087:コヨーテ。



「出よう。別のところにさ」
 細い腰を抱かせた、名も知らない女。それ以外には目もくれず、男はスツールから立ちあがった。
 囁きはやわらかな耳朶を噛んで、そっと響く。自らの魅力を心得た笑みが返されれば、婉然と口元をゆるめた彼はするりとゲートをくぐり抜けていった。
 他には挨拶ひとつない。その後ろ姿を見るともなく見送ったのは、雑然とした店内に残された男たちだった。
「めっずらしい。ショウがあのコ、置いてったぜ?」
「飽きたかな」
「最近、ジャマされなかったのになぁ」
 口々に囁かれるのは、驚愕を含んだねたみである。
 連れ立っていった女性は、誰もが狙っていただろう今夜のクイーン。元から自分など相手にされないと判っていたところで、嫉妬するのが当然だ。
 だがそんな彼らの表情は、この状況を楽しんでいることをどうにも隠し切れていなかった。
「姫の相手ばかりはしていられないってことですか」
 その言葉に、一気に場がさざめく。理由は、まだ視界に残るある独りの存在のせいだろう。その人物は男の退席を知らないのか、フロアを奥へと横切っていく。
 むろんその人間とは、和真のことだ。いつしか誰もが彼を姫と呼ぶようになっていた。
 女性的につくられた風貌のせいもあろう。
 だが皇帝のようにここで君臨するあの男のものでありながら、彼だけには決して手を出すことの叶わない対象。いつかは姫の旅立ちを見送るしかない、それが皇帝の宿命だ。
 多少の皮肉を交えていても、それが彼らからみたふたりの状況だった。
「そりゃあ、ヘタに我慢するのもね」
「ガマンねえ……」
 くすくす嗤いすらも微妙に密やかなのは、相手があの男であるためか。とはいえいなくなってしまえば、話を聞かれる心配もない。そしてこれ以上ターゲットを奪われることもなくなる。新しく標的を定めたらしい彼らは、そろって口笛を吹いていた。
 だが、だれもがこの状況を喜んでいるわけでもなかった。
「あの野郎……っ」
 独り離れたところで呟いているのは、さきほどの女性を狙っていた男だった。その目は明らかな憎しみに燃えていた。自分の獲物を攫われれば、その感情も当然のものだ。
「どうしてあいつばかり!」
 自分の誘いは袖にされ、その際にあの男には酒すらもかけられた。その記憶は決して古いものではない。
 そして似たようなことは彼に限らず、ショウを相手にすれば一度や二度のことではすまされなかった。誰の獲物であるかなど、お構いなし。そんな気遣いは無用だといわんばかりの態度で、彼は常に力を見せつけ、この場の王に成り上がってきたのだ。
 そのせいだろうか。変わり身の早い女性への怒りより、どうしても憎悪はあの男にばかり向かう。
 ガンっと壁をひとつ叩けば、向けられる注視。だがそのすべてが自分を嘲っているようにしか、いまの彼には感じられなかった。
「どいつもこいつも、バカにしやがって!」
 激しい怒りを込めたまなざしを、あたり一面へ投げかける。熱狂的というには、まだ冷めたフロア。そんな男の視界を偶然よぎったのは、ちょうどレストルームへと向かう小柄な姿だった。
「あのショウが、ねぇ……」
 すべてが個室造りのその場所。扉が閉まるのを見るともなく見送れば、苛立ちを疑念が上回った。あの男がガードせざるを得ない訳ありの相手。いったいどんな理由があるというのだろう。
(うまく聞き出せれば、弱みを握れるかもしれないな)
 ふとした閃きは、その足を相手の消えた扉の前へ進めてさせていた。
「あれ? どうぞ」
 さほども経たず現れた和真は、目の前にいた男へとその場所を譲るように扉を押さえた。だが相手の手はいっこうに伸びてこない。怪訝に見上げれば、記憶にないその顔は薄笑いを浮かべていた。
「ショウ、出ていったよ?」
「あ、そうですか。なら、おいらももう帰らなきゃ」
 ペコリとさげた頭は、すぐにあげられた。そこにあったのは、なんの疑問も持たない表情だ。ただの子供の持ち物だと、少なくともわずかに見下ろす男の目には映った。
