ」
 低めとはいえ、ヒールの靴はやはり慣れない。水槽を眺めていたために気づいていなかったが、きっとけっこうな距離を歩いているせいもあるのだろう。小さな段差にひっかければ、膝にまでカクンときていた。
「大丈夫か?」
 和真は無言でちいさくうなずき返す。すると男は、すっと肘のあたりを差し出した。
「けっこう暗いしな。歩きにくそうだから」
「え? え、と」
「イヤじゃなかったら、だけれど」
 めずらしいほど控えめなコメントが、静かに囁かれる。ちょっと照れたような表情が、そこにはあった。
(ありがとう……)
 心でつぶやきながら、そっと掌を沿わせてみた。触れたぬくもりはなじんだものだった。



 夢中になって見学していたからか、相手があまりにやさしかったからか。閉場ぎりぎりまで、和真たちは水族館という異世界を漂っていた。意外なことに、男は普段からその場所を好んでいたようだ。
「今日も哲学してるよなぁ、お前ら」
 妙なことを呟きながら、彼は腕を貸したままにペンギンを眺めている。その横顔は子供のようで、どうにも微笑みをさそって止まないものだった。しかしいつまでもガラスの向こう側だけを眺めているその姿に、和真の腕はふと強張った。
(きょう、まだ一度も名前よばれてない……)
 こちらを向かない顔に、つい忘れかけていた不安がぶりかえったのだ。一度よみがえってしまえば、なかなかにそれをかき消すことはむずかしい。駅からここまでの行動すべてを思い出せば、なおさらに募るのは違和感だけだった。やさしい振る舞いすべてが、不審を生み出す元凶だ。
 けれど完全に疑うには、この隣の男は日常から愛を伝えすぎていた。
「じゃあ、やっぱり……」
 気づいてるんだろうか。しかし、それにしては何も言ってはこなさすぎる。喜んでほしいとは思わない。けれど驚くなりなんなり、普通ならばもっと反応があるべきではないだろうか。
(いまこのひとと一緒にいるのは、おいらであって、おいらじゃない……)
 切なさはその腕をそっとほどかせた。
「どうする?」
「え?」
「だから、夕飯。ここで食べる? それかJETTYのほう、行く?」
 いつの間にだろう。男のまなざしは、和真のほうへとまっすぐ向けられていた。繰り返し話しかけていたのかも知れない、その顔もまた間近まで寄せられていた。
 けれど近づけば、なお遠い相手。そんな悲しい感慨に、和真はやはり無言で首だけを振る。
「なんとなく、水槽のにおいがするか」
 独り言のようにつぶやいた男は、長距離歩かせるのを厭うたのか、すぐ近くのJETTYというショッピングモールへと行き先を定めたようだ。離された腕を気にすることもないようなそんな相手のそぶりは、なおさらに寂しさを彼の心へと残していった。

