07: 押さえ込む暴走


 見つけてしまったのは偶然。
 職場から帰る道すがら、駅前で彼が雨宿りをしていたからだ。
「……乗るか?」
 ウインドウ越しに誘いかければ、ラッキーと笑いながら乗り込んできた。明るい表情に心が和まされる。
 そのときはまだ罠じゃなかったんだ ―― 。

 助手席に座らせた彼の家までの慣れた道を走る。
 よくある行為、よくあるシチュエーション。普段ならば何かしらかけられる声で騒がしくなる車内は、けれどしばらく経っても無音のままだった。
 そっと横目で窺えば顔も唇も血の気が失せており、肌を透かすほど濡れたシャツはひどく冷たそうだった。パネルをいじりエアコンの設定を一応あげてみるが、この状態では効果も疑問だ。さてどうするか。
「エアコン強すぎない? 喉傷めるよ」
「うるさい。だったらそのシャツ脱いで、後ろのコートでも羽織ってろ」
 途端吹き出した温風に、憎まれ口ながらようやく声があがった。それに安堵したということは、いささかなりと緊張していたのだろう。生まれた余裕は着替えもタオルも積んでいないこの状況での最善策を思いつかせた。湿り気さえなければ、コートのウール地は十分に彼を包みこんであたためるだろう。頃合いよく赤信号に捕まれば、身体をひねって拾ったそれを彼へと投げ渡す。
「あんたがあっためてくれればいいのに」
 反発はそこまで。寒さは芯まで堪えていたのだろう、彼はシャツのボタンをひとつずつ外しだした。逆らわないのならばそれでいい、視線はすぐにフロントへと向け直した。安全を示すシグナルカラーは既に点灯している。
「あ、まるで先生に抱き込まれてるみたい」
 丁寧に踏み込んだはずのアクセルは、耳をかすめた衝撃に少しだけ滑っていた。
 ただ純粋に示すよろこびの仕種こそ、どれだけ危険なものかまったく理解していないのだろう。
 好きだと伝えられ、こちらも好きだと応えた。自分たちはそんな間柄のはずだ。
「……家、通り過ぎたみたいだけど?」
「気になるか?」
 挑発に弱いところが相変わらずこどもだ、予想通りな否定の言葉に指先はウインカーを弾きだす。行き先などとりあえずはどこでもいい。ブレーキに踏み替える気をなくした右足は、変わらずひとつペダルを踏み込んでいた。
「まあつきあえ、そう長い時間でもないさ」
 帰宅ラッシュは過ぎたといえ、すぐ信号にひっかかるような道は走りにくい。気の赴くままに走らせた先は手近なインターチェンジだった。さすがに助手席の彼も呆れたのだろう、ため息をひとつだけ吐くとそっと目を閉じていた。方面すらどうでもいい。何もかもを置き去りにしていく感慨が、徐々にスピードをあげさせる。
 うっすらと笑みを浮かべながら、彼の前では決して吸わなかったタバコへ手を伸ばす。狭い密室空間、すっと立ちのぼる紫煙はかすかな清涼感を漂わせた。だが肺のなかへ吸い込む煙は、徐々に腹の奥まで黒く染めていくらしい。
(まったく間の悪いヤツだ……)
 過去を捨てるだけの準備は、あいにく既に出来てしまっていた。
 意図せず乗せた車、脱がせた服。だが緩やかな寝息に誘われ窺い見た姿は、わずかに残る理性を完全に灼き切った。大きすぎたコートの襟元から覗いた肌、無防備にもみせられた寝顔がそこにはある。
 幼少から見知ったはずの姿。だがそれが成長したいま、どれほど危険なものか。
 衝動のまま、唇に挟んでいたタバコを灰皿に強くねじりつけた。指先は新たな一本を求めてパッケージを弾く。
 夕陽が完全に消えて空も夜色に染まれば、赤いテールランプがひどく眩しい。けれどそれは警告のシグナルになり得ない。むしろ長すぎるドライブに飽きた目につくのは、けばけばしさに辟易としそうな輝きばかりだ。
 ウインカーを出してインターを下りれば、最後の道行きはほんのすこしだった。

「……どこ行く気なわけ」
「いい加減疲れたんだよ、だから」
 いまさらどこもなにもないだろう、車は既に駐車場で停まっている。
 本当の狙いは今から。
「そうは長い時間じゃない」
 拾ったのは期せずして逢魔が時。魔に魅入られたのはいったいどちらだったろう。
 既に時刻は日付変更線を越えていた。

≫≫≫ 年の差−09





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