「すぐには、帰らないよ」
「え?」
「女と出ていったから。今日は泊まりかもしれないね」
 ニヤリと嗤えば、さすがに意味は通じただろう。どういう反応が返ってくるものかと、とりあえず見守れば。
「あ、そうですか。それじゃあ」
 返されたのは、ただそれだけ。ためらいもなく背は向けられる。
「おい、待てよっ!」
「なんですか?」
 面倒くさげに振り返った姿は、どうやら完全に男の血を沸騰させたようだ。いきおいよくちいさな肩を押して、さきほど出てきたばかりの個室へと叩き戻す。力任せの行動は、既に当初の目的を見失っていることを如実に示していた。
「いたた……」
 男も遅れること数秒で入り込み扉を閉じれば、すこし身体を丸めた相手はそこで腕をさすっていた。狭い個室だ。突き飛ばしたときに、どこか壁ででもぶつけたのだろう。だがそんな仕種はますます子供じみていて、同情すら誘うことがない。
「なんだってんだ、おまえはさ」
 どこがそれほどまで固執させられるというのか。脳裏に持ち主の顔を描けば、疑問ばかりが強くなる。こんな相手にあの男が弱みを握られるはずがない。となれば『ワケ有り』ということばが、もはやひとつの事柄だけを指し示していく。
「まあいいさ」
 隔壁一枚でもたらされた静けさのなか、口の中だけでつぶやけば結論は出た。なににせよ結局はあの男が、掌中の珠としているようにしか思えない相手だ。誰もが屈服させられる、傲岸不遜な男。その『姫』を奪うのは、どんな気分がするだろう。思い出すまでもなく、あの酒を浴びせられた惨めさは忘れようもない。
「あなたねえ!」
「なあ、オレにも試させてくれよ」
 独り想いを馳せれば、相応の時間は過ぎている。さすがに痛みも引いてきたのだろう。ようやく放たれた和真の苦情は、だがずいっと身を寄せた男の声にかき消されていた。
「……え?」
「オレにもさせろって言ってんだよ、なあ『姫』さん」
 多少睨みつけてこようとも、そんな物は見下ろす者にすればたやすく圧せそうなものに映る。ささやかな意趣返し。対象を違えた昏い欲望に染まった男は、ゆっくりとその舌で唇を湿らせていく。
「その躰だよ。一度くらい、イイだろ?」
 怖い保護者がいなくなったこの子供など、策を弄するまでもない獲物だ。偶然にも、今宵はもうひとりのナイト気取りも既に消えている。今日こそ、復讐の機会だ。
「なにを……」
「淋しいだろ? 今日は、どうせさ」
 ぐっと耳元へと顔を寄せて囁く声は、直接その鼓膜に息を触れさせていく。
 普通ならばそれは、扇情的なはずのもの。だがいま和真は、気味の悪い虫が背を這いのぼるような感覚を覚え、その身をぞくりと震わせる。拍子に壁に当たった腕が、鈍い音を立てた。
 誘いの意味はわかっている。そして、その意図も。あの男の行動をみていれば、そう考えても仕方のないことだろう。だがその貧困な発想自体がせせこましさを露呈している。それは彼の表面しか見抜けないための、誤った憶測。彼は脅しになど屈しない。だから誰もが彼に惹かれるのだ。
「なに笑ってんだよ」
「え?」
 そんな内心が顔に表れてしまったのだろう。改めて見返せば、相手は不服もあらわににじり寄ってきていた。
 とはいえ、こんな個室だからこそ張れる虚勢と、彼がいないからこそ踏み切れたと透けてみえる行動。その姑息さこそが、嘲弄の的だということに相手は気づけていない。なおさら弛めかけた口元は、間抜けさゆえ。だがより眇められた目つきに、あわててくっと引き締める。
「まあ、いいさ」
 その顔をどう解釈したのかわからない。けれど自分を強者と信じている男はすぐに目的を思い出したらしかった。いや、欲望をなのか。ちいさく舌なめずりをして、彼はそのしまりのなくなった顔をこちらへと突きだした。
「あいつより、愉しませられるかもしれないだろ」
 そうして嘯いた声は、意味のない自信と欲望にまみれきっていた。
 これ以上の侮蔑は、許さない。自分にも、むろんあのひとに対しても。
