マヨヒガ(=迷い家)。



 いつもの店、いつもの席。そしていつもの相手でもあるはずなのに。
(どうしてだろう……)
 今日の和真は、なんとなく心が躍るのを感じていた。

「ここでいいよな」
 ちょくちょくと顔を出しているレストラン・バーという名目の店には、めずらしくも外で席を待つ人たちがいた。
 けれどその列を待たずに、中へと入り込む相手についていけば、すでに席はキープされていたらしい。予約という仰々しい雰囲気はなかったが、すぐに案内されたカウンターは、いつもとは色違いのコースターが置いてあった。
「こっちで選んでいいか?」
 座るやいなや、めずらしくも相手はそう切り出した。いつもは割に選ばせてくれるメニューだが、リストを持っていかれてしまっては、うなずくしかない。すると相手はさらりと目を流しただけで、中に立っているバーテンダーに合図を送った。
( ―― あっ)
 その瞬間、掲げた左手でキラリとまばゆい光が弾かれた。
 照明の落とされたなかでの、キャンドルの柔らかな灯りは、すこし動くたびにガラスに反射する。リストを差していく手の動きにつれて、輝きはいくつも生み出される。視線はもはや、その繰り返される美しさに釘付けだ。オーダーの声は心地よい響きすぎて、まったく気に障らない。
「……と、ミュスカデのハーフ」
 店員へとリストを返す大きな動きに、いっそう鮮やかにきらめいた光は、ようやくその様相を正しく顕した。
 男の左手首を飾るのは、深紅の文字盤が印象的な、メタルバンドの時計だ。決していかつくないそのデザインは、そこからつづく筋張った大きな手にもさらりと似合う。スタイリッシュな雰囲気も絶妙だ。
(自画自賛してあげたい気分……)
 今宵、それを贈ったのは、いまなお輝きに魅了されている彼自身だった。
「ほら。お前も少しなら、いいだろ?」
「へ? あ、ありがと」
 ついうっとりと眺め、悦に入っていたのだろう。自分側に近い、逆の手に掲げられていたボトルに、あわてながら脚の長いグラスを差し出す。うっすらと黄色い液体が、かすかな音とともに注がれていく。
「あれ? おいら未成年……」
「いいんだよ、今日はな」
 でも、一杯だけだからな。指をちいさく唇の前にかざし、内緒なのだとアピールしてくる。そんなおどけた仕種に視線だけで同意を示せば、ふたつのグラスは行儀悪くも打ち鳴らされた。
『じゃあ、また明日』
 そんな挨拶のような約束しかしていなかったというのに、こうして今ふたり、隣り合って存在している。クリスタルの透明な音は、そんな聖夜のはじまりにふさわしいものだった。

 込んでいるためだろうか。いつもよりゆっくり出されてくるプレートを眺めつつ、彼らはグラスを揺らしていた。肴はというと、たわいもない話ばかりだ。それでも互いの顔から、笑みが消えることはない。
「そういえば、駅でなにか言いかけてたのは……」
「ああ、もういいんだ」
 思い出したように切り出したのは、和真のほうだった。けれど相手は軽い言葉で、あっさり拒絶してきた。
「というか、また今度話すよ」
 くいっとグラスを傾けてから付け加えられたのは、思いやりだろうか。しずくに濡れた唇が、めずらしくも嫌みのない形に微笑む。それ以上の追及を無用と感じさせるには、そのひとつで十分だった。
「注ごうか?」
 静かに戻されたグラスは、空だった。けれど申し出をわずかな手つきで制した男は、そのままボトルを持ち上げる。手酌はあくまでさりげなかった。右側に座る相手への配慮もあるだろうが、元が左利きだったというだけあって、すべての動きは左手によるものであった。
 流れるように優雅な動作は、それだけで目を魅くものだ。そして添えられた輝きもあいまって、和真の視線はその手にふたたび留めつけられる。その瞳を追ったのか、カバーガラスの反射に相手も気づいたようだ。
「綺麗だな。この時計、本当に」
「でも先輩が思うより、かなり安いと思うし」
「値段の問題じゃないだろ?」
 巧く買うのも、努力のひとつ。そうして片目をつぶった表情は、たぶん型遅れと思われるセール品から選んできた後ろ暗さを、軽く吹き飛ばすものだった。
 実のところ、バイト禁止の和真の生活では、プレゼントの資金を捻出するのは至難の業だった。それでも何か、相手に似合う物を贈りたい。その一念が、ここ数週間の不審な行動の理由だったのだ。
 まさかその行動が相手に不安を与えていたとは、彼には思いも寄らないだろうが。
(やっぱり、ありがとう。なのかな……)
 脚で探し出したことを、努力だと認めてくれる。その想いには、適当なことばだと思う。
「どうした?」
「ううん、別に……え、なんか、コースっぽいなって」
 けれどタイミングを逃したセリフは、するりとちがう言葉に取って代わられた。視界にはいったのは、いくつかのプレート。次々とカウンター越しに出される料理は、シェアスタイルのものではあるが、確かに組み立てができていた。
「そりゃそうだろ。コースなんだから」
 疑問はあっさりと解消された。しかし驚きに見開いた目は、そうたやすく閉じられなかった。
「……ひとつずつ選ばなくても、よかっただろ?」
 選ぶことが、面倒だったのだろうか。それとも、この取り合わせが気に入ったということだろうか。
 言葉はそれ以上つながらなかった。そっと逸らすように、視線がグラスへと落とされる。ステムの長いグラスを持っていることはめずらしい相手だ。そのくせ慣れた手つきは、くるりと中の液体を廻していく。ワインはさざなみをつくっては、穏やかさを取り戻していっていた。
「マズかったか?」
「ううん、そんなことないよ」
 確かに和真も、前から気にしていたメニューではあった。だから注文自体には不満はない。
(値段、見ておけばよかったかも……)
 いつも割り勘の間柄だ。支払いを思うと、すこしだけ気が重い。けれどその味はまちがいないもので、せっかくなのだからと割り切れば、楽しみのひとつにしかなり得ない。
「でも、ちょっと落ち着かないね」
「そうか? まあ、うるさいしな」
 常はそうでもない店だが、今日という日のせいか、まわりはカップルばかりだ。ほぼ満席であれば、抑えて交わされる睦言のような会話も、ざわめきとなってくる。けれどうるさいと評するレベルでは到底ありえない。
(たぶんあんたのせいだ……)
 いつもどおりと言いながら、まったく違っている。誰かと過ごすクリスマスも、はじめてだけど。
「こんなのは本当に、はじめて……」
 夢見心地の呟きは、隣の相手にすら聞こえないほどかすかなものだった。


