070:ベネチアングラス




 夏の太陽が、ようやく残滓を赤くにじませながらも、完全に地平へと飲み込まれたころ。
 ワンルームマンションの一室に、ドアホンの呼び出しが鳴り響いていた。
「はいはい、はーいっと」
 和真にはまだあまりなじみのない音。けれどこの部屋の持ち主は、人がいる限り自分では鍵を開けない主義だ。もちろん留守宅を預けるに足ると思われているからだが、いまはその信頼自体はどうでもいい。
(すぐ開けないと、機嫌悪くなっちゃうからね……)
 それこそ待っていてほしいという心の表れなのだろう。けれどささいな時間差で不快になられては、たまったものではない。和真だとて待ちわびているのは事実なのだ。
 だからこそ作りかけの食事もそのままに素早い動作で玄関に向かった彼は、とっておきの笑顔で最後の障害を開け放った。
「はやかっ……、あ。結城先輩」
「やあ」
 いきおいよく開けた扉のさき。そこには予想とは異なる、けれど見知った相手がにこやかにたたずんでいた。
「翔のヤツ、まだ帰ってきてないよね?」
「あ、はい」
「ちょっとプレゼント渡しにきただけなんだけど……」
 かかげられた紙袋はどことなく重そうにたわんでいる。今日という日がなにかを知っていれば、説明を求める必要もない。
「でも、すぐ帰ってくると思うんで」
 ドアを押さえたまま中へと促せば、彼は脇を抜けて入ってきた。
「へえ、イイ部屋じゃんか。奥が寝室になるわけね」
「そうみたいです」
「けっこう高そうだな、ここってば」
 玄関から伸びる短めの通路には水回り一切、そこから扉を一枚抜けて、ワンルームを仕切った奥が寝室、手前側はリビングダイニングとなっている。造り自体は、結城が学生時代に住んでいたアパートと似ていなくもない。ちがうのは通路がなく、水回りは直接部屋から扉で区切られていたことだろう。
「とりあえず、座ってください」
 家人の留守中、部屋中を散策されても困った話だ。立ったまま首だけで検分していた彼に、和真はとりあえずクッションを勧める。めずらしいくらい素直に座った結城は、手に携えていた袋からローテーブルへ、慎重に荷物を並べだした。
「ああ、しっかり口も閉まるんだな……」
 取り出されたのはガラス製のグラスと、デキャンタボトルがひとつずつ。深いレッドとクリアグラスが、絶妙なコントラストを呈している。中身も入っていれば、丁寧に扱いたいのも道理だろう。
「綺麗なグラスですね」
「あいつ、こういうもの好きでしょ? だから」
 素直な感想を述べれば、裏のなさそうな笑みが返される。華美な物を好むわけでもないが、質実剛健をモットーとする相手ではない。確かに納得できるセレクトだ。
「ベネチアングラスなんだよ、どっちも」
 だからグラスふたつは買えなかったんだ。
 ほんの少し寂しそうに付け加えられても、その名称が表す価値は和真にはわからない。グラスの脚にはそのベネチアングラス特有のものなのか、レース模様が埋め込まれている。部分的に金箔で飾られている箇所もあることだ、決して安いものではない。きっと思った以上に高価なのだろう。
「きっとあのひと、気に入りますよ」
 贈り物の価値は値段だけではない。翔ならばきっとその心までくみ取ることだろう。
「だといいけど。それで、せっかくだし初使いは今日の夜がいいかと思って」
「じゃあ、中身もちゃんとワインなんですね」
 デキャンタは準備万端に濃い赤色を湛えている。けれど翔が赤よりも白を好むことを、親友である彼が知らないはずはない。揃えたガラスの色に合わせたかったのだろうか。
「まあね。あいつ好みじゃないし、カクテルなんだけど……」
 きょとんと見返した和真を、ちらっと見やった結城はその手を自身の頭にやった。