 外界は、すでに夕闇も深かった。けれど冷たい外気をくぐり抜けたどりついたレストランは、まだ込み合うには早かったようだ。
「いらっしゃいませ」
「ああ、あそこでいいから」
 案内を断った男に誘導されたのは、人目につかなさそうな奥まったテーブルだった。フロアを背にする椅子が引かれて、和真はそこへと座らされる。
「特に食べたいのないなら、こっちで選ぶけど?」
 向かい側からメニューを開かれるが、いまいちどれも目にはいらない。
 その様子にだろうか、ため息が男の口からはじめて吐かれた。さすがに呆れられているのかもしれない。落ち込んだ気分は、もはや相手をみつめることさえ彼から奪っていた。
「じゃあ、これ。お願いします」
「はい」
 彼らふたりを特に気にかけることなかったのか、ウエイターはオーダーを復唱してさがっていく。
「水族館、どうだった? 気に入ったかな」
 すぐさまかけられた声は、あいかわらず優しげだ。けれど一年以上の交際は、そこにほんの少しだけまじる苛立ちの色を見抜いていた。いっこうに話そうとしない相手に声をかけつづけるのは、どれだけの忍耐力を必要とすることだろう。普段の男からは想像もつかない姿だ。
 けれども今はそんな気遣いすらが、ただ重い。
『言いたいコトあんなら、口に出せ!』
 ストレートな表現が、いまは懐かしい。なおさら深くうつむいた姿に、相手もきっと困惑したのだろう。ふたたび大きなため息がつかれた。つづけて和真の耳を、ガタンという音が打った。
(立ち上がったのかな)
 どこかへ行ってしまうのかと不安に思う間もなく、男の身体は向かいの席から、隣へと移ってきた。客席すべてに背を向ける形で、ふたりは身を寄せ合った。
「……そういえばさ、さゆりさん」
「さ、ゆり?」
 突然の呼びかけは、予測の範囲をおおきく超えていた。名乗った記憶など、どこにもない。
(いったいオレのこと、誰だと思ってんの?)
 一日黙り込んでいたせいか、なじる声は喉から出そびれた。せめてと、きつくにらみつけようとした瞳は、なぜか潤んでしまう。膝のこぶしをにぎりしめるだけで精一杯だ。
「あれ? ゴメン。ちがったかい?」
 涙目となった女性への謝罪にしては、ずいぶんと軽い口調だった。これまでにない態度はひどく冷たい。あげくほんの少しだけ、口の端が引き上げられている気がする。
 けれど、それはどこか見慣れたもので。和真のまなざしは、ぴたりと吸い寄せられる。
「歳の離れた、ゆかりお姉さんは元気かな?」
「 ―― あぁ!」
「ねえ、さ・ゆ・り、さん?」
 ゆっくりと動いた唇は、ちょっとだけ意地が悪かった。

 もし自分が女性としてこの世に生まれていれば、名付けられたであろう名前。
『さゆり。ゆかりのちいさいのだからって』
 そんなふうに話をしたのは、いつのことだったか。

「ずるい……」
 驚きと喜びに目を見開いた瞬間、涙が一しずくだけこぼれ落ちた。
「わかってたなら、なんか言ってくれれば」
「お前な……。わからないワケ、ないだろうが」
 思いがけない告白は、張りつめていた気を一気にゆるめさせた。他の席に背中を向けているせいもあるのだろう。囁きあう声もまた、互いにいつものざっくばらんなものになる。
「じゃ、なに? お前、俺がナンパしてたとでも疑ってたのか?」
「だって妙によそよそしいし、親切だし」
「 ―― 愛しい女性に対する接遇を、こころがけたんだが?」
 おろおろと言いつくろう和真に、少しばかりのトゲが飛ぶ。けれどあくまでも表情は軽やかだ。
「それが望みだったんだろう?」
 男同士だからこその障害。それを乗り越えようとすれば、ときにはこんな荒技だって必要だろう。それがどんなにユニークかつ唐突であろうと、気にはしない。相手の態度からはそんな余裕がうかがえる。
(まだまだ、かなわないなぁ……)
 あっさりと見抜かれていたことに多少の気恥ずかしさを覚えながらも、和真はコクンとうなずいた。
「じゃなかったら、とっくに怒鳴りつけてただろうさ」
 まったく、散々気ぃもませやがって……。鋭くひとつ舌打ちをすると、相手は置かれていた水を一気に飲み干した。ふうっと吐かれた息は、いままでで一番深かった。
「まさか、本気で疑ってるとはなぁ」
 浮かべられる苦笑は、どこまでもやわらかい。左の指先が、ふわっとその前髪をかきあげていった。