 すべてをきれいにたいらげてなお、歓談の楽しい時はつづいていた。しかし時間はいつまでも止まってはくれない。時計の針をみやった男は、グラス磨きに余念のないバーテンダーへとその手をあげた。
「先行って、コートもらっといてくれ」
「わかってるって」
 座席で精算をはじめる彼に促されるまま、和真はふたりぶんの上着を受け取り、外へと出て行った。そうして軒下に立って、自分のぶんのコートを羽織る。雪はちらついただけだったのか、つもってはいない。
「ああ、やんじまったみたいだな」
 待つまでもなく、相手も扉から顔だけを覗かせる。割に寒がりなのだろうか、店内からいつもどおり請求の腕が伸びてきた。すっと差し出せば、サンキュと軽い調子で奪っていかれる。けれどいつもならコートと引き替えに告げる金額を、彼は口にしてこなかった。
(あれ……?)
 それでもとりあえずと、デイバックのファスナーを引き下ろす。
「いいよ、俺が勝手に選んだんだし」
 取り出した財布を一瞥したのだろう。コートをしっかりと着る割にその前を開けたまま出てきた相手は、すっとその手を押し包んだ。
「でも、それじゃ……」
「今は、そんな気分じゃないんだ」
 気分の問題だろうか。留められた手を動かすと、男に頭上でちいさく舌先を出された。
「それにさ、カードで払っちまったから、金額あんまわかんねぇし」
「へ? めずらしい、なんで?」
「雪のなかで待たせるのも、なんだろうが。行くぞ」
 嘯くような調子は、やはりかわされたと思うべきなのか。先を行く相手につられ、軒先から出て歩き始めれば、すっと通り抜けた北風がのぼせていた頭を冷やしていった。
 いつもどおりなのは、昔のクリスマスとだったのだろうか。洗練されすぎたエスコートが、自分とはかけ離れた世界を見てきた大人なのだと、境界線をひいていく。それとも単に、特別に過ごす気などなかったのに、気を遣わせてしまったのだろうか。
「さむ……」
 ほんの少しだけ入れたアルコールが、かえって外界の冷気を感じさせる。彼はあわてて、もらったばかりの手袋を取り出した。品の良いキャメル色は、大人びた雰囲気。飾りベルトはハードなテイストを加えていて、小さな手へのコンプレックスを解消してくれそうな見た目だ。ごわつくことのないしなやかなスエードの感触は、やわらかなボアをしっかりと肌にまとわりつかさせてくる。
(これが、先輩の気持ちなんだよね?)
 しっかりとあたためてくれる手袋が、今はなんとなく手に余っていた。
「そういえばさ。さっき店で、訊いてきただろ?」
「うん。駅で……なに、言いかけたのかなって」
 最寄り駅までの道のりはさほどないが、無言で歩くには遠い。そのための前振りだろうが、無理に話させるようで気は乗らなかった。
「でも別に、いまじゃなくても」
「時計をしてた、理由だったんだ」
 押しつけがましくはない声は、重ねるように発せられた。これが“いま話させてくれ”という合図だと、いつ知ったのだろうか。和真は隣を歩きながらも、視線を合わせて静かに待った。
「携帯ってさ、待ち受けに時計表示あるだろ」
「うん、たいていは」
「でも電源切ると……。な」
 鞄から取り出されたPHSは、グレーの画面をしていた。
「なんでっ? 電話、通じなくてびっくりしたんだよ」
 待ち合わせることもできないかと、不安がっていたのは自分だけなのだろうか。駅への入り口を目前にしながらも、思わず立ちつくしてしまう。
「待ち伏せもいいかな、と。鳴るとウザいってのもあったけど」
 ごめんな。滅多に聞くことのないほど素直な謝罪が、その口から与えられた。いつだってこの彼に、迷いやてらいはないから、言葉に嘘はないのだろう。ならばすれちがってもいいと思っていたということだろうか。
 けれどそう伝えるにしては、あまりにもその表情は優しすぎた。
(疑うなんて、しちゃいけないよね)
 今日は夢のように楽しかったのだから。今まで過ごしてきたクリスマスとは、比べられないほど最高に。
