06: 手に入るわけないし


 小鳥のさえずりが聞こえだした室内で、眠りを逃したふたりはそれぞれ違う作業に勤しんでいた。
 ひとりはいつもどおりキッチンで料理を、そして残ったもうひとりは。
「なんか筆がのらないって感じだね」
「もともとおいらは、こんなペースです」
 盛りつけた皿が差し出される脇。和真は思いついたストーリーを、相変わらずの不思議な書体で綴っていた。手にしたボールペンの先が走るのは、朝刊に挟み込まれきたチラシの裏だ。最近はめずらしくなった艶紙の白い裏は、明るさを増しつつある光が反射してなお見がたい。
「気もそぞろ?」
「……というほどでもないですけど、やっぱり」
 ペン先が滑ったせいもあったのだろう。メモを取ることをあきらめた彼は、キャップを閉め直してペンケースへと投げ込んだ。そのままぐっと伸びをして、あくびに似せた長いため息をつく。
(どうしたんだろう……)
 クラブで見かけなかった男を待って朝を迎えれば、さすがにいつもどおり駅へ向かう気にもなれなかった。
 朝帰りはよくあることだったとはいえ、泊まりを厭うのか始発では戻る来る彼だ。こんなふうに顔を合わせず帰途につくことなどあっただろうか。
 ましてや金曜、部室ですら逢わなかったことなど ―― 。
「情熱ってさ、ひとつにだけ注ぐものじゃないでしょ」
 筆が進まない言い訳に、忠告したつもりなのか。置き去りになっていた白い紙も、あわせて折り畳まれた状態で差し出される。
 だが表情を見れば、わかる。うっすらとだけ浮かぶ笑みは、むしろ緊張を隠すための無意識の仮面だ。
「……浮気推奨ですか?」
「そう解釈する?」
 片眉だけをかるく吊り上げて、彼は場所を空けたテーブルに皿を置いた。並べられたのは、明らかにふたり分だ。
「冷めるよ」
 目の前ではすでに、早朝とは思えない健啖ぶりが発揮されている。その合間にされた短い促しに、ようやく和真も目の前の箸を取った。出来合いではない湯気のあがる朝食は、心遣いの賜物だろう。だがそのどれもが、寝不足のせいか砂を噛むように味気ない。
「いらない分は、残してくれていいからね」
「はい……」
 夜だったり、こんな朝だったり。
 いつしか彼が戻るまでのほんのひとときを、こうして気遣われつつ過ごすことが当たり前になっていた。
 ぼんやりと、ただあのひとのことだけを考えていられる、わずかな時間。
(あんたは、いったいどこにいるの……?)
 一度も抱き返せたことのない身体は、あの唇の熱さは、本当に存在していたのだろうか。
 この手の中から、いつもすり抜けられていく。砂のごとく崩れ去る感覚を味わうのは、この目が視る相手が虚像であるせいなのか。
 不安に震え、指先を首元に這わせたところで、わかるはずなどない。残されたはずの痕も、一週を越えれば既に薄れきっている。
 この記憶以外、つまりはなにも残っていないのだ。
 たどりついた結論は端的で、ひどく心に痛かった。まだ半分程度残っているが、ゆっくりと箸を戻す。もはや水でさえ、喉を通りそうになかった。
 食べ残した申し訳なさに顔をあげれば、真摯な目線とぶつかった。こちらをずっと見つめていたのだろう。
「手に入らないと思ってたら、逃げていくよ?」
「知ってます」
 切羽詰まった表情に返せる答えは、だがこの一言に尽きていた。
 どうしたらいいのか、もうわからない。途方に暮れた顔を隠すことなく見つめ返す。
「あいつは……、たぶん足掻いてるんだ」
 一息ついた結城は、そうしてゆっくりと切り出した。食事を終えた手は、かるく組んでテーブルに置く。わずかに揺れていることは、あえて無視した。
「手に入れたいんでしょ?」
 目線は相手の心の奥底まで覗き込むように、決して外さない。
