04: 巻き込んでしまった後悔


 ゆるやかに開かれた瞳に安堵したのは、嘘じゃない ―― 。

「ひど、い」
 身を起こすことなく発された第一声は、予測していようとも相当のショックを与えてくれた。
 もちろん目覚めとともに断罪される覚悟はあった。それでも端的なことばに顔が歪む。隠すようにうつむけば、くすくすとした笑いがかすかに空気を揺らしていく。
「その声、がさがさじゃん」
「吸いすぎかもな」
「まさか夜じゅう吸ってたとか言わないよね?」
 緩められたらしい口元は、先ほど衝撃を与えた形容詞の係り先をあっさり明かす。
 だが心配されるのもかえって辛い。肯定すればその理由や眠らなかったことまで追及されかねないが、夜通しこぼした涙とともに掠れた声は、たいして減ってもいないタバコのせいにした。灰皿など見せなければ知られもしない。
 それからしばらくは喫煙の害。だが若者のくせに説教じみた苦言は、あまりに聞き心地が良すぎる。痛みに叫んでいたはずの彼は、やはり若いのか寝起きにしても綺麗な声をしていた。
 だがそんな猶予はもちろん長くつづかない。
「ところで先生、やっぱり何も言うことはないの?」
 一頻りまくしたてたあと、静かに締めくくった言葉はそれだった。向けられる視線は、腫れた目元と相俟ってひどく痛々しい。思わず抱きしめたくなるほどだ。
(彼を蹂躙したこの手で?)
 嗤える話だ。だが家庭内暴力に走る男の反省が本物だったのだということだけは判った。知りたくもない感慨だろう。
「せんせい?」
「……それなりにおまえの望みも叶ったと思うがな」
 傷ついた目は見たくない。目を伏せたまま新しい一本を取り出せば、火を点ける間もなく彼が動いた。
「シャワー浴びてくる」
「時間はまだある、湯も張ってあるから」
「ありがとう」
「いや」
 シーツのひとつもかけてやればよかったのだろうか。それは相手のためではない。身ひとつで立ち上がった、その背中にすら執着の痕が残る。照明のいまだ落ちた部屋のなかとはいえ、目に毒だ。
 だがそれは一方的なもの。ずるりとひきずられた足は、夜の名残というにはあまりに重々しかった。