 しばらくはそのまま隣あっていた彼らだが、ウエイターがプレートを持ってくれば状況はかわるというものだ。成長期というには少し遅いが、まだまだ食べ盛りではあるふたりだ。
「とりあえず、喰うとするか」
 そんな言葉とともに、男は元の席へと戻っていった。
 次々とそこへ運ばれてきたのは、どれも和真の好きなメニューばかりだった。頭を悩ませていた問題もすでに解消していれば、うきうきと握るフォークの動きも軽くなるのが当たり前だろう。
「普通さぁ、こんなにも女のコに選ぶか?」
「あう……ゴメンナサイぃ」
 和真は男性としても、見た目よりはよく食べるほうだ。確かにテーブルを完全に覆いつくしたこの量は、男二人、しかも彼らでなければオーダーしないだろう。健啖なのはむろん彼ひとりだけではない。気分が良ければ、食事はおいしいものだ。互いに食べることと話すことの両方に、ひとつの口を使い分けていく。
 そしてふわふわとした心地のまま、夕食のひとときは進んでいった。
「さて。シンデレラ・さゆり? まだ時間はあるよ」
 最後のひとくちを食べ終わるのを待っていたのだろう。先にフォークを下ろしていた男は、腕時計をかざしながらそう切り出してきた。
 針はまだ、夕方から夜の境を越えたばかりの時刻を示している。
「遊園地だって、ゲーセンだってある」
「それって……」
 夢の時間を、まだ続けてくれるのだろうか。閉園時間まで、ずっと。
 瞳が輝きを放つのをとめられないまま、彼はまっすぐに見つめかえす。静かに頬に熱があがるのを、感じずにはいられない。
「それにな、ここだけじゃないぜ? 遊べるのは」
 ただでさえ呼吸が苦しいというのに、小さなウインクはいたずらめいてなお誘いをかけてきた。どこまでも心臓に悪い相手だ。この心拍数の早さ、男はわかってくれているのだろうか。
「さて、姫。まずはどこだ?」
「……観覧車!」
 するりと礼をとってきた相手に、いまはまだワガママを認められている和真はそう言い放った。
 天にいま、もっともちかい場所。チョコレートを渡すなら、きっとあそこが一番だろうから。
「OK、じゃあ行くか」
 そこに変わらず差し出される腕は、どこまでもさりげなかった。腕をからませれば、ぬくもりが伝わってくる。イルミネーションを越えて吹きつける冬の風も、ふたりの間ではただのアクセントにしかならないようだ。
「改めて訊くが、水族館はどうだった?」
「楽しかったと思うけど……」
 落ち着かなかったのも事実であるからだろう、声は徐々にちいさくなる。
「また来たいと思ってくれるか?」
 重ねられた声は頷きを素直に返させてくれるものだった。
 今日はどうして、言葉を引きだそうとしてくれるのだろうか。ささいな疑問はただそれでも幸福感だけをもたらしてくる。思わず感情のまま抱きつきかけて、けれど和真はふと思いとどまった。
「なんかやっぱりバレてる? おいらが男だって」
「いや? わかんねぇだろうな」
 返された囁きが、耳にひどくこそばゆい。路上でこそこそ顔を寄せ合うなど、普段なら絶対できない仕種だ。妙にあたたかい息を間近に感じれば、だれにも声を聞かせないためのものだろうが、くすぐったい感覚が心にまで及んでくる。
「どうしてだ?」
「なんか、すごく見られてるから……」
「身長は隠せないからな。こんなデカイふたりづれ、つい見ちまうんだろ」
 だからといって、視線を避ける必要はないだろう。堂々としたふるまいをつづける相手は、まったく悪びれもしない。むしろこの状況を愉しんでいるかのようだ。
(見せつけても、いいんだよね)
 今日のふたりはどこにでもいるカップルでしかない。
 連れだって歩いていく足取りも、いつもよりゆるやかだ。からめた腕にぐっと力をこめれば、すっと頬に降らされたのは、ほのかな口づけだった。そのまま首筋に、キスマークがつけられる熱い感覚がつづく。
「12時になったら、解いてやるからな。その魔法」
「え?」
「期待してろよ」
 うなじをたどってカリッと噛まれた耳が、ちくりと痛む。熱い囁きを残して、すっと男の唇は離れていった。
(このひと自体が、どんなチョコなんかより、甘くて苦い)
 のぞき見た横顔は、あくまでも愉しげな表情を浮かべている。
 首もとを押さえた指に、強い脈を感じた。

 強すぎる、媚薬 ―― まわりだした酔いは、とまらない……。



   046:名前 ≪≪    ≫≫ 037:スカート
                              (white day)


なんとなく、アニバ話。なのに今回は、女装ネタ…。
男女カップルでも多少は人目、気にしろよっ!




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