「もっと、振り回してやってくれないか?」
 ガードレールを乗り越えてくるぐらいに。
 声にださない想いは、たぶん聞く者に伝わっただろう。ぐっと竦められた肩が答えだ。
 こうして人と人には、無言のうちに通じ合うなにかがある。
(だから、気づいてやってくれ)
 あいつの本心なんて、透けてるじゃないか。叫んでるだろう、あの全身で。
 翻弄されているからこそ、見抜けないだけだ。
「手段なんて、いくらでもあるし」
 うそぶいたところで、示す内容はひとつ。唆しに適切ではない自覚はさすがにあった。
 けれどここで退くには、時間も余裕もない。
「一度きりじゃ許せないなんて、それこそ恋だからじゃないの?」
「……わかりません」
 伏せられたwhatは、あえて和真も明瞭にはしなかった。
「だってまだ、決められな……」
 かぶりを振って否定する。決められないのは、何だというのか。
 朝の静けさのなか、かすれた語尾は空気へと溶けていく。
(恋じゃない。だってきっと、まだ恋じゃない)
 焦がれているのは確か。あの瞳を、自分に向けたいと思っていることも認める。
 だからといってそれが恋だとは言い切れない。わからないうちに、勝手な名前をつけたくない。
 彼に真摯であればあるほど、その想いを適当に決めるわけにはいかない。
 だから、まだ。
「そうだね」
 やさしい赦しは、たぶん意味もわからず与えられる気遣いの一環。
「けどさ、それでもほしいと思っているのなら」
 包み込むような静かな声は、けれどこれまでにないほど突っ込んだやり取りを促す。
 使える手段を選ぶなというのだろう。矮小なプライドが軋んで、ジクリと心が痛む。確かに目の前の彼は、この自分という存在を利用してまで、あのひとの存在を望んだ。
 自己を確立している年上ふたりの存在は、目の当たりにするまでなく大きい。
「あいつ、逃げだすかもよ?」
 いままたその能力は遺憾なく発揮されている。弱みをくすぐる技術は相当なものだ。
 その片割れであればのことだろう。あの男は、はぐらかすことに長けすぎている。その自身すらを言いくるめてしまう意志力は、驚嘆してあまりあるものだ。そんな相手を求めるならば、たとえ身体を捧げることになろうが、手段を選ぶ余裕はない。
 事実、あの彼に差し出せるものなど、もともと和真にはなかった。
 だからこそ、それだけが唯一の切り札になっていた。
 理論はわかっている。けれど拭えない不安が詰めの一歩をとめる。
(おれに ―― こんなおれに、いったいなんの価値がある?)
 突き詰めるまでもない答えが、そこには揺らぐことなく存在している。
 夜ごとのゲームを仮初めにも愉しめる男だ。一度得た事象にそれ以上の執着を持たせるのは困難だろう。
 もしかしたら、いまあるわずかな関心すら失くすかもしれない。
 喪失する恐怖に目の前が暗くなった。グラリと上体すら傾いだかもしれない。
「もしかして、もう逃げてるのかも」
 臆する気配を察したのか。すっと差し挟まれた声は、そうして再び足下を揺らがせる。
『境界線すらも捨てさせて、あの男を本気にしてみろ』
 そう挑発されている気がする。いや、望まれているだけか。
 もちろん心配されているからこその叱咤なのだろう。畳みかけるタイミングすらもが完璧だ。
 ただ出来すぎた介助の手は、人としての度量の差を感じさせる。
「よくわかってるんですね、あのひとのこと」
「……第三者だから見えるんだよ」
 ささやかな嫉妬から出たトゲなど、だが相手の男にとって痛いものではなかった。
 むしろ部外者であることを突きつけられた。その事実のほうが、よほど辛い。
(もう、手出しはしないって決めたけどな……)
