鮮やかな夏。
深夜にいたってなおひかない熱気は、チャチな週末のクラブでも同様らしかった。
いや、むしろそれゆえに、より暑苦しさに満ちている。
「あいつなんて、放っておいてさ。ねえ」
今宵の相手を掴まえようと、フロアの片隅、飢えた男は露骨なモーションをかけていた。
だがそこに集中する視線は同情の色すらない。さざめいていくのは、蔑みの嗤いだ。
「まったく……みっともないったらな」
「そうそう、相手にされてないってのに」
夏には悪意が似合うのか。男も女も、その動向を見せ物のように楽しんでいる。
「ねえ、あのコが彼の?」
それはどうやら、道化のとなりの女性も同じらしい。戯れの相手にすら、選ぶ気がないのだろう。シャドウに彩られた眼は、別の相手だけを見つめている。
けれどそれは秋波ではない。むしろ嫉妬だけがギラギラとたぎっている。
「どうなのよ。ちがうの?」
「らしいよ。相当気に入ってるみたいだけど」
「そう」
鼻白んだ女性は、グラスを手にすることで会話を遮った。
だがこの程度で引くようでは、どんな女も落とせはしない。それはこの場の常識だ。
「ねえ、だからさ」
触れあわんばかりに寄せた唇は、だがピアスの耳元にとどまった。
「……って、どうかな。おもしろそうじゃない?」
「まあ、ね。ちょっと見てみたいかも」
ささやきには夏らしい邪念。
ちいさく微笑み返した艶やかな口元にも、同じ色が浮かぶ。
すべてを得ているだろう『男』への、そしてそんな『彼』を独占している相手への。
視線を交わしあい、意思を確認する。男はスツールから下りた。そしてバーカウンターで、ひとつのカクテルをつくらせる。
そのまま席へ戻るかと思えば、彼はもう一度女性と目配せをかわす。動向を窺っていた周囲も、なおさら笑みを深めていく。
そして。
「うにゃっ!」
直後あがったのは、おかしな悲鳴だった。
もちろんそれは、さきほどから女性の憎悪を集めていた相手のものだ。
「なに、これ……。カルピス?」
「ごめん、ごめん。手が滑ってさぁ」
冷ややかな彼女の笑みを賞賛とでも思ったのか。
男はまだ半分以上中身の残ったグラスを、あからさまに掲げてみせる。
「顔じゅう、カルピスまみれだね、……って」
にやけた嗤いは、なぜかそこでとまった。そして、しばらくの停滞。どうやら状況が飲み込みきれずにいるらしい。
だがその間もトクトクと流れる液体はその頬を伝い、シャツに染みをつくっていく。
「なにしやがるっ!」
「……ワリィな。手が滑った」
怒りに紅潮した顔が、振り返ろうとした瞬間だった。
謝罪とも思えぬ口調が、背後から響かされた。低くもはっきりとおるこの声は。
「いや、あの……」
どもる頭上に注がれる液体は、いまだとまらない。
血の気は既に引いていた。そのせいだろうか、振り向く動作は比較的遅い。
ようやく仰ぎ見たとき、逆さにされたグラスは、最後の一滴を垂らすところだった。
「早く洗わないと、取れなくなるな」
そんなやり取りの間に、共謀者はそそくさと逃げ去っていた。そんな小心者を一瞥だけで見送れば、グラスを手にしているのはもうひとりいた。
この店のドリンクには不似合いな、大振りなジョッキだ。
「トモ、悪いけど」
「ん? ああ、水でしょ。酒はベタつくから」
薄く笑った相手に、その親友はより深い微笑みを向ける。そうして変わらぬ表情のまま、ジョッキを持ち上げる。どうやらこの短い間に準備してきたらしい。
「ちょ、ゆう……トモさん!」
「なんだい?」
一番めの被害者の声は、軽く流される。ジョッキに湛えられた水は、そんな彼の前で加害者であったはずの男へと注がれていくのだった。
「おまえも、その顔。洗わないとな」
足止めを任せたというのもあったのだろう。
もはや水と酒びたしの男に関心を失った男は、強引に腕を取ると、甘いカクテルに汚された相手を引きずるようにして、フロアを横切っていった。
空っぽになったグラスは、カウンターに置き去られていた。
「あんなヤツらに、遊ばれやがって」
そうして彼らが連れ立っていったのは、レストルームだった。適当に呑んで、踊るだけのクラブ。顔を洗える水場など、この空間ではそこくらいしかありはしないのだ。
「さっさと洗え。で、拭け」
フロアから直接出入りする、本来ひとり分としてつくられた空間に、二人は狭い。
だがすべて独立した個室仕様であればこそ、ショウは翔へと戻る。呆れながらも、彼は押しつけるようにハンカチを握らせた。
「いたた……」
「先に拭くな! 洗ってからじゃなきゃ、結局また汚れるだろうが」
怒鳴りつければ、手洗いボウルの高さにかがんだ相手は水栓をさぐりはじめる。
だがその手際はひどく悪い。どうやらその瞼が閉じられているためのようだ。
「まったく。俺までコケにされたじゃねぇか」
イライラとした口調はとまらない。
しかし彼に向けるのは、正当な怒りなのか。わずかに残る冷静さが問いかける。
とはいえ、おさまらない苛立ちを募らせるのは、まぎれもなく目の前の相手だ。睨みつけるように眺めれば、まだるっこしい動きでいまだ水をさがしている。
その頬に残るのは、伝い落ちてなお残る白濁した液。指先を滑らせれば、ベタベタとした感触が残る。
「おとなしく、連れ込まれてんじゃねぇよ」
重ねて目元も拭えば ―― ビクリと跳ねる肌の反応が、如実に感じ取れた。
こんな甘ったるいものなんかじゃなく、本当に汚したら。
誰の手でもなく、この自分の手で。
「俺だからって、気ぃ抜きやがって」
「せん、ぱ……い?」
きっかけはそんな相手の、薄く開けられた瞳だった。
「……本物、浴びてみるか?」
夏の悪意は、この男にも波及したのだろうか。
滑らせた指がたどりついたのは、スラックスのファスナー。キチ、とひとつだけ金属音を立ててみせる。
薄目のままながら、外されない視線。熱に熔けそうな緊張が、ふたりの間を流れた。
呼吸すら止めた細い喉が、ちいさく揺れる。濡れた顎も、同じく。対する男は、くっと唇の片端を持ち上げた。
そして、再び金属音が鳴らされた。
「真剣になるなよ、ガキが」
「……っ!」
上げ直したファスナー。鼻先でせせら笑えば、悔しげに息を飲む表情が睨みつけていた。
予想どおりの反応。だがその貌は、思いがけずぶちまけたい衝動を誘うものだった。それはまだ頬から顎に伝う、液体のせいだったかもしれない。
刹那の逡巡。
だが痛いような視線を背に、男は隔壁を開け放った。
一気に流れ込んでくるのは、外界のダンスミュージック。そのまま一歩前へと足を踏みだせば、世界はなにも変わらない。
「真剣になんか、なるんじゃない」
低いつぶやきは、誰に対してなのか。彼はもはや振り向こうとはしない。
『最終手段は、まだ早い ―― 』
カウンターへ戻る足どりは、わずかに大股だった。
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