「けど?」
「味見してくれる? さすがにはじめて作ったから」
「ええー! おいら、お酒の味なんてわかりませんよーっ」
「プレゼントなのに、失敗作じゃさぁ。頼むよ」
 ペコリと頭をさげられてしまえば、後輩でなくとも気の好い和真は断れはしない。そもそもこの相手に逆らえた試しなどないのだ。
「じゃあ、ちょっとだけ」
「ありがとう! 助かるよー」
 ばっと顔を上げた相手は、気の変わる前にとでもいうのか即座にデキャンタを掴み上げていた。勢いに押されるまま、グラスを手に取らされる。濃い色合いのガラス器からトクトクと音を立てて注がれる液体は、写し取ったように濃密な色合いをしていた。
「ちょっと甘すぎかも、しょ……先輩には」
「あはは。俺の味覚って、あいつとだいぶちがうみたいだね」
「おいらには、なんとなく苦いんですけどね」
 注がれたのはグラスにほんの一口。舐めるようにして味を確認したあと、彼は一気に飲み干した。
「やっぱ、ちょっとまずかったかぁ」
「あ、いえ。そういうわけじゃなくって」
 残った味を消そうというのか。ちいさく舌をだしていれば、常の微笑みを苦笑に変えて問われる。だがあわてて否定するまでもなかったようだ。
「いや仕方ないから。でも味はともかく、こいつ『ラブファイヤー』って言うんだよ」
 ツンツンとつつかれたのはボトルの下方。カクテルの名称だろうと推察される動きだ。
「ラブファイヤー?」
「そう。恋人たちの夜には、最適でしょ? ということで」
 立ち上がりしなカードを一枚デキャンタの下へ滑り込ませると、彼は廊下との扉へ手をかける。
 せっかくの誕生祝いを届けにきたというのなら、当人にも会っていくものではないだろうか。だがもうすぐ帰るはずだからと引き留めても、その足はとまらない。
「あいつの留守に長居してたら、また面倒だから」
 嫉妬深さは立証済みということだろう。苦笑を交わし合ったあと、和真は申し訳なさそうに肩を竦めて見送ることにした。
「そうそう。ドアは確認して開けなきゃ、ダメだよ?」
 誰が来るかなんて、わからないんだからね。
 まるで子どもに対するような忠告は、めずらしくも真顔で発されていた。
 そうしてパタンと扉が閉められてから、しばし。ドアホンは軽やかに鳴り響きだした。普段ならば即座に駆けつける玄関、だが先刻のことばは和真に異なる動作を選ばせた。壁に設置されたボタンを一押し。
『……ただいま』
 カメラアイからの画像、立っているのは常の相手だった。
「誰か、来てたのか?」
「あ、うん。結城さんが」
 あわててドアホンでロックを解除すれば、出迎えなかったことを非難することなく翔は中へと入ってきた。一瞥した卓上で状況を悟ったのだろう。グラスもデキャンタも、明らかにこれまでここになかった品だ。
「めずらしい……っていうか、ココ来たのもはじめてじゃないか?」
「たぶんそう。で、お祝いだって、それ置いてった」
 ふうん。さほど関心はなさそうな声はだがそのプレゼントのせいではない。夏の外気を帯びた服を早く脱ぎ捨てたいのだろう。バサバサと騒々しい音が立てられると同時に、汗ばんだ肌が露わにされていく。目の当たりにする光景は、長くいっしょにいればそろそろ見慣れたもののはずだった。
(おかしなこと言ってくから……)
 普段ならわざわざ逸らす必要もない。だが和真は目を伏せてなお、ドキドキとする心臓と熱くなる身体を抑えられずにいた。だがまだ相手は帰ってきたばかり。いまからたぶん汗を流して夕食だ。流し台に置いたままの食材が、閉じかけの扉の先にはあるはずだ。
 けれども和真の目は、避けてなおシャツを脱ぎ落とす姿だけを追ってしまっていた。
