携帯電話(=PHS)。


「チッ……」
 クラブハウスの外。男は手の中のPHSに、鋭い舌打ちをしていた。長い呼び出し音のあと聞こえてきたのは、無機質な留守録の声。特に録音するほどの内容があるわけじゃなければ、切るしかないタイミングだ。
 仕方なく、電源キーも兼ねたボタンを押す。高い発信音は、ぷつりと消えていった。
「なに、やってんだよ」
 最近、電話が通じない。不機嫌きわまりない罵りとともにリダイヤルを繰り返せば、履歴ばかりが無意味に増えていく。そこに刻まれる名前は、ひとつだけだ。
「本当に、なにやってんだか……」
 呼び出し音の響きが、耳に痛くなってきたころ。彼の唇は、さきほどと似たようなセリフを、呆れたように呟いていた。けれど白く変わる吐息に重なった今回のそれは、どうやら自身に向けてのものだったらしい。
『え? ちょっとグループワークで集まるから』
『なんか年末ちかいから、家でにくくて』
『あたらしい歌詞、あげないと』
 言い訳じみたセリフならば、いくつ思い出せるだろうか。たまにつながっても、すぐに切られてしまう。
 何度目ともつかなくなった留守録への切り替え音に、彼はあきらめたように電源を落とした。
「逢いたいうちだけ、追っかけてきてただけってな」
 サークルで逢っても、逃げるように帰られる。立場が逆転してしまえば、こんなものだ。つながらない電話をかけつづけるなど、昔の自分からは想像できなかった。
 タバコをさぐる手もずいぶんと重い。のろのろとくわえて火をつければ、瞬間の熱に、気温がいっそう冷えていることを感じさせられる。
(最後にまともに逢えたのは、いつだったか)
 たちのぼる煙につられて、視線があがる。どんよりと重い灰色が、空を覆い尽くしていた。
「あの日かよ……」
 かすかな光を雲の隙間に捉えた瞳は、静かに細められていった。

 12月の気配が、足早に近づいてきた月末の部室棟。普段どおりPCに向かう彼は、これまた当たり前のごとく背中合わせに座ってきた青年と、たわいのない話をはじめていた。
「クリスマスってさ、どうするんですか?」
 なんという前振りもなく、相手はその話題を持ち出してきた。さりげないつもりなのだろうが、わくわくと心を躍らせているのが丸わかりだ。
「いつもどおり、かな」
「え! クリスマスだっていうのに?」
 からかい気分がなかったとも言えないが、画面をみつめたまま答えを返せば。いきおいよく振り返ってきたのだろう、ガタンと椅子の音がした。
 様子を窺いながらもキーを打ち、黙って待ってみる。と、いきなり冷感が襲ってきた。
「それより、お前! なんだその手はっ」
 肩をつかんできた手は、ウールのセーター越しにも冷たかった。けれど相手は頓着しないらしい。
「だって、冬なんだから。さむいんですよー」
「へいへい。そうなのな」
 ギッと椅子の向きを変え、その手を直接自分の手で暖めるように包み込めば。
「げ、小さい手。すっぽりじゃんかよ」
「っていうか、先輩の手が大きいんです」
 ほんの少しだけいじけたような声は、周りの失笑を買っていた。

 あんなふうに触るだけで、幸福だと感じていたんだ。
 目を閉じたまま想いを馳せているうちに、タバコは灰になっていた。
(記憶……いや、あいつまで。同じように風化して、なくなってしまいそうだ……)
 冷気はすっかりと彼を包み込んでいる。じわじわと浸食してきていた不安が、冬将軍として襲いかかっているようだった。
 けれど男は、その目をキッと見開いた。
「……逃がさないって、言ったはずだろ」
 あの日、彼に告げたセリフをもう一度口にすることで、自らに言い聞かせる。声音は、ひどく低い。
―― 不安を逃げ道になど、もうしない。
 もう一本と指を伸ばしかけていた箱をしまい、一度だけその腕で天を突き上げる。そのまま駅へと向かいだした背中は、寒風を突き抜けていくだけの気力を放っていた。



 そして、数日後。彼は地下鉄の改札にいた。いつもの乗換駅を、いくつも越えた駅だ。
 目的はただひとつ。いや、ただひとり。
