029:デルタ。



「なにも今週すぐに行かなくても……」
「いまだから、行くんです」

 金曜日の夕暮れ時。いつもの部屋で、素早く着衣を脱ぎ捨てると、和真はするりと用意されていた衣装を手に取った。すらりとしたパンツに、大きな襟が開かれたシャツ。鎖骨をだすと意外にも性別が不詳になる、彼の特性を活かしたセレクトだ。
「似合いますか?」
 着替えは素早い。あたかも決戦に向かう武将にも似た動きだった。そのまま夕陽を背にしてまっすぐ立ち上がる。自信ありげな口調も含め、彼にしてはすべてがめずらしい。
 そのせいだろうか。悲壮なまでの決意は、傍目にも痛いほどわかるものだった。
「どうですか?」
「最高だよ、今日は。本当に」
 再度の問いに賛辞を発したのは、それらの服を選択した結城だった。
 さりげなくウエストシェイプされたジャケットと首元を晒すシャツ。まだ成長途上の身体だからこその足の細さを活かしたボトムなどは、ただ性別を隠すだけのものではない。いかにこの存在が魅力的であるかを示すためのものだ。
 そしていま。目の前の着こなしは、その狙いを正しく顕現させた。
 だが一週間を越えてなお残った痕は、コーディネートのなかで明らかな異彩を放っている。襟でも隠れることのない首すじ。記憶がある相手ならば、薄くなってなお残る鬱血の意味はすぐにわかることだろう。
 止めるべきなのかもしれなかった。
 今宵の挑戦。今後、これ以上の危険を背負う価値など、彼にとってなにかあるのか。
「じゃあ大丈夫ですね」
「……もちろん」
 けれど動き出したならば、もう止めるわけにはいかない。そもそも最初のきっかけを与えたのは、結城自身だ。
 それは互いにわかっている。そして、目的がいまだ果たされないことも。
 絡んだはずの視線は、そのまま一点へと向かう。いまから目的地へ向かう、そのために。
「……行くぞ」
 集中点である玄関先。そんなやり取りを見るともなくいた男は、独り先に扉を開けていた。