「……熱でも、あるのか?」
「えっ! あ、なんでもない、からっ」
 眇めた目線で問う翔が、汗ばんだ額に触れようと手を伸ばす。その瞬間、ビクリと退かれた身。瞬間的にかたく瞑った瞳は、容易には開かれそうにない。不審に思うには十分だったろう。
 そして何よりも彼だけにはわかる、この覚えのある反応。
「おまえ、もしかして ―― 」
「たぶんそれが廻ってきたんだと思う」
 問いかけの言葉もさすがに言いよどむ。その隙を突くようにあわてて説明が差し挟まれた。
「味見って、それ飲まされたから」
「ああ、なるほど。だが……酔ってるときって、そんなんだったか?」
 指し示された卓上のデキャンタ。だがアルコールが原因だと告げられても、違和感は消えないようだ。酔った相手の記憶がそれほどなければなおさらだろう。
「どれだけ飲んだ?」
「このくらい……」
 控えめに伸ばされた指先が示したのは、グラスにして半量というところか。
「そんなんで、酔うか?」
 確かに彼はアルコールに強い性質ではないゆえに、あまり飲ませたことはない。だがそれにしてもおかしすぎる。翔の警戒信号は確実に発された。それゆえ眉根を寄せたまま、まだ乾ききらないグラスにデキャンタを傾ける。少々とろみのある液体が壁面を伝うようにゆっくりと流れ落ちた。
「なあ。このカクテルの名前、聞いたか?」
「……うん」
 言葉を交わしつつ、いっぱいに満たしたグラスを鼻先に運ぶ。よほど強い酒だったのかと思ったが、アルコール独特のあのにおいは感じられない。妙に甘い香りがむしろ付けられている感じである。酒ならばスコッチが一番という嗜好を知っている友人が選んだにしては、ずいぶんと嫌がらせじみている。舐める気にもなれなければ、グラスごと持てあますしかない。
「なあ、これ……って、おい! 大丈夫か」
 ずるりとその場に崩れるように座り込んだ和真に、赤い液体ばかり注視していた男もさすがにあわてる。幸いにも卓上に戻すだけの理性はあったのだろう。
「……ラブ、ファイヤー」
「え? なんだって?」
「だ、からっ、それ」
 切れ切れの息からもう一度告げられた単語に、翔はその目をおおきく見開かされた。過去の経験が要させた知識にその単語は含まれている。だがそれはカクテルの名称としてではない。
「『ハッピーバースデー、翔。うまくやれよ』か」
 驚きの表情を即座に隠し、あたりを探る。デキャンタの脇に放置されていた裏返しのカードを手にして、彼はすべての策略を知った。
「グラスとデキャンタもプレゼントってわけだ」
 メインはちがう。もちろんカクテルでもないし、その一部でもない。あくまでもそれを飲んだ和真ということだろう。さりげなく書き足された『うまくやれよ』のひとことがその証だ。
 絶対的いたずら心もあるだろうプレゼント。されどこれが祝いだというのならば。
「乗ってやろうじゃねぇか」
 喉の奥で嗤う声は部屋に低く響く。けれどその薄ら寒さすら感じさせる音とは裏腹に、うずくまる和真の傍らにそっと傍らに膝をついた彼はやさしげな素振りで手を差し伸べる。
「先、ベッド行ってろよ」
「……あ」
 もはや欲情を隠しきれない瞳は、しばし逡巡するように彷徨わされる。だが従うことは間違いないだろう。翔はそんな相手を背にすると、卓上へと手を伸ばしていた。取られたのは、もちろん先ほど放棄したグラスだ。
「こういうグラスでってのも、ある意味、似合いかもな」
 綺麗なものには棘がある。そんなぴたりとはまる喩えが彼の頭には浮かんでいた。
 精緻な細工が赤い液面を湛えればこそなお鮮明に輝いている。まだ夜にもなりきらなければ、窓から射す夕陽は色の濃さを助長していた。そのきらびやかさを目に再度焼きつけつつ、翔は一気にその濃い中身を空けていく。