 だがあまりの衝撃に、反論はことばにならなかった。そんな硬直をどう取ったのか、男はゆっくりとその口を薄く開いて近づけてくる。そして獲物の首もとは捕らえられた。
 チリっとした痛み。
 その瞬間だった。唐突にその個室はなにかの音に占められていた。
 つづけてあがったのは、激しい悲鳴。けれどそれは、救いを求めるだろう彼のものではなかった。
 その前の、音とすら認識できない鳴動。それが達彦の求めて止まない、バンドヴォーカリスト『和真』の声だったのだ。並外れたその声量を耳元に受ければ、その衝撃は計り知れない。相手をみくびってなかったとしても、この攻撃は免れなかっただろう。
そうして壁にぶつかりながらも倒れこんだ相手は、脱出口を塞ぎ切れてはいなかった。障害になりえないそんな相手など、もはや眼中にあるわけもない。和真はその場を飛び出すと、一気にフロアすらも横切っていった。
 ふたりが成した一瞬の騒動に、周囲は誰も認識が及ばない。駆け去る姿を見送るのがせいぜいだ。
 だがついには、個室から転がり出てきた男を見つけた者がいたのだろう。
「おい! 大丈夫かっ」
「きゅ、救急車だっ!」
 けれどそんな悲鳴が再びあがる頃には、唯一状況を知るはずの彼は既に店外へと抜け出した後であった。
 そして、どれほど慌てていようが、人間というのは意外に日常をトレースしてしまうものらしい。
 闇雲に駆けだしたはずの彼がたどりついたのは、いつもの駅。そしてそこから数区先の、結城のアパートの前で、ようやく自分の行動を認識していた。
 今後どうするつもりだったにせよ、着替えも荷物も一式ここにある。確かに立ち寄らざるを得ない場所ではあった。
 それでも自らへの呆れは失せない。ため息をつきつつ、いつもの隠し場所にあるだろうカギをさぐっていく。だがその指先は空を切るばかりだ。なお深く息を吐きながら、彼はガタガタとふるえていた指には気づかぬ振りでベルを押した。
「和真クン? どうしたの、翔は?」
「すみません。もう休んでいたところに」
 深夜にほどちかいこの時間だ。住宅街に鳴り響いたベルの音は、たやすく目的の人物にその玄関を開けさせた。周りが静寂に包まれていれば、その中心であるこの部屋もむろん寝静まっていたはずだ。
「いや、そんなことはいいけど」
 ぐるりと外界を見渡し、探し人がいないことは確認したようだ。はぐらかした答えを本当は追及したいのだろう。
 だが闇にとおるのは、ベルだけではなく会話も同じだ。扉を押さえたまま目線で誘導され、あわてて中へと入る。そっと閉めてから回した内鍵でさえ、静かすぎる夜にはしっかりと音で施錠を認識させてきた。
「ひとりなら、携帯に電話くれれば……」
 あのあたりは危ないんだよ。聞き慣れた忠告は、しかしいまの和真の心には響かなかった。
「とりあえず、顔。洗ってきていいですか?」
「えっ? あ、ああ。もちろん」
 心配してくれているからの言葉を、感情を抑えた声で遮る。そのまま一気に脇を抜けて洗面台に向かった。背中に刺さってくる視線が、気遣わしげすぎて痛い。
 それを振り払うように激しく水をだし、まずは偽りにほどこされた化粧を落としはじめる。
 薄いファンデーションとはいえ、すっきりさせるにはクレンジングも必要だ。普段ならば面倒きわまりないことだが、今日に限っては二度浴びせかけた冷水が、汗をにじませた肌を心地よく流していく。
 そのまま乱暴に首筋も拭い去り、衣服まで普段のものへ着替えれば、ようやく気分も多少だが落ち着いてきた。
 そうして冷静さを取り戻せば、気になるのはこの部屋の持ち主のことだ。風邪気味だからと今日は途中で帰ってしまった彼に、気を遣わせたあげくに八つ当たりをしてしまった。
 そう。明らかに、それ以外のなにものでもない。
 どう謝罪すべきか。足取り重く洗面所から戻りかけた彼の鼻に、ふわりと紅茶のやさしい香りは漂ってきた。
「あ、アイスにしたい?」
