第1話・凍



 あれから三ヶ月と少し。ほとんど互いに会うこともなく、時はあっさりと流れた。
 学年がひとつちがうというだけで、階もちがえば、補講の有無もちがう。移動教室の際も、特に選ばなければ、すれ違うことすらない。そして冬休みも明けた今、三年はあと一月で完全に自由登校になってしまう。
 会う気がなければ、偶然など起きない。そんな当たり前のことを実感しながら、せわしない日常は流れていっていたのだった。
 けれども、噂だけは別だ。
「なんか最近、あのコ元気ないんだってさ」
 長からぬ昼休み、パンを片手に現れた片倉も、そんな一人歩きした情報を聞きつけてきたようだった。
「そうか」
「おい、かわいい後輩のことだろう。もうすこし心配しろよな」
「……おまえくらいには気にしてるつもりだが」
 カフェオレのストローをくわえながらの答えは、すこしだけくぐもっていた。
 話題にあがっている後輩は、実のところふたりに共通する部活の後輩だ。すでに自身が引退しているとはいえ、無関心ではいられない問題であろう。
「まあ、ならいいけど」
 そっけない態度に眉をひそめながらも、片倉は手にしていたパンにかじりつきはじめた。
 センター試験が終わったとはいえみなが参考書をひらく受験生ならではの空間は、常に緊張感に満ちている。そんな中を噂ひとつで、わざわざ隣のクラスからやってくるあたり、ずいぶんと気の好い相手である。いや、それも観察眼の成せる技か。
「しかしおまえ、髪伸びたなぁ」
 いくつめかのパンの封をあけたとき、そんな彼はふと気づいたように手を伸ばしてきた。
「まあ、そうだな。面接があるわけじゃないからさ」
「邪魔くさくねぇ? 何ヶ月放ってんだよ」
 完全に目を覆うほどになった前髪に触れられ、とっさに身は退かれる。けれど気分を害したそぶりも見せず、彼は自らの髪をひっぱりだした。対照的なほど短い髪は美術部員とは思えない。
「神楽坂ぁ、ちょっといいか?」
「はい! ……悪ィ、行ってくるわ」
 声に振り仰げば、部活動の顧問が廊下で手招きしている。
 休み時間でも教師の呼び出しに迅速な対応をするのは、生徒に染みついた習性か。手にしていたパックを置いた彼に向けられたのは、同情的眼差しだった。
「そうですか。はい、わかりました」
 しばらくのやりとりの後。教師よりもほぼ頭ひとつ高い位置でしっかりとうなずいて、彼はふたたび教室への扉を開いた。
 一月の廊下は、よほど寒かったのだろう。席へと戻ってくる肩はぐっと竦められている。
「なんだった?」
「ちょっとな。ああ、気になるなら行こうぜ」
「なにがだよ。っていうかどこへだ」
 最後のひとくちを食べながらの問いかけは、もっともなものだった。
「部室だろ、美術室」
「なんだ、やっぱり気になってるんじゃ……、お」
「もう時間だ、早くクラスに戻れよ」
 見計らったように、チャイムが鳴り響きはじめる。
 昼を食べる気は既になくしたのだろう、神楽坂はわずかにその口元をゆがめてみせた。
「じゃあHR後になっ」
 自らのクラスへ駆け戻っていかねばならない男は、空袋を手近なゴミ箱に投げ込むと大きな声で叫ぶように宣言していった。人目というものは、どうやら気にならないらしい。代わりのように注視を浴びた彼は、その後ろ姿にちいさく嘆息した。
 だがクラスはすぐに次の授業の用意へと戻っていく。
「騒々しいヤツだな……」
 呆れたように見送ってから、彼もまた静かに準備をはじめる。取り出された教科書とルーズリーフ。ペンケースから出されたシャープペンシルも、ころりと転がした。
 机上のブリックパックは、それでも放置されたままだった。



 そして約束の時刻。呼び出しの内容を説明がてら、ふたりは慣れた部室への廊下を歩いていた。
 普段ならば静けさに包まれる特別教室棟だ。だが目的とする場所からは、授業中の教室にはありえない楽しげな笑い声が響いてきていた。
「お、やってるやってる」
 部活中ならではのざわめきに、一瞬だが神楽坂の足がとまる。わずかに遅れを取れば、なつかしげに笑う片倉の手がさきに扉へとかかった。そしてためらいなくその手が動く。