 朝食すら摂ることなく、部屋は早々に引き払った。
 乗り込んだ車内の雰囲気は往きと変わらず、一夜の結果としてより沈鬱になっている。やるせない想いを振り切るための速度はもはや不要だろう、むしろ戻ることを厭うようにスピードは遅かった。揺らすハンドルも片方あれば十分だ。暇を持てあます手は、ついタバコを求めて口元を彷徨う。
 メンソールの、ほんのかすかなものでいい。においが残りにくいからと選んだそれは、だがいつしかそれでも薄い香りとともに習性として染みついた。
「吸いたいなら吸えば? いまさら流行らないけど」
「……未成年の前で吸えるか」
「それこそ未成年に手を出しておいて? いまさらでしょ」
 嘲られたところで、やはり求めるタバコは吸う気になれなかった。代わりに囓るのはミントタブレット。ガリガリと必死に歯を立てているなど、もはやなにかの中毒のようだ。
 あまつさえその音は空間の静けさを否応なく認識させる。耐えきれず普段は切りっぱなしのオーディオを入れれば、流れ出すのは若さが足りないと少し前に押しつけられたCD。彼好みなのだろう、馴染みのないJ-POPはかなり騒がしいものだった。会話の邪魔になりそうな曲調は、だがいまの状況にはありがたい。耳を傾けるでもなく、そのまま無意味な音を流しつづける。
「先生、ケータイ」
 騒々しさに耳が自然と塞がれていたのだろうか。それでもさすがに彼の声ならば耳を突く。ほんの少し視線を動かせば、鳴っていることに気づき遅れた携帯が確かにライトで着信を示していた。
「どこからだ」
「……俺が見ていいわけ?」
「運転中、しかも高速でどうしろと?」
 とはいえ携帯番号を知る相手などさほどいない。彼の親か、それとも。目の端に留めたダッシュボードのデジタルは、出勤の定時をすこし過ぎたところを示している。
「……ということは、見つけられたってところだな」
「え? なにが」
 案外とちかくにあった答えは、不思議そうな呟きと同時に開かれた液晶で確信する。そもそも特有の着信音は職場関連からのみのもの。受け損ねることのないよう騒々しさだけで選んだメロディーは、いったん気づけばカーステレオよりはるかに耳障りなものだ。
「うるさいな、まったく」
 自業自得とはいえ、あらゆる理性は昨夜までに潰えていた。左手は彼の手にある携帯を一瞬で奪い去る。つづいて押したのはひとつのボタン。その次の瞬間、耳は新たな衝撃に襲われていた。
「……いきなり叫ぶな」
「だ、だって! あ、あんた、ケータイを……」
 いきなり窓の外に放り投げたのは、さすがに教育上、いや安全上にも問題があっただろうか。だが今さらどうしろというのか。
 綺麗な放物線を描いたそれは、路面に跳ねる姿を確認する間もなく背後へと流れていっていた。
「電話しろよっ! 遅刻するにせよ欠勤するにせよ、やばいだろうがっ」
「……だから運転中に叫ぶな。危ないだろうが」
 しばらくは声も出せなかったのだろう。だがウインドウを再びボタンひとつで閉じた直後、再び絶叫が耳を襲う。だが警告を聞き入れるような相手ではないことは明白だ、とりあえずハンドルをよりしっかりと握るため掌に力を込める。
「そういう問題じゃないだろっ」
「なんだ、おまえまだ俺のこと心配してるわけか?」
「ああ、そうだよ! なにヤケになってんのさっ」
 予想どおりの大声は、だがようやくにしてこちらに理由を悟らせた。それは彼の純粋さを感じさせる微笑ましいものだった。そうして緩めた頬は、たぶん相手を苛立たせるだけのものだ。三度の絶叫など受けては、今度こそハンドルを誤りかねない。
「見当ちがいだな。理由は俺が置いてきた代物のせいだ」
「な、なに置いてきたんだよっ」
「辞表」
 ことばとともに踏み込んだアクセルは、エンジンの音を車内にも派手に響かせた。きのう振り切ったはずの過去は、どうやらまだまだまとわりついていたらしい。
 だが一日経って打って変わった青空の下、疾走する車は快適なドライブを楽しんでいるかのようでもある。だがこの彼との縁が切れたならばあの場所に未練はない。見えるのは青い空に浮かぶ白い雲。突き抜けて、いったいどこまで走り抜けようか。
「犯罪者にもなったことだし? ちょうどよかったさ」
 このまま逃亡して、彼の人生ごと壊してみるのもいい。
 そんなふざけたことを思えるなど、あたかも決意の犯行のようだ。皮肉のつもりもなく笑いがくすくすと漏れる。当然だが、こんな結末を予測して出してきた辞表ではなかった。
 ただもう ―― 耐えられなかったのだ。あの仕事にも、そして見守るだけの生活にも。
 こんな自分が正義の代理人などありえない。彼への仕打ちがその証拠だ。とはいえこんな形で彼を巻き込む気はなかった。濡れた肌とささやかな挑発に、本音が溢れたのももちろん嘘ではない。それでも本当なら独りで片をつけるつもりだった。
 さすがにもう煙草を我慢することはできなかった。
「……あんた、いったい何をしてきたの?」