「……信じられねぇ、味」
 ごくりと喉が鳴るまでに、数旬を確実に要した。独特の薬品臭は確かに感じられない。苦みやえぐみも、甘さでごまかしたつもりなのだろう。このまとわりつく感触はその弊害なのか。思わず咽せかえりそうになる衝撃を、なんとかやり過ごしてすべてを飲み下した。思わず漏れたのは安堵の吐息だった。
「さて、と。……あ? いたのか」
 くるりと振り返り見下ろせば、まだ動けずに和真は床にうずくまっていた。指示に従おうとした意志は垣間見えるが、元・脱法ドラッグの効き目はそれを許さなかったらしい。むろん抱え上げて運ぶこともたやすい相手だ。再び跪いて腕を廻しかけた翔は、だがおもしろそうにその眉を吊り上げた。
「俺よりも体温が高いおまえなんて、はじめてだな」
 脱がせればすぐに冷えてしまう身体は、しばらく触れて抱き込んでいれば瞬く間に上昇するとはいえ、時に寂しく感じられることを否めない。発見した事実に無理矢理体勢を変えさせれば、火照ったように赤みを帯びた頬と目元、そして唇があった。うっすらと濡れた瞳と唇。差し出されたように真正面に迎えてしまえば、もはや移動することすら無意味な気がしてくる。
 いいや、この場こそがふさわしい。廻しかけた腕をほどいた男は、ふっと笑みをこぼした。
「な、んで……」
「それはこっちのセリフだ」
 衝動のままに床へといきなり転がした音は、思いがけず大きかった。だが飲んだばかりの彼が制御を失するには早すぎる。上からのし掛かる動作も的確であれば、酔った和真にもさすがに驚愕の色が過ぎる。
「おまえさあ」
 だが驚いたはずのその顔は、間近で見せつけられた男の表情に朱を走らせた。
「あいつだと思って、油断しすぎだな」
 髪をひっぱるように掴みあげてくる翔の口元は、シニカルな嗤いを鮮やかにも決めていた。強引なしぐさに似つかわしい、久々に浮かべるだろう不遜な顔つきだ。元の顔立ちがあればこそ、その迫力は目を背けられないほどの圧迫になる。
「カクテルなんて、口説きの常套手段じゃねぇか」
「え、ぁ……?」
 気圧されたまま虚ろな視線を向ければ、告げられた内容に過去の一幕を思い出した。
 もはや遠い昔のような気がする、あのクラブに通った一時期。隠語のように使われたり会話の口切りに使われたり、また酔わせて強引に連れ出したりと乱用されていたのは和真とて知っている。勧められたドリンクで倒れかけたことも、内緒だがなかったとは言えないのだ。
「俺が帰ってくるの、もっと遅かったら……。なぁ?」
 けれどいまの和真にそれを隠したり、また語ったりする知性はない。ただその声に耳を傾けるので精一杯だった。だが恋人の語りかけなど、心地よい音として認識されるばかりのものだ。
「それとも先に一回、もう遊んでもらったのか?」
「……あ?」
 愚弄にも反発はない。とはいえ、そんなはずがないことくらいは翔も知っている。結城だから、知り合いだから。薄すぎる警戒心はそのためだろうが、だからこそその信頼に腹も立つのだ。向けられるとろりと濡れた表情までも、自分以外の人間に見られたと思えば苛立ちに拍車をかける。
「ここ、遊んでもらったんだろ」
 感情の赴くままに、彼はその膝で男なら誰でも敏感な場所を押してやった。途端にあがるのは、嬌声というよりも辛そうな喘ぎだ。嗜虐心を煽られそうな声に、翔もまたぐりぐりと刺激を与える。技巧など凝らせもしない膝は、痛いほどに圧迫を加えているだけだ。そんな無作法な箇所ですら、確かに張り詰めた堅さは感じ取れる。
「そういえば、おまえからのプレゼントは?」
 意地悪げな問いもまた、答えを無用としていた。ヒュッと吊り上がった口元がその証。