「どうした。気分でも悪くなったか?」
「ううん、平気。今日はありがとう」
 首をひとふりして、和真は最高に幸せそうな表情をつくる。それは心からの微笑みでしかない。
「すごく楽しかった、幸せだったよ」
「――よかった」
 驚きに硬直したであろう相手は、ほっとため息に破願させられた。
「なら、たまにはこういう日も、いいものか」
 そうしてゆっくりと深い、ふかい微笑みを浮かべていく。しかしすぐにそれは、腕ごとぐっと伸びをされたことによって、和真の目から秘されていく。それでもあわせて天を仰げば、ビルの隙間からはいくつもの星がみえた。腕時計も、その輝きのひとつのように光る。
「ま、俺はお前といられりゃ、それでいいんだけどさ」
 あたりの騒がしい雰囲気に、まぎれさせるつもりだったのだろうか。シャイなつぶやきは、ひとりごとのようにかすかに消えていった。
「もしかして……」
 いつもどおりなのは、ただ一緒にいることだけでなかった ―― ?
 わずかな音に鼓膜が震えた刹那、彼はそのことに気づかされた。
 ともにあるのは、確かにいつものこと。けれど過ごし方も、常にふたりのために選ばれていたのだ。この夜も、いつもの日々も。クリスマスを特別と思う和真のために、今日という日は演出されただけのこと。
(だったら、毎日が記念日じゃんか)
 記念日〈ハレ〉と日常〈ケ〉は、常に連動していた。いつ迷い込んだのかわからないくらいに、密接な関係にあったのだ。夢とはちがう、あたかも平行する異次元ワールドのひとつであるかのように。
 それを象徴するように、二人のまわりは幸せそうなカップルばかりが囲んでいる。他には何も存在しない。
 この世界は、きっと互いだけを見つめ合うための聖夜。恋人たちの、クリスマス。だれひとりとして、他人なんて見てはいない。
( ―― だから、いいよね?)
 すこしのいたずら心も働いたのだろう。ちょいちょいと、真新しいスエードに覆われた指で、和真は相手を呼び寄せてみた。そんなめずらしい仕種に、目の前の眉間には薄くしわがよる。けれど不審げにしながらも、元が親切なタチなのか、その顔はすぐに近づけられた。
「なんだ? ―― ッ!」
 瞬間くちづけたのは、相手の右頬。心臓の高鳴りを伝えてしまうかと思った唇は、外気に冷え切ってなおわずかに宿していた頬のぬくもりを、確実に拾い上げていた。
 恋人だというのならば ―― このくらいの関係には、進んでもいい。
 ゆっくりと恋愛のステップを踏んでくれている思いやりも、わかっているけれど。
(でも、さすがに男同士だもんね)
 こんなときだけは、いっそ女の子だったらよかったのに。いや、そう見える格好をしていたらと思う。
「おい、お前……」
「じゃあ、また!」
 ドキドキとうるさい胸に、耐えかねたのだろう。唐突な行動に出てしまった彼は、くるりと身を翻して贈り物に包まれた手を振った。そして一気に目前の階段を駆け下りていく。追いかけるゆとりも、ひきとめる隙も、そこにはなかった。
「やってくれるじゃないかよ」
 待ち合わせのスリルや、もどかしくなるほどのすれ違い。そんな緩慢さすら楽しんでいた男は、先回りされた行為に、ちいさく舌を打ち鳴らす。けれどもわずかに赤く染まった顔は、隠しようもなかった。
(じゃあ、また……か)
 ずっと手の内にあったPHSの電源は、愉しげな表情とともに入れられていった。


『また明日な。おやすみ』
 短いそんなメールが和真の携帯にはいったのは、帰宅途上の電車内だった。

【END】

051:携帯電話 ≪≪≪
    (クリスマス・翔side)

*マヨヒガ=迷い家
 『遠野物語』からの解釈によると、「選ばれた者だけが(偶然)巡り合うことのできる異界」の象徴とされる


どこまでもラブ(笑) モメないとうっとおしいね、
こいつらは。くだらない勘違いでいいからさ。



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