 三人は、連れ立ってクラブへと向かった。
 目的地までは二駅。そしてそこから数分の道のりは、普段ならば一組と一人で向かう道だ。短いとは決して言い切れないその行程じゅう、わずかにも彼らの口が開かれることはない。
 先払いの会計を済ませ、ゲートをくぐる。階段を下れば、すぐそこに馴染みのカウンタはあった。
「こんばんはー」
 高らかに発されたのは、良くも悪くも通り過ぎる挨拶だった。クラブミュージックを突き抜けた声。ぎょっとした視線が、一同を襲う。
 いや、すべてはただひとりに向けられているようだ。常ならばかるく返されるだろう挨拶も、全員の喉へと飲み込まれている。
 どうやら和真の堂々とした行動は、十二分に彼らを驚嘆させるに値したようだった。
(まずは、奇襲成功ってトコ?)
 他者を傷つけたとはいえ、その理由も推して知るべしならば、責められる謂われは誰からもない。だがその内容ゆえに、二度と来ないと単純に考えられていたのだろう。
「あれ? どうかしました?」
 予測をあっさりと覆した彼は、しかしあくまでいつもどおりに振る舞う。きょときょととあたりを窺う姿には、邪気のかけらもにじませない。
「やれやれ。みんな、こんばんは」
 疲れたため息をつく男も、一応は普段どおりの笑みをその頬に張りつけていた。
 作戦はそれなりに成功している。だが結城の目的は、彼をサポートすることだけではなかった。
「……ところで、あいつは? 検査入院だったら」
「ああ。出て来られなくなったよ、当分な」
「え?」
 珍しいほどに見開かれたまなざし。ぐっと首を突き出して問えば、困惑した雰囲気があたりに漂う。
「なんかベッドから落ちたって話だけどさ、ボキッと」
 口ごもるように話しだした彼は、そうして自分の両脚を指さした。
「骨折か。そりゃあしばらく動けないか」
「あと、ちょーっとばかりこっちも……らしいけど」
 なおか細い調子は、その隣の男からだ。
 示された先は頭。いったい何が入院中にあったのというのだろうか。
「それって」
「へぇ、気をつけないとなぁ」
 追及に重ねられたのは、地の底から響くような嗤い声だった。
 店内にはいって初めての発言だ。寒気に身を震わせたのは、聞き耳を立てていた全員だったろう。
 だが一気に集めた視線のなか、男はそれを気に留めることなくタバコに火を点ける。
「耳は平衡感覚に関わるからな」
 煙をあげながら、彼はなお素っ気なく言い放つ。
 だから落ちたのだろうと。そう理由にあげられた内容は、あまりに空々しかった。
 想像しかできないが、どうやら今さらの復讐は無意味であるらしい。
「なら和真クン、帰ろうか」
「あ、はい」
 今回ここに来たのは、彼がこの程度の事態ではひるまないという証明だ。『ショウ』の権威を保つためでは、決してない。
「でも一杯くらい飲みません? もったいないし」
 ひらつかされたのは、入店料に含まれているドリンク券だった。そうして狙い澄ましたような微笑みをかざされ、結城は満足の笑みを返す。状況の理解力はさすがのものだ。
 相手が不足していたせいで効果は半分にはなったが、目的は十分に達成されそうである。
「じゃあ、俺もらってきてあげるよ」
「今日はノンアルコールで、お願いします」
「ラジャ」
 提案された追加のアピールを、より印象づける。あっさりとグラスを受け取りに行けば、護衛役のいなくなった和真を、周りはようやくいつもどおり取り囲みはじめる。おもしろいことに、わずかに怖じ気づきながらもそれを気取らせまいとしているのは、その周囲のほうだった。
「おい」
「なんです?」
 ネオンの陰。ケラケラとやり取りをはじめた彼は、だがすぐにその輪から抜けだす。
 指先だけで呼びつける態度は、あまりに横柄だ。だがグラスをもらいに行った男がまだ戻らなければ、止める者はいない。従ってしまう彼もまた、一種のすり込みがされているのだろう。
「……なんなんです?」
 不安げな視線を背に、悠然と誘い込まれたのはつい先週の記憶を甦らせる場所だった。バタンと閉じられた扉には、ついでのように鍵までも落とされる。
 ぞわりと背筋を這うのは、たぶん恐怖に似たなにか。
 前にも彼とこの場所に来たことがあった。そのあと彼は女性と……。
「俺だからって、油断してんじゃねぇぞ」
 ぼんやりしていたからだろう。ふっとかがみ込んできた動作に、対応が遅れた。
「痛っ!」
 首にチリっと走った痛みは、ほんの一瞬のものだった。
 振り仰げば、間近から見下ろす相手の真剣なまなざしが射ている。
「どこでだって、誰とだって。どうなるかなんてわからないんだからな」
 ゆがんだ口元に、目が吸い寄せられた。逸らせない。
「怖いと思う感覚には、素直に従え」
 忠告なのか、それとも警告なのか。念を押すように指先で首に触れ、その手で鍵を解除した彼は外へと出ていった。
 見送る背中はあのときと同じだ。決して振り返るそぶりはない。
「チクショウ……」
 あの朝以来逢ってもいない彼に、既に見抜かれていたなんて。
 床へとへたりこんだ和真は、ぐっとその手を首へとあてがっていた。
 独りになるのは、落ち着かない。だが誰かといるのも恐怖だ。徐々にそんな感覚が濃くなってきていることにも、不安を覚える。それを解消するために、立ち向かおうと思った。
 だがなにより、逃げたなんて ―― 誰にも思われたくない。
(そう、あんただけには)
 触れた唇は、あの男と同じハズなのに。
「オレを一番傷つけるのは、あんただよ……」
 自分がこの男を望む存在だから。そのせいで周囲が狂っていくのか。
 この前のあいつも、そして達彦も。
 既に消えた背中を睨みつけ、高鳴る心臓と荒い呼吸を整える。その間、熱の名残を隠す掌はすこしも離されることがなかった。