「ああ、おまえ自身か」
「ひゃっ!」
 するりと滑らせた掌でぎゅっと握りあげれば、限界まで見開かれた瞳から涙が溢れでた。
「ひ……っぃ、あ、あっ……っ」
 ビクン、とまず一回。その後痙攣するようにビクビクと跳ねた身体は、そのまま床へとおもりのような手足を投げ出させた。途切れ途切れの息は、喉さえも鳴らして哀れを誘う。だが呆然としてはいるが羞恥は窺えない顔つきだ、まだ濡れた感触すらわかっていないのかもしれない。
 普段の翔であれば、我に返る瞬間だっただろう。
 だが強引さを露呈した腕は弾けたあとの柔らかさを布越しに感じて、なお平然と和真の下半身をさらけ出させていく。ベルトを緩め、ボタンとファスナーを外す。そうしてズボンごとつるりと引き剥がせば、多少脚に絡まっていようが目的は果たされた。
「ああ、服着たままだったから、ぐちゃぐちゃになっちまったな」
 くすくすと嗤うのは、目の前の状況を導いたのが自らだという自負があればこそだ。堪えきれず放ったものが全体に広がって、普段ならなにかで濡らすべきところまで潤っている。芯には熱が残ったまま、体勢上あらわにされた秘孔もひくひくと待ち望むことを隠していない。まるで待ちきれずに彼自身が準備していたかのようにも映る姿だ。
 だが晒させるだけで満足できようはずもない。カチャリと鳴ったのは、帰宅したときに取り損なったベルトのバックル。そのまま前立てを緩めると、掌に感じた自らの熱にひとつ息を吐いた。
「い、いきなり……?」
「おまえが、準備万端みたいだからな」
 夕焼けの赤さに照らされた姿態は、怯えるように震えている。けれど翔は相手の横髪をかき上げて握り、無表情のままぐっと引き寄せた。
「ほしいだろ?」
 不安というわけではなさそうだ、そう踏んだ男の行動に戸惑いはない。
「え……?」
「まだ俺は、十分じゃないんだよ」
 いまだ放心したままの和真は、状況があまりはっきりと認識できていないようだ。つきあいも長くなれば、それなりにパターンができてくる。それと異なることも鈍らせている原因だろう。
(待ってやるのもイイ。だが ―― 今日ばかりはな)
 婉然とほくそ笑んだ翔は、強引な手で濡れた劣情の先端を紅の頬へと触れさせた。
「……けっこう、クルな」
 床に座り込みそっと銜え込まれたその先を実感するうちに、飲み干したカクテルがようやく効いてきたのだろうか。今さらのように襲ってきたのは、昂揚感と吐き気にも似た感覚だった。緩やかに這わされる舌の心地よさなど、瞬間消し飛びそうな強烈さだ。
 けれどしばらく堪えていれば、すべてが熱へと変貌する。
「セックスと同じ、ってワケか」
「ん……っ」
 漏れるうめきにすら煽られる。徐々に熱くなる感覚はそのうち思考など凌駕していくことだろう。だがこんなことを考えられるほどには、まだまだ意識は冷静らしい。とはいえざわりと蠢きだした快楽は、階へかけた脚を戻すこともない。
「ああ、そうだ。忘れていたな」
 悦びを得るためには、自分ばかりが十分になったところで意味はない。床に額ずくような体勢を取る和真も、準備ができているのは見た目ばかりだ。触れられることもなく再びゆるりと天首をもたげた先からは、トロトロと新しい雫が流れ落ちている。
「ちょっと待ってろよ?」
 ニヤリと口端をあげた翔は乾いた指でぬめりを絡め取ると、あえてその噴出口を無視して奥へと指先を滑らせる。腰だけが高くあがっていればたやすいことだ。くぷりと飲み込ませれば、ぴちゃぴちゃと濡れた音に紛れて耳を打っていた苦しげな浅い息づかいが、引きつるようにして止まった。
「っ、……ぁ」