「 ―― よう」
 どれだけ待ったかは、もうわからない。いくらコートを着込み風の吹かない場所にいるとはいえ、暖房のない小さな駅の構内などあたたかいはずもない。荷物を小脇にして立ちつづけしていた足は、少々感覚を失っている。
 けれど、そのターゲットをみつけた彼は、ただ片手をかざすように上げ、そう短く呼び止めていた。
「せ、んぱい……?」
「どうした? 間の抜けた顔して」
 強張った背を伸ばしなから、階段を下りてきた相手へと近づいていく。隣に立ってなお驚きを示すだけの顔に、いつもの笑みは浮かんでこない。
「だって、今日は」
「クリスマス・イブだな。だから?」
 喜んでくれると思っていたわけではないが、とまどいだけの表情には、ほんのすこしの失望を感じたようだ。それを隠すためにだろう、彼は言葉尻を奪うように、少し強めに声を重ねた。
「いつもどおりだって、言っただろ」
「だって!」
 高くなる声を、指先で封じて。周りに人が多いわけでもないが、邪魔にならないよう壁際に誘導してやる。
「……迎えにきたのは、きまぐれだ」
 おどおどとしながらもついてくる姿に、ますます焦れる気持ちが大きくなっていく。
(だが、逃げてるのは ―― 俺も、か)
 自分の言葉の選び方の卑怯さに気づかないでいられるほど、彼もセコイ性根にはできてはいなかった。せめて自然な表情が作られているようにと、心から願わずにいられない。
 それでも顔を合わせていることが、できなかったのだろうか。すいっと逸らした視線は、ちいさいと感じさせられた相手の手へと、ひそかに落とされた。
「あいかわらず、冷たそうにしてるよな」
「え、あ……うん」
 とまどうだけで、今は触れてもこない。そんな臆病な手を、しっかりと暖めてやりたい。強く握りしめたい衝動が、わき起こる。
『いつもどおり、かな』
 些細な後悔が、その手を黒いコートの内側にとどめていた。
 あのとき特別に誘わなかったのは、一緒にいることを、当たり前に思っていてほしかったから。 どうして、それを素直に言えないのだろう。伝えられずに失敗するのは、もう懲りたはずなのに。
―― 当たり前に甘んじることは、やめたんだろう?
 一緒にいるための努力は、惜しまない。いつでも相手のことを考えてやりたい。いや、考えることを許してほしい。
 落としていた視線は、強さをたたえて相手の瞳をつかまえた。
「メリークリスマス」
 別にキリスト教徒じゃないけどな。そう口先でこぼしながら差し出したのは、割に小さめのクラフト紙でできた袋だ。けれど相手の、氷のようであろうその手は、いっこうに伸ばされない。男の顔とその袋を、交互に見交わすだけだ。仕方なく彼は、銀色のシールをはがし、自分でその中身を取り出した。なおかけられていた薄紙も、あらっぽい仕種で破っていく。
「ほら、手ぇだせよ」
 だせと言いながらも、その手はすでに相手の手首を掴んでいる。しっかりとしながらも細いそれは、たやすく引き寄せられた。そして強引に掴みあげたそれに、ぐっとかぶせた物は。
「てぶくろ?」
 驚きの声をあげた相手は、しげしげと自分の両手をみつめている。手首側にベルトのついた、キャメルっぽい色合いのスエードは、すっぽりと相手の手をつつみこんでいた。
「内側、ボアだから暖かいだろ?」
「うん、ホントに」
 折り返しの手首から、それが少し見えているせいで、すこしだけかわいらしい。けれどそのデザインが相手に似合う自信はあった。しかもボアのおかげでぶかつくこともなく、標準よりちいさな手はぴったりと収まったようだ。サイズだけは不安だったのだろう。内心で男はほっと息をつく。
「ありがとう」
 両手をさんざん開いたり閉じたりした後。かすかな声とともに、彼へと視線が向けられた。絡めれば、その貌もゆるめられた。そして、ようやく花開かされた、いつものあの柔らかな微笑み。じんわりと暖められたのは、どうやら相手の手だけではなかったらしい。
「いや……」
