060:轍(わだち)
刻まれた轍は、繰り返しを誘う。徐々に深く、決して逸れることのないように
―― 。
いつの間にか、儀式はひとつ増えていた。
金曜の夜から土曜の朝までの、半日にも満たないほどの時間にそれは行われる。場所も、タイミングもまばらだ。来て早々のこともあれば、帰る間際、朝陽のなかということもある。
ただ決まっているのは、ふたりきりという状況だけ。
「……っ、ぁ」
どちらが先に堕ちたのか。まだ陽も射さない早朝、獲物の首はゆるりと差し出される。
その肌をねっとりと這うのは、おおきな舌。血管でも探ろうというのか、しばらくはただ舐めあげるだけだ。十分に濡れた頃になって、おもむろにその唇は立てられる。あたかも牙を潜めているかのように。
「ぅ……、」
うめきはかすかな痛みがもたらした。だがチリッとしたその感覚は、犬歯が与えるものではない。鋭く吸い上げられることで、毛細血管が破れたせいだ。再度あがる声はわずかに甘い。
イイ声だ。ほくそ笑みつつ、男は緩急をつけてその一点を食む。
それは紛れもなく、皮膚を越えることのない吸血行為。
だからヒトは逆らうことなく ―― その牙に魅了され、その身体を捧げるのだ。
行為の終結は、そして唐突に訪れる。
一方的にむさぼる男が、満足げに笑んだその唇を剥がす。だがまだ顔は離さない。
ひたと眺めるのは、噛み傷に似て非なるちいさな皮下出血のあざだ。
「ついてないと、落ち着かないだろ?」
吐息のようなささやきは、ようやく当人も弱いと自覚したらしい耳元に。そのまま視線をあげて覗き込めば、見る間に染まる頬がそこにはある。羞恥に震える口元も同じく染まっている。
漏れる吐息すら、紅く熟れていそうだ。
ふと埒もない考えが浮かべば、まだ唾液を乗せたままの口が自然にゆがんだ。
「……っ!」
鋭い音と、激しい息。肩を上下させているのは、和真だった。
もう一方はすこしばかり呆然としつつ、頬に手をあてがっている。
「痛ぇな、おい」
しばらくの後、立ち直った男は柳眉をしかめて苦笑した。
痛みは一瞬だったが、あの痛快な音。熱をもった感触からしても、かなりの強さだったことは間違いない。ストレートな指摘に、つい手がでてしまったといった感じだ。
「つまりは、図星ってな」
顔を覆ったまま、ちいさく呟いた。
加減なくなされた平手打ちは、その証拠といえる。誰の痕であるかという意識は、相手にしっかりと根づいていたらしい。思わず知らされたそれに、どうにも痛むはずの頬がゆるみかける。
だが安堵した自分に対しては、嫌悪感が湧いて仕方がなかった。
(何をこんなコトで喜んでいるっ!)
叱咤したところで、既に警告は自分との闘いになっている。自覚だけなら、十分に。
これは独占欲なのか。それとも庇護欲、いいや支配欲か。わからないのは、ただそれだけだ。
「……まだ、ちょっと薄いか」
ほんのり白けてきた室内。確認できた痕の色に、ゆっくりともう一度つけ直す。
どう称しようが、もはや執着があることはもう認めよう。吸血鬼とて、処女の血には弱いのだ。
そしてもっともうまいのは、震える首筋。それが欲情のためであろうが恐怖のためであろうが、変わりはしない。
もはや目的は、ただの言い訳になりさがりつつある。抱きしめた腕の内側。徐々にあがる肌の熱は、決して密着しているためだけではない。籠もるのは、互いに煽られた欲情の証。
(たまらない……。簡単に、やめられるものか)
この程度なら心傷とはいうほどでもない。繰り返せるのは、そんな傲慢さがあるからだ。
だが危険だとはアピールしている。このままだとどうなるかわからないほど、バカでもないはずの相手だ。
彼のためなどではない。これ以上、執着など増やしてどうする。
だからいくら身体のラインを辿ろうとも、決して唇だけは奪うまい。それが最後の自制。
仲間にする気はない。このままの相手だからこそ、欲しているのだから。
「や……! ちょ、せんぱ」
制止は聞こえない。いや、聞きたくない。よじる身体を抑え込んで、あとしばらくでいい。
この首を、堪能させてくれ。
横暴な願いは、抵抗がやむころには叶えられていた。
もがく腕は縋るものになり、あがる声も抑えきれない甘さを匂わす。うなじから背中、脇腹と手を巧妙に滑らせれば、腰は膝を割っている脚へと無意識に支えを求めてくる。そのまま下げた腕の先、男のものとは思えない、けれど決して女のものではあり得ない固さの尻を揉みしだく。
糸を引きつつ離した喉の肌は、乱れる呼吸に震えていた。
「いっそ……名前でも、書きます?」
崩れそうな身体を暴漢の手に委ねたままの声は、濃さを増した痕までも震わせている。
止まらない微弱な振動。その首もとから、取り憑かれたように目が離せない。
「……なんか、勘違いしてねぇか」
「べつ、に」
視線を据えたまま問えば、短い答えが耳を打った。
「別にかよ」
「ええ」
名前を書くのは、所有権の主張だ。それは他人へのアピールでしかない。
その認識がどれだけ男を苛立たせているか、和真はだが気づきもしないのだろう。
示すものは独占欲に似て、決してそれだけではありえないもの。たぶん警告の意図は、彼のなかでも歪められている。
他人に必要とされることなどありえない。ずっとそう思っている彼だから
―― 。
「それじゃ。また、金曜に」
せせら笑いを深めたようにも見える顔は、うす明るいだけの部屋では感情を読み切らせない。告げる声の淡々した色はなお困惑を誘うばかりだ。
だが目線よりいささか低い背は、あっさりと向けられた。
どの場所からでも先に立ち去るのは、いつの間にか和真からとなっていた。
逃げることはできない、けれど。
そんな決意がにじむほど、足取りは重々しい。
(怯えて、我慢して。それでどうなる?)