 塞がれたままの口は、声をあげることを許されない。けれど粘膜は雄弁だった。過敏すぎるほどの反応を指へと返してくる。無意識に収縮するのだろうが、締めつけてくる動きはそれだけで相手を達かせるかもしれない複雑さだ。けれど埋めるにはまだ狭い。解すように男は周囲をゆっくりと撫でた。
 だがいくら慣れた行為であれまた優しげな動きであれ、自分の身体の中に他人を受け入れる違和感。思わず口にしているものを吐き出しそうになる衝動を堪えながら、和真はまだたかが一本と言われる指を受け入れている。その状況下でも必死に舌を絡めようとすれば、褒美のように胸元へ別の手が伸ばされてくる。
「ふぁ……っ、ん」
 そっと撫で擦り、わずかにひっかく。そんな優しく緩やかな動きに何故かひどく煽られ、息を詰まらせる。強制的に一度吐き出したおかげでわずかに生まれた余裕ももはやない。思わずぎゅっと目をつぶれば、その様子に気づいたのかそっと顔を仰向かされた。
「あ……」
 自然、口をふさいでいたものも抜け落ちる。閉じる間もなく顎を伝った唾液の感触に、和真はぶるりと震えた。
「かずまさ……」
 瞼に触れたのは息を絡めた唇だった。それは左右に散らされ、頬をたどると顎先と唇にも落とされた。欲望を露にしながらも、手つきと同じくどこまでも優しい動きだ。薄く目を開けて見返せばもはや世界は完全に宵のうち、男の顔もまた読めない表情をしている。
「辛くないか」
「……た、ぶん」
 本数を増やして埋められた指が、問いかけの内容を示していた。曖昧に返した答えは、だがすぐに確信に変わる。ほしい、疼いている。自覚すれば、あの狂いそうな熱はすぐに甦ってきた。
「も、大丈夫だから」
 おずおずと高い位置にある肩へと腕を廻せば、思いがけず力のこもらなかった手の爪でも食い込んでしまったのだろうか。見下ろしてくる相手の表情は、わずかながらも確実にしかめられていた。
「あ、……ごめ」
「いや」
 以前よりは短くなった前髪は、短い否定とともにふるりと揺らされた。それだけならば、たぶん和真もさほど気には留めなかっただろう。だがかすかに逸らされた瞳は不審がらせるに十分なものだった。
「なんであんたが謝るの……?」 
「俺は……こういうふうにしか、愛せないから」
 悪い、と。つい声に出ていたのだろう。不安の表情を視界に入れても、翔は噛みしめた唇を緩められない。最前までのいたずらめいた雰囲気は完全に消え失せていた。
 どれほど優しくしようが、結局は相手の身体に無理をさせている。あり得ぬ場所を強引に造る。体勢だけを取りあげても、腰から下を浮かさなければうまくは繋がれない。床についているのは、肩と背中だけ。そんな状態で身体を支えているせいなのか、床についた手のひらはかたく握りこまれている。カタカタと震えているように見えるのは、決して男の見間違いではないだろう。
「そ、んな……」
 ますます揺るぐ和真の瞳に、惹かれるまま宥めるようなキスをした。謝罪を溶かした口づけは、だが施すにつれて欲望を互いに募らせる。
「んっ! っ、う」
 甘い吐息を和真の鼻が漏らす。うっとりと瞳を伏せれば、差し込まれた舌が与える快楽に夢中にさせられるばかりだ。その隙を突くようにして、埋められていた指が更に深く潜り込んでくる。
「っ、あ、っうくぅ……っ」
 わずかながら下肢にに残っていた違和感が、奇妙な痺れに混じって溶けていく。あがる呻きに唇が離されれば、楽になる呼吸に合わせて感覚は下肢にだけ集中する。探りあてるのは、過ぎる快楽を与える一点。どこか性急なのに、丁寧すぎる動きに痺ればかりが募ってくる。
「も、欲しい……よぉ」
 くらくらする頭と体中に、キスの雨が降らされる。知らず息を荒げて首を振ったとき、指先がついに快楽点を突き上げた。
「 ―― っ!