 贈ったほうも、例外ではなかったようだ。やっと得ることのできた、欲していたこの表情に、照れたように口ごもる。そんなときにでる癖なのだろうか、左手はさらりと前髪を掻き上げていく。
 そのとき、何が起きたのだろう。相手の生き生きとした瞳が、瞬時に曇った。笑顔もかき消えていく。
「ごめんなさい。おいら、なんにも……」
「いいさ。俺が贈りたかったんだ」
 別に見返りを期待していたわけではない。あっさりと否定するのも、相手の想いをないがしろにするようではあるが、幻のように失われた表情のほうが今はひどく惜しい。首を軽く横へ振りながらも、男の視線はその顔から決して外されなかった。
「あっ!」
 その視線をあびたまま、うつむきがちになった相手の背後で、デイバッグが落ちた。手袋のせいで常よりは不器用だったのか、それとも冷え切っていた指のせいだろうか。あわてて拾い上げようとすれば、中身までがこぼれ落ちた。
「おいおい。なんか落とした……っ!」
 苦笑しながら拾いかけた男の声が、ぴたりと詰まる。そしていくつもちらばった物のなか、視線もまた、ひとつの物にひたと据えられた。
「いかにもだな」
 思わず、堅い声が出る。拾い集めようと伸ばしかけた手もまた、何かに止められたように固まっていた。
 そこにあったのは、かなり崩れてはいるが赤に緑の薄紙で包まれた、明らかなクリスマスプレゼントだった。添えられたのは、ちいさなベルとスノーフレーク柄のカードだ。
(仕方ないよな、こいつも人気ありそうだし)
 保健学部は、元が看護だけあって、女子学生の多い学部だ。少ない男子であれば、なおのこと誰かからもらう可能性は高い。渡されて断るということも、この彼のことだ、しづらかったのだろう。
 それだけのことだ。そう言い聞かせるようにため息をひとつ吐き、なぜか動こうとしない相手をよそに強張った手を動かして、さりげなく男はそれを拾いあげる。大きさの割りに重く感じたのは、単に気分のせいだろうか。
「クラスメイトか誰かに、もらったのか?」
「ちがうっ。もらってなんかない!」
 構内に反響するほどの叫び。差しだそうとした手は、今度こそ彼の意志でもって動きを止めた。ざわざわとした周囲の状況も、彼の中では完全に停止した。
「じゃあ、これは? いまから誰かに逢うってコトかよっ!」
 もらい物でなければ、これから贈られる物ということ。瞬時の判断は、鋭く詰問を発させていた。しかも、回転を始めた思考が、そこで止まることはない。
「最近、連絡つかなかったのは、避けられてたんだな」
 とっくに愛想づかしされていたわけだ。納得してしまえば、必死になっていた滑稽さに反吐がでる。追いかけてくることも迷惑だと。いや、内心であざわらわれていたかもしれない。
 悔しさに、相手をきつく見やれば、叫んだショックでだろうか。その顔は青ざめ、酸素を求めるように何度も薄く口を開きかけていた。
「まあ、いいさ。突然こんなとこまで来て、悪かったな」
 足下に落ちている他の物を、とりあえず男は拾い集めだした。そしてすべてを相手へと押しつける。もちろん、あの包みも一緒にだ。そしてくるりと身体を返して、すぐ目の前にある階段を一段ずつ踏みしめた。どこに行くつもりだったのだろう、帰るのならば改札を通らなければならないというのに。
「当分、冬休みだから逢えないが。また来年、サークルでな」
 けれど引き返すだけの余裕はなかった。恋を失う衝撃は過去に経験があろうが、軽くなることはない。むしろ二度目であれば、なおさらダメージは大きいだろう。年上としての最後の矜持だけが、ただ今の彼の足を支えていた。表情はみせない。無意味な格好つけをしているものだと自らを嘲れば、相手を振り返ることなど、なおさらできようはずもない。
「ちゃんと、その相手に渡してやれよ」
「ちがう……」
 そんな彼の耳を、まず、か細い声が打った。つづいて、バタバタというはげしい足音と、体当たりに等しいひきとめに襲われた。思わず息が詰まるほどの衝撃だ。そうして強制的にふり返らされれば、包みだけを手にした相手が、目前に迫ってきていた。
「なんだよ。俺にくれてやるってか?」