 一緒のマットで眠らなくなった男が、夜通しただひとりを眺めている。チラリと向けられた無感情な表情を思い出せば、揺らぎが最高潮なのも知りうるところだ。あれは自制の顕れ、他ならない。
 嘲って、罵って。そして突き放して。楽にしてやれるなら、それもいいだろう。
 だが不条理ではないだろうか。あれは受けとめてくれと発される、叫びそのもの。甘い恋じゃない。もう渦巻いてほとばしるところを求める、ただの感情のかたまりだ。
(それにな。おまえの手段はこのコには通用しないぜ?)
 ここにはいない男を思う。そうして、残された当事者を見つめた。
 あれだけの情熱だ、すべてを受けとめることを考えれば恐れるのも当然だろう。
 だが、望んでいるのは誰だ。
「キミのことを決めるのは、全部キミだよ」
 低く告げれば、息を詰めた雰囲気が身を刺してきた。
 だが、どうして相手ばかりを互いに気にするのか。むしろもっと振り回せばいい、正直に。
 救うとか、護るとか。そんなことは蛇足だ。
「俺は ―― 後悔してほしくないんだ、キミたちに」
 奥歯を食いしばって、エゴを投げつける。だがそんな言葉に、相手は目を瞬かせていた。
「どうした、の?」
「いいえ。ありがとう、ございます」
 怪訝に問えば、なぜか返されたのは感謝の言葉。傲慢に傷つけておいて頭までさげられては、いたたまれないのは男の方だろう。
「……利己主義なだけだよ」
 冷め切った皿の傍ら。自嘲とともに、組まれたままの手がぐっと握りこまれる。
 爪すら食い込むその瞬間を、和真は寸分も見逃さなかった。
「信じたいのは ―― 」
「なに?」
 かるく頭を振って答えることは避ければ、追及は苦笑で片づけられた。その表情で確信した。
(同じ、なんだ。この人も……)
 この眼前でうなだれた相手も、信じたがっているのだ。
 自分には手に入らないもの。それを誰かが、いや、あの彼が手にすることだけを望んでいる。
『好きにならずには、いられないでしょ』
 それは相手が彼であるゆえの、純粋な祈念。そして、自らへのかすかな希望。
 彼とともにあることで、その悩みを自らのものとしてしまったのだろう。写真にも表れる鋭敏な感受性があればこそ、傷は相当に深いはずだ。
 ならば利己的であろうと、それを汚い感情とは思えない。思うはずがない。
 あげく年月のぶんだけ絆も深い。互いに認め合う姿は、何度となく見せつけられてきた。
(なのに告げられたのは ――)
 弱みをかいま見せてしまっただろう、その瞬間。無意識に選ばれただろう複数形。
 あの彼のためだけではない。ただその事が、単純に嬉しかった。
「おいら、帰りますね」
 嫉妬などしている場合ではない。認められているのだ、この年長の凄い相手に。
 きっとまだ頑張れる。ここで踏ん張って、とどまらなければならない。
 あきらめたら、逃げ出したら、負けだ。
「ありがとうございました」
 まずはひとつ、笑顔をつくろう。それが来週の新たな戦闘につながる道だから。
「ねえ、結城先輩」
「なんだい?」
「愛は、やっぱり虚しいものですか?」
 スニーカーに足を突っ込んでから、振り返ることなく問いかける。
 返されたのは、まず唐突さに対する絶句。それから苦笑に揺れる空気。もう普段の彼だ。
「いいや? だから意味があるんでしょ」
「そう ―― 、そうでしたね」
 やわらかな答えは、望む以上の力を持っていた。
 背中をみつめる視線を感じつつ、勢いをつけて立ち上がる。堅いコンクリートの感触が足裏に伝わった。
 ゆっくり扉を開けば、朝の光はまっすぐに一条、室内へと差し込んだ。

(虚数のままじゃ終わらせない)
 そう。ルートは絶対どこかにあるはずだから。



 

≪≪≪ブラウザ・クローズ≪≪≪


虚数の意味は、017:√にて