 その瞬間あがった嬌声のおおきさと、とろけるような甘さ。与えた当人がヒュウっと快哉の口笛を鳴らせば、ついでのようにその喉は鳴った。促されるまま執拗にそこを責め立てれば、なおさらにあがる嬌声。その度に腰どころか、全身が勝手に跳ね上がっているようだ。抱きかかえるように翔が腕で留めつけても、その身体は床の上でうねりつづける。白濁はふたたび彼の下肢を濡らしていた。
「あんまりイキすぎると、あとでツライぞ?」
「だ、だって……」
「まあ知ったこっちゃないか」
 くすりと嘯くのは、翔自身にも余裕がないからだ。冷静なのはせいぜい顔つきだけで、それすらも眇めた瞳に裏切られている。全身を伝い落ちる水滴などもまた蒸気となってあがりかけていく。血液が逆流していくのか、こめかみが激しく脈打っている。血管の収縮が鼓膜にまで響いてくるようだ。
「まだ、足りねぇんだよ……」
 何が足りないというのか。興奮をあますこそなく伝える吐息は、ただ和真の首筋にかかっていく。
 そうして熱は再び伝播する。出したばかりの欲望に容赦なく熱が篭り出し、痛みと快楽が混然となって和真の全身をも駆け巡る。
 確かに残る感覚はただひとつ。なにもかもが ―― 熱すぎた。
 伏せがちな瞳が、あふれる涙に耐えきれず開く。その瞬間、濡れた瞳の視線に犯される感覚を見上げられた男は感じ取った。抱いているのは確かに自分のはずなのに、侵略されている感覚を拭えない。はじめて感じる不思議な酩酊感に、彼は静かに身体を離して自らの獲物を見つめた。
「ラブファイヤーに、幻覚作用なんてあったか?」
 浮かされながら呟けば、自分の声すらも熱に変わる。混ぜられた量は知りようもない。もしかしたら過剰摂取だったのだろうか。ぼやける世界は、だがどうにも魅力的に揺れつづけている。何度舐めても乾く唇から溢れるのは、反するように濡れきった声。弓なりに反らされた背中は、自分に身体を差し出すためか。
(思考なんか、とっくに放棄しただろう?)
 あとはもう、ただ溺れ沈みいくばかりだ。息を吐けばそれすらも発火寸前の、熱すぎる身体。それは下敷きにした相手も同じことだ。浮かされた瞳で、どこまで誘惑すれば気が済むのだろう。
「悪いが、余裕なんてねぇんだよ」
 ぐっとねじ込んだ熱塊は、言葉通りの張りでもって和真を穿っていた。
「ねだってみろって……っ」
 ようやく得た質量に押し出されたかのごとく、三度めの遂情を受け入れた身体は放つ。涙も汗も精も、動きに任せて噴きだすばかりだ。それでも許すことなく、焦れる想いのまま突き上げる腰で答えを強要していくのは男のエゴでしかない。
(今日だけは、せめて許してくれ)
 こんな形でしか愛せない。告げたことばのとおり、情けのない動きだった。
 ドラッグに跳んだ意識のままくり返す激しい律動に、再び和真の頬を涙がはらはらと流れ落ちる。けれどその輝きが瞬くのは、首が振られているからだ。イエスかノーかはわからない。だがわずかに開いた唇から漏れた息を承諾の意と解して、翔は最後の熱を融かし合うため全力で加速していった。



「え、……っと?」
 どうやら目が覚めたのは、自らのくしゃみのせいだったようだ。瞬間、認識の及ばない感覚を抱えた翔は、妙な肌寒さに再び閉じかけた目を開けるためしばらく瞬きをくり返してみた。いつ意識を飛ばしたのだろう。空調の効いた室温で、身体が相当に冷えてきたらしい。途中でベッドへと移動していたのがまだ幸いだった。
「……喉、渇いたね。おなかも空いたし」
「まあ、そうだな」