 突きつけられた包みに、底意地の悪い笑みが浮かぶ。間に合わせにしても、ひどい仕打ちだ。
「だが、そんなのお断りだ。どうして受け取らなきゃいけない」
 自尊心を切り刻んでまで、そこまでの余裕をみせてやる義理はない。眇めた片目に映るのは、心の闇だけだ。もはや相手を見ることなど、できはしない。
 切って捨てるように言い放ち、そのまま背を向けようと思った ―― が。
「……っていうか、そもそもなんで俺が、お前から手をひかなきゃならねぇんだよ」
 立ち去りそこねて言葉を重ねれば、はたと気づかされた事実。確かに、退いてやるのがよいのかもしれない。そうしなければ、なおプライドに傷がつくかもしれない。けれども、退かなければならない理由は、どこにもない。
「逃がさないって言っただろ」
 気づいたならば、わざわざ身を退く気など霧散した。『君子、豹変す』だ、一貫性など知ったことか。
 自分からにじり寄っていけば、相手は追いつめられるように、狭い階段を一歩ずつ下りていく。もともと利用客の少ない駅だ。あげく誰もがこんな日に、もめ事に関わりたくはないのだろう。足早に人々はすり抜けていく。そんな中ならば、元の位置まで戻るのも、すぐのことだ。
「他のヤツに、どうして渡さなきゃいけないんだよ」
 感情が、低いうめきとしてほとばしっただけなのだろう。示す対象が、プレゼント自体か、相手自身をなのか。それは言葉を発している彼にすら、わからない。
「こんなもの……っ!」
 いまだ相手の手のなかにあった包みを、右の手で奪い取る。そして、床に投げつけるモーションを取った瞬間。
「ちがうの! それは先輩のためのなのっ」
 悲鳴のような声とともに、右腕が突然重くなった。
「だけどさ。もう先輩、持ってたし。だから」
 涙をこらえるためなのだろうか。腕をからめとったままの体勢で、泣きそうな目がひたすらにらみつけてくる。
 その透明な輝きに、卑劣さは感じられない。いや、むしろまっすぐすぎて、痛いほどだ。なんとなくいたたまれないと感じるのは、見つめられる男の考え違いだろうか。
「……あけるぞ」
 理解できなかったさっきの相手のセリフは、たぶんこれで解けるだろう。了承を待つことなく、彼はそのラッピングへと手をかけた。相手の腕も、そっとほどかれる。
 解放された手で、ベルと添えられたカードをまず取り除いた。二色づかいの包装をも、丁寧に外していく。現れたのは、掌に収まるかどうかギリギリの、黒い円形の紙箱だ。表面には、そのけっこう知られたメーカーが、シリーズ名とともに白く記されている。
「腕、時計……か?」
 摩擦抵抗を感じながら、その蓋をはずせば。メタルベルトのそれは、少なくとも女性物ではない大きさだった。見た目だけでわかるほど、ベルトも長い。赤色の文字盤は、男がときおりつける香水のボトルと同じ、深い色合いを呈していた。
『似合いますね』
 そう言ってくれたのは、匂いだったか、そのイメージだったか。近いはずの記憶が、かすんでいく。
「これもっ!」
 呆然としている男に、何かを感じ取ったのだろう。相手は包みに差し込んでいたカードを、力強く突きつけた。
 二つ折りにされた、ちいさなそれ。促されるままに開けば、そこに躍っているクセの強い、特徴的な文字は。
「マジかよ……」
 見開かれた瞳は、相手の手によるそれを、間違いなく読みとった。To.のあとに記されていたのは、まぎれもなく男自身の名前だった。
「じゃあ、なんで用意してないなんて」
 疑問は、まだ尽きない。不安を消し去りたい一心が、身体ごと迫り寄らせた。
「いつも着けてないから、持ってないのかと思って。けど」
 触れ合わんばかりに近づいた状況で。消えた言葉尻を補うように、相手の視線が男の手首をさまよった。
 髪をかきあげたあの瞬間に、みつけたのだろう。そこにはいつもは存在しない、黒革ベルトの薄型時計があった。
「そうだったんだな」
 涙の代わりのようにこぼれた訴えに返せたのは、そんな短くも意味のない言葉だけだった。『ごめん』とも『ありがとう』とも、今はなんとなく言い難かった。いや、もはや行動の全てが奪われてしまった彼は、ただ唇を噛んで立ちつくすのみだった。