「……和真クン」
「あ、すみません」
 遅れて戻ること数分だろうか。和真を待ち受けていたのは、安堵の吐息をつく結城の姿だった。
 姿が見えないために心配していたのだろう。それでもあえては何も注意しないのが、彼らしい。やさしい苦笑で、泡のあがるドリンクが差し出された。
「ありがとうございます」
 とりあえず短く礼を述べ、氷の溶けかけたグラスを受け取る。冷えすぎたガラスはひんやりと濡れた感触を伝えてきた。
 冷静さを誘うかもしれない、それ。
 だがもはやここに長居できる心境ではなかった。焦る気持ちが咽せかえる喉を叱咤し、一気に中身を空けさせる。
「それじゃみなさん」
 来たばかりなのに。けれど、引き止めようとは思えない雰囲気がその場を占めていた。
 止めないのは、突き返されたグラスを受け取った者も同様だ。
(ふん、これで牽制したつもりかよ)
 ギロリと向けた一瞥は、壁際に向けて、ほんの刹那。
 先程までは決して隠そうとしなかった首もとの、その襟がぐっと立てられている。誰と席を外していたかなど知るべくもないが、追及は無用のもの。何があったかだけは、明確すぎる。
 隠し切れない痕が濃くなっていることに目ざとく気づいたのは、彼だけではないだろう。もはや早々に立ち去るべきだ。
「……また、来週にね」
 それでも、ダメ押しは忘れない。来たときと同様に笑みを浮かべ、彼らは鮮やかに帰っていった。
「ショウ、あの……」
「最後通告だ」
 わき起こるどよめき。そのなかで呼びかけた勇気ある者の発言は、けれども中途で遮られた。
 切り捨てたのは、傍らの壁、平然とグラスを傾けていた男の声だ。
「あいつは、この俺のワケ有りだ」
 きっぱりと言い切る声は、明らかにその場全員への所有証明だった。
「わかったな」
 それでも、だから手を出すなとまでは言わないのが、この男が男たる所以であろう。
 自己責任なのは、誰もが同じ。そう、それは彼自身にも言えることだ。
 注視のなかで手にしていたグラスを一気にあける。存在感は、誰もが感じる圧迫感に変わっただろう。そうして熱いアルコールの息をひとつ吐くと、彼もまたフロアから消えていく。
 荒々しく戻されたグラスには、氷だけが煌めいていた。


 いまだ宵の口という時間。廻らぬ酔いは、足取りすら速めていたらしい。
「なんだよ、いないのか」
 あの後、どこへ消えたのかみつけられなかったふたりに、仕方なく男は独り、最終目的地となる場所へと戻ってきていた。
 だが迎える暗い部屋は、無人であることを知らしめるばかりだ。隠し場所の鍵もそのままだ。拾って開ければ、クーラーが切れてしばらくの室内は、嫌な熱気に蒸れていた。
「なんだってんだよ……」
 吐き捨てながら靴を脱ぎ、勢いに任せジャケットも脱いでいく。
 とりあえず空調は廻す。そのまま床へと転がれば、さすがにここまではあたたまらなかったのだろう。冷ややかな感触は、酔っているわけでなくとも心地よかった。
 まだ夜が更けきらない時間とはいえ、さすがは住宅街。静けさは有りあまるほどに深い。
 響くクーラーの音に身を委ねていれば、意識にめぐりだしたのはたったひとつのことだった。
『最近、おとなしいもんだよな』
 くだらない挑発に乗せられた。情けない。
 あいつのことでコケにされたと思って、でていって ―― 。
 思い出せば、苛立ちが募るばかりだ。普段ならば、そんなミスは犯さなかっただろう。 
 けれどあの日の自分は、思い返すまでもなくキレていた。
「自分がいなきゃ、俺が面倒みるとでも思ったんだろ」
 呟いて、ゴロリと寝返りを打つ。硬い感触に背中が痛んだが、気にかかるほどでもない。
「……ったく、バカが」
 普段のように相手がいたならば、店を出るときには声くらいはかけていく。
 だから結城とて、同罪だ。たぶん彼もそれは受け入れている。それゆえに今夜、和真との共同戦線が成立したのだ。
 だが明らかに自分だけが除外されていたことは、彼とて自覚がある。
「やってらんねぇよ」
 熱くなるのは頭だけではない。体温でぬるくなった床は、いっそうの不快感を煽る。うなりつづけるクーラーも拍車をかけた。だが室温が下がるまでには、まだ相応の時間が必要だろう。
 あきらめたように身を起こした男は、別室へと移動した。
 ちいさなキッチンで氷をいくつか取り出せば、あとは飲むべきもの。ドリンク専用の冷蔵庫はノンアルコールばかりだが、ここに他の品がないわけではない。
 和真が来るようになってから隠されたボトル。その、まだ封の切られていない物を探し出す。
 再び戻った部屋で、テーブルへと向かった。グラスと氷。口を荒っぽくねじ切ったならば、ドボドボと注いで飲み頃を待つ。ガラスの表面が、徐々に白く濁ってくる。
 手にすれば、過ぎたほどの冷感。
「それでこんな状況にしてりゃ、意味ねーよっ」
 ぐっと掲げて煽れば、中身は一瞬で消えた。
 空のグラスは叩き戻される。再び握られたボトルから、同じいきおいで液体が注ぎ込まれる。一度溶かされた氷は、ぬるい酒にすぐに崩れ落ちていく。
(俺には俺のやり方がある)
 どれだけ呑んだところで、酔いなど周りはしない。
 濡れた手で腹の傷痕をさぐれば、立てた誓いは幾度でも甦る。
「だから」
 秘められた決意は、冷え切らない液体とともに苦く飲み干されていった。



