054:子馬



 訪問を受ければ、茶のひとつくらいは出すのが普通のもてなしだと思う。

 とはいえだ。
『おーい! 俺、コーヒーな』
 先に請求するのはどうだろう。常々そんなことを考えさせられる相手が、この翔という男だった。
 もちろんそれを拒絶する必要のない間柄と、相手も認めているゆえだろう。だが突然やってきた彼は、今日に限って茶を出されるのも待たずにドリンク剤のようなものを飲んでいた。
「なに見てるワケ?」
 覗き込むモバイルの傍らに、疑問を抱きつつも結城は汗をかいたタンブラーを置く。夏まっさかりだからと冷茶に氷まで入れてあるのは、さすがの心遣いといえよう。
「アメリカのニュース。『子馬の死、桜が理由』だってさ」
「……は? なに、それ」
「なんか知らないが、アメリカ桜の葉ってのは青酸を含有するんだと」
 どうやら取り立てて関心は引かれていなかったらしい。電子音とともにモバイルは閉じられた。
「桜の葉を食べて、青酸中毒ってワケか」
「実でも起きうるらしいけどな。蛋白代謝の副産物らしいから」
 つづけて短い礼を告げると、よほど暑さにまいっていたのか彼は器の中身を一気にあおっていた。聞かされた側も夏の陽気にはうんざりしているのだろう。同じくタンブラーを空けながら、煎茶の苦みにほんの少し顔を歪める。
「さくらんぼ、うまい物には毒がある。ま、そんなところかぁ」
「毒、ねぇ……」
 とっくに飲み干していた翔は、同意するでもなくタンブラーをテーブルへと戻した。
「そうそう。この前は、手間と金のかかったプレゼントをありがとう」
「いや、別に。グラスも、ひとつっきゃ用意できなかったから」
「カクテルの話なんだがな」
 ピンッと卓上のガラス器の端を弾いて、彼はその目を眇めた。
 バースデープレゼントと称してもらったのは、グラスとデキャンタだけではない。むしろその中身が重要だったのだろう。正確には、そのごく一部の成分か。
「……まあ、材料あったし。一気に消費できて、よかったよ」
「やっぱ、混ぜてやがったか」
 舌打ちは決してちいさくない。だが文頭についた単語は予想済みであったことを示している。
 そのせいで結城はほんのわずか油断した。
「和真クンも、よろこんだでしょ?」
 意味深なことば運びは互いにいつものことだ。だからだろう、答えなく意味深な笑みを浮かべた親友にも違和感は抱けなかった。
「その礼にムースをつくってきてやったよ」
「別に気にしなくてよかったのに。誕生祝いだったんだぞ?」
「まあそういうなって。抹茶味、好きだったろ」
 彼の手で開かれたちいさな箱には、綺麗なグリーンをした洋菓子が収められていた。小振りなプラスチックカップの中身はなめらかな質感を示すムースだ。生クリームで繊細なデコレーションまでされていれば、もはや男の手作りとは思えない。
「器用になったな、おまえ」
「まあ、今後のために。花婿修行ってのか?」
「はいはい。お相手さんはしあわせだね」
 感嘆は長くつづけさせてもらえないようだ。お手上げとばかりに賛辞をひっこめ肩を竦めれば、準備してきたのだろうか。その眼前にすくっと一本のスプーンが突きつけられた。どうやらいますぐ食べなければならないようだ。
「十分に甘くしてきたと思うけど」
「はいはい、わかりました」
 めずらしいほど強引な試食に、結城は苦笑しながら口へと運んだ。見た目どおりのとろける舌触りは、一般人の手作りとしてはかなり上出来だ。甘さも、この甘い物が苦手な男からすれば、相当に濃くしてあるのか市販品並である。しかしなにか違和感を感じる。そう首をひねった瞬間、目の前にある表情は不気味に笑んだ。
「……これ、何の味だ?」
「ん? ちょっと和風にしてみたからなぁ」
「和風って、抹茶だからだろ?」
 だが抹茶だけにしては苦すぎる。ゆっくりと味わうように口の中で溶かせば、微妙に舌先をしびれさせるようなえぐみが、濃厚なあまさの中からじわりとにじんでくる。どこかで覚えのある、独特の嫌な味、というよりも感覚だ。
「おい、翔……?」
「まあ抹茶は使ってるな」
 おそるおそる窺えば、見つめ返す男の顔はゆっくりと綺麗すぎる微笑みへと取って代わられた。だがそれは危ない確信を結城にもたらすものでしかあり得ない。
「あとはレタスとかダチュラ……ナスだろ? あとキノコだったか」
「それって、おまえ。もしかして……」
 やられた。並べ立てられた原料に、結城のろくでもない頭はひとつの共通点を見いだしていた。
「お、おかえり」
「……あんたも来てたんですね」