 ため息をひとつ吐けばそれで目覚めを悟ったのだろう。和真にしてはめずらしく苦笑いといった表情を、腫れぼったい目元ながら向けてきていた。同様に寝入っていたようだ。
 帰ってきた時間からすれば、もう食事時は過ぎていることなど間違いない。確かに翔も、喉だけはひどく渇いていた。だがその原因がカクテルに含まれたドラッグであると知っていれば、ちいさく笑うに留めるしかできない。医療系の和真に余計なことは知らせないに限るということだろう。
「でも動けない……。せっかくご飯、つくろうと思ってたのに」
 天井を見上げたままの声は、もはや嗄れきって拗ねた風合いすら滲ませていない。
「またの機会にな」
「うん……、ごめんね」
「いや、いいって。来年にでも頼むな?」
 もちろんそれはそれで嬉しかっただろう。だがこの状況でそれを要求するほど鬼ではない。十分にごちそうはいただいたのだ。とはいえ胃袋は埋めなければからっぽのままで仕方がない。翔は空腹を訴えた恋人になにか見繕おうと立ち上がりかけた。
「……え?」
 直後、ぐらりと傾いだ世界は、そのまま彼をベッドへと再び転がらせた。
「翔? どうかした?」
「頭、痛くてな。ついでに吐き気もする」
 目元を押さえても、ぐるぐると廻る感覚が消えない。自覚すれば悪化するばかりのようでもある。だらりと全身から力を抜いて、彼は完全に肢体を投げ出した。荒げた呼吸はしばらく治まりそうにもない。
「残りやすい体質だったんだな、俺って」
「お酒が? 普段そんなことないのにね。合わなかったのかな、甘かったし」
「そうかもな」
「何と何、混ぜたんだろ……」
 この場でただひとり全容を理解する男は、掌で顔を覆い隠したまま口元をひきつらせていた。小首を傾げる和真には、決して見当もつかないはずのものだ。ラブファイヤーにアルコール。その他にもきっと幻覚系が混ぜられていたことだろう。さすがにこれまでまともにドラッグが効いたことのない翔も、このカクテルっぷりには負けたようだ。
「ま? この礼は、きっちりしてやらないとな」
 だがただ黙って退く気など彼にあろうはずがない。贈り物に必要なのはそれ相応の返礼だ。恩には恩を、仇には仇を。こっそりと呟く声は、おおきな手に遮られて誰にも聞くことは叶わない。クククと低く嗤った顔は、今日一番なほどに歪んだ笑みを滲ませていた。
「……ねえ、翔。大丈夫?」
「ああ。悪いが、メシはあとだ」
 光を避けるように掌を載せたままぴくりとも動かなくなったことが不安を覚えさせたのだろう。上体をほんのわずかに浮かしつつ和真は様子を窺おうとしてきていた。だがその間の思考に基づく顔つきを隠すことなくベッドを軋ませた男に、びくっとおおげさなほどその肩は跳ね上がる。
「ま、まさか……まだ?」
「さすがに、なんも出ねぇよ」
 すこしばかり呆れた素振りを交えた苦笑は、だが自然に表情を和らげさせる効果があった。
「せめて昼までは、寝ようぜ」
 警戒する小動物さは、むしろ誘うように感じられなくもない。けれど搾り取られたのは、彼とても同じなのだ。ホールドアップの意を込めてごろりと寝返りを打つと、翔はそのまま楽な体勢を模索する。
「昼?」
「それからは、祝ってくれるんだろ?」
 バースディを。ちいさくウインクを送る男は、そうして愛しい相手を抱き込んだ。心地よいぬくもりとともに、疲労に満ちた身体は深い眠りへと落ちていく。
 ただ了承のうなずきだけは、その胸元で確かに感じ取っていた。



≫≫ 054:子馬


たまには溺れてみやがれ。




≪≪≪ブラウザ・バック≪≪≪