 背中越しに気配を察したのだろう。独り暮らしには不似合いなポットを携えた男は、何事もなかったかのように流し台から振り返ってきていた。こういうさりげない気遣いは、この相手ならではの特徴だ。感謝して素知らぬふりをするべきだろう。
「いいえ、そのままで」
「……そう」
 いつもどおりこちらの意向を窺う視線は、さりげなく向けられる。だがそれはほんの一瞬とどまるだけで、すぐに背をむけてカップへ注ぐことへと戻された。
「缶の紅茶も悪くないけど、やっぱり違うよね」
 一手間かけた言い訳か。自分の分だけはグラスに満たした氷にそそいで、彼はいつもの場所へと腰を下ろす。カップもまた定位置へと置かれれば、誘われるまま和真も席へ着く。
「ホント、おいしいですね」
 義理でもなんでもなく、賛辞は湯気とともに口からでた。
 丁寧さが生み出すのだろうか。深夜にも関わらずきちんとリーフから抽出された紅茶は、まぎれもなく豊かな味わいを持っている。コクリと飲みくだせば、相手の優しさを示すようにほのかな香気が残った。
「でさ、和真クン」
「はい? なんですか」
 白い器に映える、きれいな水色。掌につつんでぬくもりごと味わえば、苛立ちはすっかりと溶かされていた。だがその隙こそがねらわれていたのだろう。
「もしかして、……翔?」
 指で示されたのは、彼自身の首もとだった。
「先輩じゃ、ありません!」
「じゃあ、誰だい?」
 思いがけない問いに、カップは掌から滑り落ちていた。幸いにもテーブルに近ければ、割れることはなかったが、大仰な音は響く。けれどそれは拾われることすらなかった。
 空虚になった掌は、自然と示された場所を覆ってしまっていた。
 確認したわけではない。だが、晒しておけるほど強気でもいられなかった。知らず知らず消去していた感触が、じんわりとよみがえってくる。
「だいたいさ、どうしてあいつ一緒じゃないの?」
 重ねられた問いかけは、最初から用意されていたことばだったのだろう。冷ややかな眼差しは、目の前の自分へと向けられながらも、決してこちらを見てはいない。透けているのは、その先の事実。
(かわしきれない……)
 覚悟を決めて、和真はゆっくりと事の顛末を語った。
「なんて男だ」
 言葉を選びつつの説明は、思ったよりも時間がかかる。すべてを黙って聞いていた男は、硬い声でまずそう言い放った。
「見損なったよ、翔のやつ。置き去りにするなんてさ」
「え? あ。でもそれは、自分で確認したワケじゃないから……」
 吐き捨てるように告げられた名前に、あわてて伏せがちになっていた顔をあげる。だが声より硬い表情は、明らかにその擁護を否定している。
「それに、先輩のせいじゃないですから!」
 悪いのは少なくともあの不埒な男、もしくは身を守れなかった和真自身だ。わずかなプライドゆえにも、あのひとのせいとは思いたくない。
 しかしなぜ今夜に限って、彼は黙って去ったのか。結城すらいない、この夜に。
 沈み込む思索が、無意識のうちに再びその顔を伏せさせていく。
「なんにせよ、大変だったね」
 ふわりとやわらかく微笑んだ気配は、わずかにそんな彼の目線を動かした。
 立ち上がった相手は、まずテーブルに転がるカップを置き直している。緊張にいつしか飲み干していたからだろう、周りに汚れた痕跡はない。それを確認すると、彼はその器をポットからの熱い液体で再び満たしていった。
 より深まったコニャックカラー。立ちのぼる湯気もまた、なおさらに心地よく香る。それは解放感のせいだろうか。つられるように一口飲めば、そのあたたかさは内側から落ち着きを誘った。
「ああ、うん。悪いね」
 そうしてカップという外界に意識を向けだした和真を前に、サーブを済ませた男は携帯電話を取りだした。コール数回でつながっただろう電話の先は、ライン外の人間にはわからない。だがにこやかな口調から察するに、怒りの対象であるあの男ではないだろう。
 あとこのタイミングでかけられる相手は。