 ただいまと答えないのは、言外に同居をしているわけではないという主張なのだろうか。気易い男の声かけに扉側を見やれば、どうやら政人が来たところだったようだ。いや、もう少し前からいたのかもしれない。嫌そうに歪められた顔つきがその理由だ。そのくらいの推察はたぶん年上ふたりともが出来うることだ。だが制作者は平然と笑うと、箱に残ったもうひとつを指し示した。
「おまえもどう?」
「甘いものは、あんまり……」
 それ以前に、そんな不気味な材料の入ったムースなど、誰が食べたいだろう。じりじりと扉ちかくへと後ずさりかければ、だがすっと立ち上がった翔の視線はその足を縫いとどめた。
「じゃあ政人。おまえには、これやるよ」
 目の前まで来た男は、にっこりと詐欺師のように微笑んでいる。けれどますます政人は警戒を強めた。同じような表情を恋人ゆえに見慣れていれば、胡散臭いとしか感じられない顔つきなのだろう。
「……なんです、これ」
「ヤバいもんじゃねーぞ。俺がいまさっき飲んでたのと同じだよ」
 言われて見返せば、卓上には確かに同じような小瓶が置かれている。だとすれば逃げがたい。そうして一瞬だがうろたえた目線は、決して見逃れはしない。ふたをねじ切った翔は、わずかだけ背の低い相手へとぐぐっと瓶を押しつける。
「飲んでみろって、ほら」
「おかしなもん、飲まされてなるかよっ!」
 逃げ腰になる政人が悪の手に堕ちかけた瞬間、間一髪でその瓶を奪い取った結城は中身を一気に飲み干した。残しておけばまた飲まされかねないが、捨てに行くには水場まで遠い。その結果が生んだ、はっきり言って暴挙に過ぎる行動だった。
「あーあ、おまえ、そんなんまで飲んで……」
 呆気に取られていたのは、政人だけでなく翔も同様だった。しばらく空の手を握ったり開いたりし、ようやく立ち直った彼は咳き込んだ相手へと呆れを隠さない表情で呟きかけている。
「……信じらんねぇっ! なんつー味のもん、勧めんだよっ」
「おまえには勧めてないっての」
 平然と飲んでいた姿を見知っていればこそ、実際に口にしたとんでもない味が衝撃だったのだろう。だが言葉で噛みついたところで堪えるような相手だろうか。それも涙目などであれば、攻撃力など彼に対してかけらも生じはしない。
「知らねぇぞ。政人、壊しても」
「それ、なんなんですっ!」
 ばっと結城をかばいこんだ政人は、ニヤニヤと嫌らしい嗤いを浮かべだした相手へめずらしく言葉を荒げる。だが翔の相好はますます崩れるばかりだ。
「たぶんふつうに精力増強剤。かなりマズいけど」
 ありきたりなセリフも物騒なものに響くのはなぜだろう。ただそれ以前に、ゲホゲホと激しく噎せかえる結城に説明は届いていなさそうだ。
「ホントに……?」
「じゃなきゃ俺も飲まねえよ。ヤバイもんじゃねえから、おまえにやろうと思ったのに……」
 なんにもなしじゃ、つきあえないだろうから。ちらりと流された視線は、当然ながらいまだ咳き込みつづける悪友に対してだ。
 しかしそのコメントこそがムースの危険さを政人に知らしめた。
「まあ追加はさ、有料で受けつけるよ」
「……ちなみに、いくらのつもりです」
「うん? シーツ一枚ってトコ」
 妙に真実味のある価格設定である。だが購入意志を確認することなく、新たな一本は鞄から取り出されていた。予備があるのはこんな状況をも予測していたからだろうか。
「先渡ししてやるから。使ったら、払ってくれよ?」
 サイズは、セミダブルのロングだから。
 立ちつくす政人の手にちいさな瓶を押しつけると、彼は意気揚々とその部屋をあとにする。
「なにをやったんです、智さん……」
「あ、はは。ちょっとね」
 汗を浮かべつつの引きつった笑いは、呆れたような視線に晒されていた。


「なーにが『悦んだでしょ』だ」
 勝手な憶測ですら、和真がからめば腹立たしい。帰途につく翔はイライラと爪を噛んでいた。だが最初から準備して出かけているあたり、どちらにせよすべき仕返しではあったようだ。
 ただの礼じゃつまらない。恩には恩。仇には仇。いたずら心は、倍返し。
「だから、おもしれーんだよな」
 声とは裏腹なほどに、彼の表情はさわやかだった。なにせ政人が来ているならば危険もない。その後のことはふたりの問題、想像を膨らませるほど悪趣味でもないつもりである。
(さて、俺もあいつに逢いに行くか)
 気力と体力が充実したからだろうか。夏の照りつけるような陽射しの中、愛しい恋人の元へ向かう足取りはひどく軽やかだった。



070:ベネチアングラス ≪≪


何事も、根性を据えて(笑)




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