「強姦だろ? 刑法上は暴行だが」
「残念だけどたぶん有罪にならないよ。さすがに俺、そこまでこどもじゃない」
「それこそ同情か?」
 紫煙は遠慮なく車内へと広がっている。ぎりっとフィルターを噛めば、奇妙な苦みが口に迸った。だがその味は彼に伝わることもない。
「にーちゃん。俺はちゃんと訊いたと思うんだけど?」
 ふうっと深いため息が煙を動かしたと感じた瞬間、ひどく懐かしい呼びかけが耳を打った。それは家庭教師をはじめてすぐの頃のものだ。あまりに今のふたりにはそぐわない。
「言いたいことはないの?」
「……別に、ない」
「それじゃあ、先生」
 何度問われようと繰り言だ。謝罪には意味がない。理由を説明したところで、展望は閉じたままだろう。それでも重ねられそうな言葉に、スピードを上げた車内、ハンドルを握る手は無駄に力が入る。
「あんたは俺に嫌われたくて抱いたのかもしれないけど、誰が好きな相手に抱かれてキライになると思う?」
「ならないとは限らないだろ」
「でもあんた、俺のこと好きだって言ってくれてんだよ?」
「……それがどうかしたか?」
 あえて否定することではない。軽口に告げるそれにはいつだって本気を込めていた。もちろん信じられたこともないし、信じさせようとしたこともない。
「だからさ、無理だってこと」
 ふふっと響かされた笑い声は、これまでの車内の空気に似つかわしくなさすぎる。
「口先ばっかかもって思ってたけど、ちがったんだね」
「嫌に……ならないの、か?」
「とりあえずは。それともやっぱり嫌ってほしかったの? だったら嫌ってあげるけど」
 嫌ってあげる。その言葉は何度もシミュレーションしたとおりの痛みで突き刺さった。
 だが『あげる』とは。
「何年いっしょにいたと思ってるの? だいたいいつだって嫌われようとしてたじゃん、あんた。いつだって女はいたし、俺にはキスのひとつもしないし。好かれる努力どころかまったく逆」
 小気味よく弾かれる言葉はひとつの間違いも含まない。
 昔から変わらずに高い知能は、しっかりとこちらの行動理念を理解していたらしい。
「でもね、嫌ったからって離れてあげない。そう簡単に逃げられるなんて思わないで」
 まっすぐにフロントに目線を向けたまま、彼は言い放つ。アクセルは急速に緩められた。
 完全に負けた。だがこれはもう朝にはわかっていた。軽蔑のまなざしを向けられなかったその瞬間に、賭にも彼にも敗北していたのだ。
 罪は裁かれるべき物。悪いことをして嫌われるなら自業自得、納得もいく。だがそうでなければ。
 不安を消すには、嫌われるべくして嫌われてしまえばいい。
(嫌われたいわけじゃなくとも、嫌われたかったんだよ)
 矛盾した無限ループ。だがさすがの彼もここまでは気づいてはいないようだ。
「なに笑ってんのさ。だからって、この責任は取ってもらうから」
 ああ、良い着眼点だ。切れ味のよい答えに、歪んでいた口元が完全に笑みを形取る。
 責任であれば受け入れやすい。それは相手から与えられる義務だから。
 彼が離れたいと願ってしまったときに罪は下る。いまは所詮、執行猶予。
 だが思わせなければいいのだ、努力の余地は残されている。
 愛されることを望めばこそ、待ってほしいと繰り返した。彼が名実ともに大人の領域に踏み出すとき。そのときに一縷の望みをつないで、愛していると告げていた。
 この卑怯さ。けれども手に入るかもしれないのならば、いくらでも汚れ役になれた。
 ならばこのままつづければいい。幸いにして彼が理由はつくってくれた。
「……いいドライブ日和だよな」
「え?」
「受験生にも息抜きは必要だな。よし、今からデートしよう」
 唖然と目を見開いたままの相手を後目に、俺はオーディオスイッチを弾いた。途端に広がる静けさ。
 騒々しくも軽やかなメロディはそれなりにドライブ向きだろう。けれど彼とふたりならば、楽しむのは会話のほうがいい。
「ちょ、ちょっと先生っ! 仕事は? ガッコだって」
「とりあえず休みだな。おまえも携帯切れよ」
 もちろん起こした騒動の収拾はつけなければならない。だが今は先送りにしてしまおう。
 思うままにアクセルを踏み込んで、ついでのようにウインドウも開放する。うっすらと澱のように溜まっていた煙は、吹き込む風で外へ流された。
 そんな冷たくも爽快な外気に身を晒せば、心は浮き立っていく。
「ねえ、にーちゃん。なんか忘れてない?」
「車停めたらな、キスはさすがに危ない」
「じゃなくって!」
 青い空と白い雲に向かう直線レーン。今ならその先までだってたどり着けるから。
「……愛してる」
 名前とともにようやく伝えることの叶った想い。答えはどこかパーキングエリアで聞かせてもらえばいいだろう。

 それまではエンジン音だけをBGMに、ふたりこの空の下を走り抜けていこう。



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