「そっか。わかった、ありがとう」
 しばらく頷きを返していた彼は、意外にあっさりと回線を切った。
「病院には、行ったらしいけど……」
 どうやら状況を確認するために、店の仲間にでもかけていたのだろう。カップを手にしながらもじっと会話の様子を見つめていれば、首を傾げながらそう告げてくる。
「生きてましたか」
「残念ながらね」
 和真のコメントは、どこまでする意図があったのかを読ませなかった。だが、危害を加えようとした相手のことなど、結城とて心配する気は毛頭ないのだろう。ちいさなグラスをひとつ持ってくると、奥にある冷蔵庫へとなにかを注ぎにいく。そうして新たな飲み物をひとつだけ整えると、彼はカチャカチャと手際よくポットをかたづけ、そのままついでのようにまだ紅茶の残るカップをも取り上げた。
「寝ちゃいなよ、もう」
 そうして差し出したグラスの中身は、いったいなんなのか。
 訝しがりながら受け取りを迷えば、強引でないはずの仕種はそれでも抵抗を認めない。いや、従いたくなるというべきか。
 微笑みに促されるまま一息に空ければ、氷とともにあった少量の液体は、濃密ゆえのとろみを持って喉へと流れ込んでいく。残るのは、妙に甘ったるい口当たりと、かすかな苦さ。それに加えて、冷やされていたにも関わらず感じられた、独特の熱さだ。
「ありがとうございます」
 未成年には許されないものを、あえて勧めてくれたのだろう。その意図への感謝を含めつつグラスを返せば、やはり通じたのだろう。柔らかな笑みで受けとめた彼は、いつものマットへと視線を投げていた。
 従うように足を向ければ、そこへと向かううちに睡魔は訪れていた。実際の所、相当に疲れていたのだろう。アルコールに緩んだ自制心は、眠ろうと思う必要もなくその身体を眠りへと落としていった。
「見損なったぜ……」
 そして静けさを取り戻した部屋、独り残された者は冷たく宙空を見上げていた。冷たいまなざしには、常にあるはずの笑みのかけらすらもない。その表情のまま立ち上がった彼は、先ほどと同じ液体だろう。なみなみとそれをグラスへと注ぎ、自らも一気に飲み干していく。
「まさか置き去りにしてくるとはな」
 風邪ぎみの喉に、濃いアルコールはさすがにきつかったようだ。ゲホゲホと咳き込みながら呟いた声は、だが喉のせいだけではなく荒れていた。
 調子が悪かったのは、事実。とはいえ、もはや風邪の気配などどこかへ吹き飛んでいる。
「ごめんね」
 マットに沈み込んだ姿は、ひどくちいさい。遠巻きに眺めつつ、謝罪のことばを静かに告げた。見えない顔は、きっとまだ疲労に包まれているのだろう。聞こえる寝息は、ひどく不規則だ。
「見通しが甘すぎたなぁ」
 自分がいるからこそ進まないと感じていた、ふたりの関係。だからこそ帰ってきた今夜、こんな事件が起きるとは。
 ため息をつきつつ、再び満たされたグラスを手に元いた場所へと腰を下ろす。
 そもそも、彼を巻き込んだこと自体が過ちだったのだろうか。だがまさか、こんな問題が起きるとは思わなかったのだ。
(相手がおまえである限りはな……)
 信頼していた親友。それだけに裏切られた感は、否めない。
 だが、まだかすかに期待しているのも事実だ。
 鍵を持っていたならば、起こす必要はなかった。だがそれは彼が持つこともなく、そして定位置にもなかった。ということは鍵を持つのは翔ということだ。
 つまりとりあえずは一緒に戻ってくるつもりだったということだが ―― 。
「それもわかんねぇか」
 甘いアルコールは、また荒れた喉を灼いていく。ぐっと握ったグラスは、掌に痛かった。
 わかるのは、前の彼ならばきっと置き去りにすることはなかったということだけ。それがわかるだけに辛い。
(もう少し前は、良くも悪くも安定していたんだ)
 ヤツにも笑顔があった。週一度とはいえ学校にも来ていた。遊びはしていたが、それだけでおさまっていたんだ。
 それを揺らがせたのは、俺か。このコをけしかけたのは、俺なんだから。