こんな形で必要とされて何の意味がある。せいぜい図に乗った男が、エスカレートするだけだ。
少なくとも他人の家でする行為ではない。なぜこのふたりは止めないのだろう、この暴挙を。
ここにいない親友はともかく、帰途につくらしい被害者を見るともなく見送れば、スニーカーを履く寸前。めずらしくも、その身体はこちらを振り返った。
「もう一発、逆にもほしかったです?」
予告された次は、握り拳。さすがにたやすく受けとめる気にはなれないものだ。
唐突で予測を超えた行動は、出逢いのときからいまだ損なわれていない。
驚くべきか、喜ぶべきか。表情がつくりきれない。
「さっき。なんで殴られたか、わかります?」
ひどく素早い動きで戻りきた和真は、肩の高さに構えた拳を解かない。
どう答えたところで殴られそうだ。覚悟を決めて、息を吸う。
「……図星を突いたからだろ?」
「ちがいます」
外した答えに、だがその手は飛んでこなかった。
「ちがう?」
「あんたが、嗤ったから」
再びうすく染まった頬は、やはり正鵠を射ていたからだと思わせる。
だが彼はちがうというのだ。無意識なのか、それとも自己暗示なのか。
「嗤ってねえよ」
事実だからこそ堂々と返せる。相手の持つ、疑心暗鬼などつきあっていられるものか。
だからこそ、今度は確かに嗤った。明らかな意志を乗せて、見せつけるように。
振り上げた拳は、眼前、そのまま壁へと向けられる。
「バカか! ―― っ」
その刹那、滑り込ませた手。あわてて退いたようだが、硬い感触は掌越しにも伝わっただろう。
「あ、んた……」
「ケガするだろうが!」
呆然とする相手を一喝した。壁に擦りあげられた手の甲には、ゆっくりと血がにじみはじめる。あのいきおいでは、骨すら砕けたかもしれない。
俺は、いつだって加害者。おまえは被害者でいい。
気づかれる前に、傷ついた手はあえて隠す。じんじんと痺れる感覚が、そして向けられる焦点の定まらない視線がたまらなく心地よい。
いっそ殴られたならば、どれだけの痛みが感じられただろう。
現実味を削ぎつつ、いまという刻だけが感じられる刺激。他のすべてが、無用なものになっていく。
『変わらないでくれ……』
それは関係か。それともこの相手自身か。
脳裏をめぐるのは、ページに羅列された文字だった。フィードバックするインクの匂いは、だがここにはあるはずのないもの。あるのは互いの存在、そしてかすかに漂う行為の名残だ。
逃がしたくない。トロリとしたたる感触を掌に感じた刹那、だが絡んでいた視線は断ち切られた。
「……また、金曜に」
再度くり返された、いつものセリフ。それこそが、別れへのカウントダウンだ。ゆっくりと向き直る背中は、一歩ずつ扉へと進んでいく。
謝罪も、そして感謝も。所詮ふたりの間には介在し得なかった。
くるりと返された背中は、ただ正面だけを見ているのだろう。静かに扉が開かれれば、細い背中は白い光のなかに溶けていく。
『俺のために、護らせろ ―― 』
ことばに出来ない息が、気道を詰まらせる。どこまでも傲岸な意見。
こうして追い払えれば、それもよし。だが追いかけると決めているのが、あいつなら。
(俺は、おまえのために消えると決めた。誰に殺されようとも)
書いてほしいと、純粋に望んでくれる相手だから。
そんな相手からの二度目の裏切りは、むろん耐えがたいものだろう。だが裏切られたって、実のところ構いはしない。より傷つくのは、きっと和真のほうだ。
なにより彼が裏切らなくとも、危険はあの身体に迫っている。逃がさなければ、どうしても。
「だから、いまのうちに……」
せめて加害者は、俺だけにさせてくれ。奇妙な独占欲がそう希う。
いまつける傷などは、後に予測されるものに比べればちいさいはずだから。
すべては相手のために。そしてそれを願う、自分のために
―― 。
廻りだした歯車は、たとえずれていたとしても止まりはしない。あたかも永劫つづくかのように。
しかし徐々に狂いはじめた関係は、互いの摩耗を誘うだけだ。すり減った歯車は、互いをまわしつづけられるのだろうか。
互いにもう気づいている ―― 来るべき、この限界に。
手放した瞬間に、さぐるポケット。くわえたタバコにはすぐさま火が点される。離した喉笛を惜しむ隙もないうちに、煙がその口中をなだめていく。
すべては習性、ここまでが一連の儀式。
「また、来週に」
もはや挨拶など無用な距離だ。
だがあえて未来へのことばを口にしながら、扉の向こうを見る目線はどこか儚い。
ずきずきと痛む頬と手の甲。惹かれるままに、垂れ落ちる血をかるく舐め取ってみる。
(甘くねぇな……)
そのままくわえ直すフィルター。移りついた紅は、ただ苦さを濃く彩るだけのものだった。
029:デルタ ≪≪
ひとりでは、同じ道しか進めない。
けれどふたりなら?
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