プロローグ・蝉



 その日は、ひどく蝉時雨がうるさかった ―― 。

「わからないなら、仕方ないだろ」
「それって ―― わからなきゃ、ダメだってコト?」
 午後の日光は、容赦なく室内のふたりを照らし出す。油彩のもつ独特なにおいが、熱気に煽られて室内を満たしていた。
「……かもな」
 あいまいに答える男の手には、生乾きのキャンバスと絵の具箱があった。
 半袖の白シャツに黒の学生ズボン。そんな高校の制服が、高すぎる身長のせいか、ほんの少し不自然に映る。
「こんなあいまいなの、イヤだ」
 毅然と答えた声は、ほんのすこし高めだ。その主は、さきほどの男より頭半分ほど低い。同じく着ているはずの開襟シャツも、少しだぶついている。
「なら、どうする?」
「自然消滅するくらいなら……もう、別れる」
 ウソにしたくないから。
 ちいさく呟かれたことばは、何を意味するのか。ぎゅっと握りしめた拳だけが、やたらと印象的だ。
 そのせいだろうか。相手も同じく、自らの手を握りしめる。
 互いに揺るぐことなく立ちまっすぐ向き合う彼らは、うっすらと汗をかいていた。
「そうか、わかった」
 あっさりとした了承と同時に、身体は翻された。
 それですべてが終わったようだった。
「じゃあこれから、オレはどうしたらいいですか?」
 背中にかかった声は常のものと大差ない。
 扉を開きかけた手が、静かにとまった。
「……どういう意味だ?」
「もう話しかけるな、とか。イイ後輩してろ、とか」
「それは、おまえの自由だろう」
 響きは冷涼だ。肩越しに見返す視線は、整っているが故に無表情だった。
「そう。なんでもオレが決めるんだね」
「俺のことじゃないからな」
 再び引き手へと指をかけた男は、もはや振り向かなかった。
 ガラリと大仰な音が響く。
「そうだね、先輩のことじゃない」
「俺は ―― 俺の好きにする」
 後ろ手に扉が閉まる。そしてひとりぶんの足音が、響きはじめた。

 明日から衣替えという、九月の終わり。
 いまだに夏を色濃く残した、美術部三年、引退の日だった。



≫≫≫ 第1話・凍


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