 そして誰の思惑にも関わることなく、時間は確かに流れていた。
「けっこう遅くなっちゃったね」
「そうですね」
 完全に夜を迎えた頃合い、手に白い箱を抱えた男は自室の鍵を探していた。
 終電も終わった時刻、いつもの定位置にスペアはない。それだけを確認すると、ポケットのマスターでロックを外す。そうして扉を開けば、思いがけない冷気が彼らを襲った。
「すぐ、帰ってきたらしいね」
「ずいぶん呑んだみたいですけど……」
 転がったボトルは一本きり。だが男の嗜むいつもの酒は、本来その単位で呑むべきものではない。
 氷でだったのか、水でだったのか。確かにそれなりに時間をかけて消費したのだろうが、さすがに空きっ腹にでは酔いが廻ったのだろう。彼はグラスだけの残るテーブルに、突っ伏したまま寝ているようだ。
「このままで、大丈夫ですかねぇ」
 呼吸はきちんとある。ただ酔っているだけだとは思うが、体勢的にも苦しいものがあるはずだ。ガンガンに廻された空調も、多大に問題がある。
 とはいえ眠りを阻害せずに動かすには、和真の力では不可能に近かった。
「 ―― ほっときなよ」
 だが協力を仰げる部屋の主は、一瞥すらしようとしない。
「お茶する? ケーキ買ってきたし」
「……いえ、朝にしましょう。さっき食べたばっかだし」
「そう?」
 ガタガタとキッチンのほうで音を立てていた彼は、そうしてひょこっと顔を覗かせた。
「じゃあ、それもしまいなよ」
「あ、ああ。そうですね」
 傍らにあったちいさな箱を示してのことばに、思わず背筋が跳ねた。
 背中にずっと隠しつつも大事に持ってきたそれに収められているのは、こっそり最後に頼んだザッハトルテひとつだけだ。
「注文し損ねるなんて、意外にドジだね」
 ちいさなからかいには、あえて否定はしなかった。そうして曖昧な笑みだけを返しておく。
 何を考えているのかわからない。そう感じさせるらしかった顔は、だがこの年上ふたりにはまったく通じない。
「ま、でも? 気が向いたら、それ食べちゃっていいからね」
 彼を上回る理解不能な笑みをたたえた男は、どうやらそのまま寝室へと引っ込むつもりのようだ。軽く手を振ると、姿は消える。
『甘い物には沈静の効果があるから』
 そんな彼に連れられていった、めずらしい今日の夜カフェ体験は、連れられた店の味のよさが良い想い出としてくれた。その濃厚な味わいに、買って帰ろうかなと言ったのは和真だ。だからこその勧めでもあろうが、食べ過ぎればむしろ胃もたれで眠りが浅くなるだけである。
 そもそもこれは自分のためのものでもない。結城の買ったテイクアウトはふたり分。よほど腹に据えかねているのだろう、朝になれば戻っているはずの親友の物は選ばれなかった。
 だからこそ追加した一箱。それにいま ―― テーブルに隙間はない。
「帰ってきたんだ、きょうは……」
 苦しげな寝息は、いつもの悪夢か。それとも。
 きつく顰められた表情は、背を向けたあの男と同一には思わせなかった。