 だが、もはや廻りだした運命の輪は、誰にも止められはしない。
 もはやなにもかもが動いている。この先どうなるかなど、いくらここで独り悩もうと決してわかりはしない。それはきっと、いまはただ眠るだけの和真にも、そして翔すらも同じだろう。
 だが、それでもあえて彼はいまはここにいないあの男を睨みつける。
「おまえのワケ有りなんだろうが……っ」
 それだけが、いまは縋るべき最後の綱。
 無意識だろうが、はじめて独占欲を主張した。あの言葉は絶対に忘れてなどやらない。
 無意識に目元へとより力をいれる。その瞬間、部屋にかすかな音が響いた。ばっと視線を流せば、だがそれは帰途を示す物音ではなかった。
 もうひとりの住人が、苦しげに寝返りを打っている。酔いに任せた無理な眠りは、安らぎにならないのだろうか。
 だが時間をもっとも早く過ぎさせるのは、眠りだ。まだ朝はあまりに遠すぎる。
「……俺も、寝ないとな」
 いくら酒の力を借りたとて、体調不良は確かにある。首をかるく振って立ち上がった彼は、しかしいったん寝場所とは異なる方向へ足を伸ばす。
 そこで整いかけた寝息を確認して、少しは安心したのだろうか。就寝のあいさつを寝顔に告げ、彼もまたきたるべき目覚めのために自室へと引きこもっていくのだった。
 そして互いに苦しい眠りのさき、ようやく訪れた明け方。
 やはり昂揚のせいか、眠りの浅かった和真はすでに出発の準備を整えていた。気の早い夏の太陽も空を白ませかけている、始発ならば電車もそろそろ動き出すだろう。
 テーブルに置かれている鍵を手に、スニーカーを履く。施錠してからいつもの隠し場所へ戻しておけば、体調の悪かった相手も起こさずに済むだろう。
(ううん、ちがうな……)
 黙って帰れば、気のいい相手のこと。むしろ心配をかけるだけだ。しかしわかっていても、いまは誰ともことばを交わしたくなかった。
 ひとつ大きく頭を振ると、彼はいつものDバッグをかかえてぐっと立ち上がった。まだ冷ややかなコンクリートは、普段よりも靴底に硬い。そのまままっすぐに前をみつめた瞬間、玄関の扉は突然に開かれた。
 予想よりも明るい外界は、その瞳を即座に細めさせる。だが現れた大きなシルエットは、見間違えようのない姿だった。
「おかえりなさい……」
 すれ違いざまにかけた挨拶に、声をかえす気もないのだろう。相手はすっと靴を脱ぎ捨てかけ、だがその動作はぴたりと停止した。視線すら、一点にとまっている。
「お前、それ ―― 」
 彼の視線がどこに固まったかは、わかっている。首筋に残る、赤黒い痕。朝、洗顔のとき確認した痕は、いまや腐りかけた傷のようなものに変わり果てていた。あたかも卑劣な輩の毒に、当たってしまったかのようだ。
 だがその禍々しさが、いまはむしろ妙に心地よかった。
「それ、どうしたんだよ」
「先輩には、関係ないでしょ」
 低い声音を、だから和真はつよく叩き返した。
 そう、関係ない。これは、自衛しきれなかった自分の問題だ。
 あの場所に行くことを許されていたのは、ただの無関心。彼はなにも悪くない。
 たぶんそれも、このひとのやさしさだったんだとは思う。
 けれど結局。
『信じていたのは、オレだけだったんだね……』
 いったい彼のなにを信じていたというのか。ただなぜか無意識に寄せていた信頼。所詮は独り相撲。
 和真は隠すこともせず、ただそんな相手の脇をすり抜けていった。
 呆然とした男は、ただその背を見るしかできない。
「なんだってんだ……」

 暑い夏 ―― 昇りかけた太陽は、すでに強い。
 しけった重い空気だけが、室内を支配していた。



 No-Number: コヨーテ・前夜≪≪   ≫≫ 029:デルタ



次を読まなければ、よく分からない話。
変化へのきっかけ。それをつかむのは
いつのことになるのか…全員、葛藤中



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