「持ってるなら、いつも着けててくれれば……」
「いつもなら、いらなかったんだよ」
 ほんの少し責め立てる口調で発された恨み言は、徐々に赤く染まった頬には似合わない。わざとらしい拗ね顔を見下ろしながら、彼はそっと囁いた。
 確かに鞄には、時計代わりのPHSが入っている。けれどスイッチは、オフ。
 邪魔なコールが入るのも、嫌だった。そしてこの相手からの呼び出しすら、今日は ―― 。
 待ち合わせや、すれ違いの感覚。そんな懐かしいものですら、この相手からなら感じたかった。
「でも、まさかな」
「なに?」
「いや……。あとで、話すよ」
 苦笑になされた、息のような問いかけは、あまりにも甘い。謝罪も説明も後回しにするには、十分だった。そして、男はもう一度、ケースの中へ視線を落とした。
「綺麗だな」
 時計も、贈ろうという想いも。そして目の前の相手自身も。すべてが彼にはまぶしかった。
 たぶん、隠れながら一生懸命に捜してくれたのだろう。バイトをしていない相手にとって、どうしたって高額なこれを選ぶくらいに。いや、値段は問題ではない。左手首にある黒いベルトを、男はするりと解いた。
「着けて、くれないか?」
「……似合うね」
 左腕に廻された感触は、すこしだけ冷たかった。その冷感が、肌になじむまでの短い間。何度か見直していた相手は、そうしてふわりと微笑んだ。
 触発され湧き起こったのは、包み込まれたいという感情。そして、どうしても抱きしめてみたい衝動。けれど、それは理性に抑え込まれていった。
―― まだ早すぎる、すぐに相手を傷つけてしまう俺だから。
 時計へ落とせば、秒針が変わらないリズムを奏でている。同じ時に生きているだけで、今は感謝を捧げよう。
「ありがとう」
 感情のすべてをたたえさせた声は、心からにじみ出たかのように深かった。それを受けとめ返されるまなざしも、また海のように深い。まとう空気は、いだきあうように溶けあった。
(ほんの一瞬だけだから、許せよ)
 間近で見上げてくる瞳の誘惑に、男は負けた。そうして、触れてはならない肩に、その額をこつんと落とし込んだ。けれど恐れていたように、消えてしまうことはなかった。微動だにしない相手は、確かにそこにあった。
「あ……、そと」
 しばしののち。小さな声が、耳へと直接そそがれた。つい囚われてしまっていたぬくもりから、離れる機会だ。男は名残惜しげにその身体を引き剥がし、背後へと熱の残る顔を向ける。
「ああ。降ってきたな……」
 地下との境。小さなスペースから見える空間は、白いものがちらついている。しずかに舞い散るそれは、はかなくも白い雪。けれど降り積もれば、すべてをその色に変えていく。
(俺の心も、いつの間にか ―― )
 苦笑にも似た想いは、なぜか心に心地よかった。
「いつもどおり、メシでも行くか」
「うん!」
 公共の場で何をしていたのだろう。落ち着いてしまえば、気恥ずかしさは倍増しだ。床に取り残されていたデイバックを、男は拾い上げた。まだちらばっていた物も、そこへと突っ込んでしまえば、準備は完了だ。
(あ、しまった)
 どうやらまだ焦っていたのだろう。改札機を通るとき、つい左手を使うクセが出てしまった。仕方なく逆サイドへと伸ばせば、手首でキラリと光ったのは文字盤を覆うガラスだろうか。
「さて、ちょっと遅くなったが」
 迷うことはない。予定どおり、クリスマスをはじめよう。



 そう。聖夜はまだ、はじまったばかりだから ―― 。



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(クリスマス・和真side)


なんとなく、ラブ。やっぱアニバだしさ
それにしても当人たち真剣だから、ギャグ
思いこみの激しさなんて、最高級だね
こちらはネタ提供の結城さんに進呈



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