 どんなに気詰まりであろうが、朝の目覚めは眠りに落ちた順に訪れるらしい。
 カーテンの引かれた薄闇の占める室内。アルコールで意識をなくした男が、この部屋でもっとも早くその瞳を開いていた。
「なんでだよ……」
 本来、さほど強い性質の肝臓を持ってはいない彼である。単に精神が昂揚していたからこそ摂れた酒量。はっきり言って愚行に過ぎる。テーブルに伏せていた体勢もまた、突っ張る背中でそれに拍車をかけて訴えている。
 だが呟きは自嘲ではなかった。どこか途方に暮れた、甘い声。明らかに対象が存在していた。
「どうしたもんかな」
 床にいても隣にいる。こんな経験は何度めだろうか。
 すっかりと崩れた髪型は、眼鏡をはずした瞳を覆ってしまっている。かるくかき揚げたところで、滑り落ちてくるばかりのものだ。そんな隙間から垣間みえる、茶色の頭。まだ寝ぼけていれば、ふわふわとした髪に触れることへのためらいもない。
「……ん、」
 しばらく柔らかな感触を梳いていれば、吐息が漏れたのは相手の口もと。目覚めたかとあわてれば、だが彼はそのまま笑みの形に頬を緩めて再びゆるやかな寝息を奏でだした。
 そんな穏やかさに反し、びくりと手を止めた翔の意識は完全に覚醒させられていた。
 詰めた息は、ふうっと深いため息となる。そのとき、どこかでちいさな物音が重なって起きた。
 だが気にかかるのは、いまや膝にまとわりつくひとりだけだ。指先はとまどいがちに、自らがほどこした首の痕をそっと這っていく。
 張りつめた肌につけ直した色はひどく醜い。唇を触れさせた。それが事実となって圧し掛かる。
「俺も危険な人間だって。そう教えてやったろ?」
 囁きは、かがみ込んで耳元に。
 そうして肌に近づけば、どこか誘われるのはアルコールの残滓だろうか。聞き覚えのある警鐘が、すぐ傍らで鳴り響く。
 もう一度つけたい、自分の ―― 自分だけの、痕跡を。
 思わず飲み込んだ唾液で、喉が鳴った。その瞬間だった。
「なにしてるのかな? 翔」
「っ! 別に……」
 ぎょっとした内心を押し隠して返事をはぐらかしたのは、まだしも出来た対応だっただろう。
 とはいえ、そんな逃げが通用する相手でもない。ふふんと笑った結城は、しかしどこか昨日までとちがう雰囲気をまとっていた。
「今日もいい天気だな。二日酔いの目にはキツイくらいに」
「うわっ! わかってんなら、開けるなよ」
 つかつかと歩み寄った先にあるのは、窓。一気にカーテンを開けば、既に昇っていた太陽が白く射し込んでくる。
 いきなり強い日射しを浴びるのは、暗がりに慣れていた目にはきつい。それが二日酔いの男であればなおさらだ。一気に襲いかかる頭痛は、だがしょせん自業自得に分類されたのだろう。
「和真クン! 朝だよ」
 早朝とは思えぬ元気な声は、輪をかけて苦痛を与えてくる。傍らの和真に対しても、それは同じ効果を発したらしい。いまだ寝が足りないのだろう、ぐずぐずと床へ転がり直している。
「今日はオムライスにするよっ」
 有り余るいきおいの発言は、なお男をうんざりとさせる。いっそ寝直したくなるくらいの状況だ。
 だがその単語に、足下の相手はぱっと目を開いた。
「……朝から?」
「ご褒美っていったら、ハンバーグかオムライスでしょ?」
 とはいえ身体はついてきていないようだ。寝ぼけた問いかけも、目元を擦る姿もまるで幼児。昨日の夜の名残はそこに欠片もない。
「嬉しいなぁ。おいら、どっちも大好きだから」
「じゃあ、今度はハンバーグにしようか」
 ハンバーグに、オムライス。どちらも寝起きに食べる物だろうか。
 けれども徐々に覚醒したらしい和真は、なお嬉々とするばかりだ。目の前のやり取りに、頭痛が強まるのは男の気のせいだけではないだろう。
「デザートはケーキですねっ」
「ケーキ?」
 二日酔いに重ねられた攻撃は、もはや彼を完全脱力させていた。問いかけの声に力はない。
「そう。おまえのもあるよ、和真クンが買ってくれたから」
 本式に、生クリームも添えたいか?
 ひらりとキッチン側へ身を返しつつ残された問いかけは、最後の報復だったのか。
「クリームなんか、絶対いらねぇ……」
 想像だけで胃に堪えたらしい翔は、少々気恥ずかしげな和真の隣、再びテーブルへと突っ伏した。
 そこに飛び込んでくるのは、抑えることすらされていない笑い声。
(全部バレてたってね)
 ケーキの種類すら見抜かれていた。となると、夜の勧めはこの彼の分をなくす算段だったということになる。確かザッハトルテは、彼の食べられる数少ない洋菓子のひとつのはずだ。
 なるほど、和真ではまだ太刀打ちできる相手ではないらしい。
 そうして白旗をかかげつつ見やれば、後ろ姿がせわしく動いていた。その手に握られているのだろうフライパンから、香ばしい匂いが既に漂いはじめている。ジュージューと炒めつける音に被るのは、湯の沸く音。
「すぐに出来上がるから、待っててねー」
 壁の隙間から響く声は、昨日までにない上機嫌さを示している。
 だがそんな結城の陽気さは、二日酔いである男の頭にはきつかったようだ。
「なんだってんだよ……」

 室内はやはり夏の重い熱気を抱きかけている。
 あの日と同じフレーズは、しかし今日は少しばかり軽く響いていた。



  087:コヨーテ ≪≪   ≫≫ 060: 轍



わからない感情には、素直に振り回されちまえ




≪≪≪ブラウザクローズ≪≪≪