「よう、元気かぁ?」
 ガラリと開け放たれれば、なつかしい油のにおいは背後に立つ者にもまとわりついてきた。
「え! 先輩たちどうしたんですかっ?」
「なんだよ、その態度はっ! 歓迎しろよなー」
 その場にいた全員がみせた驚きの顔に、扉を乱暴に払いのけた片倉は中へと駆け込んでいく。そしてすかさず捕らえた男子生徒に、ヘッドロックまでかけはじめた。
「うわぁ、歓迎してますってば。してます!」
「いきなりだから、びっくりしただけですよっ」
 にぎやかに迎え入れる後輩らは、そろっていまだ驚きを隠し切れていない。
 けれどそのなかの独りだけ、タイミングがひと呼吸遅れていた。いや、その反応すらも異なるのか。
 そんな彼の視線は、いまだ扉の外に立ちつくす男にだけ注がれていた。
「神楽坂先輩も、はやく! 扉閉めてくださいよー」
「あ。悪い、寒かったな」
「そうですよぉ」
 彼らに動きを取り戻させたのは、あいかわらずの美術部の雰囲気だった。
 めずらしいふたりの登場で、室内はいっそう騒がしくなる。そんななか神楽坂は、ようやくずらされた視線の主へと静かに歩み寄っていった。
「久しぶりだな、一聖」
「――ええ。先輩も、元気でした?」
「まあ、な」
 さりげない言葉のやりとりの中、前髪から透かすように彼は相手を観察していた。
 もともと彼と比べれば、一学年の差とは思えないほど小柄な後輩である。だが詰め襟の上着のせいだろうか、見覚えのある夏のシャツ姿よりもいっそう制服はだぶついてみえる。
「相変わらずみたいですね」
 くすりともせずに返す声は、どこか渇いて元気がない。伏せられた表情すら希薄に映る。
(聞いていたより、ひどいな……)
 見下ろしたままに、内心だけで深くため息をつく。
 この一聖と呼ばれた彼こそが、噂の『あのコ』だった。
「え? 俺は単にこいつに連れられてきただけよ?」
「じゃあ神楽坂先輩は、どうしてここに?」
 騒がしい一団は、ようやく当たり前の疑問に到達したようだ。問いかけの対象を切り替えた後輩は、彼の方へにこにこと近づいてくる。
「ああ。学校に残していく絵、ここで描こうかと思ってさ」
「寄贈するんですか?」
「ああ」
 質問をきっかけに一聖から視線を外した彼は、近づく後輩をかわして歩き出した。向かったのは、三年用のロッカーへだ。しかし引退して三ヶ月以上、もちろんそこには私物などない。
「相変わらず、ボロいよなぁ」
 けれどその奥には馴染んだ部の備品が残されている。苦笑しながらそのひとつを手に取ると、隣接する小部屋へと入っていった。
「昼休みに、センセが呼びに来てさ。部の風習なんだと」
「そうなんですか。今年はやっぱり神楽坂先輩が」
「あいつだけだからなぁ、まともな絵が描けるヤツって」
 ここへくる途中で話した内容を、片倉がみなに説明しているらしい。
 開け放した扉越し、我が事のように嬉しげな声が隣の部屋にも伝わってきていた。
(声は筒抜けってことか)
 これから数週間、この教官室で絵を描くことになる神楽坂は、そうしてちいさくため息をついた。
 本来この場所は顧問のために用意されているのだが、実質は物置として利用されているだけだ。そこで寄贈作品を描く間、彼専用のアトリエとして使用する許可が下ろされたのだ。
「だからって、俺に描かせなくてもいいじゃんなぁ」
 使いやすいように周辺を軽く片づけながら、隣室へとコメントをかえす。冗談めかした軽妙な口調は、筆を持たないときならではのものだ。
「みんな受験ですから」
「俺もしっかり受験生だって」
「実技もあるんですから、練習になるんじゃないですか?」
 ひとたび絵筆を持てばガラリと印象を異にすることは、部内では周知の事実だ。だがいまならば片倉同様、学年差を気にすることなくフランクに言葉を交わせる相手でもある。
 だからだろう、後輩らの意見は割合にシビアだった。
「……まあ、そりゃあね。」
 壁越しの会話は、どうしてもおおきな声になりがちだ。無駄な労力を省こうというのか、片づけも早々に彼は美術室へと戻ることにしたらしい。
 ため息をつきつつも、ぐるりと視線をめぐらせる。
「これで、よし。と」
 持ち込んだイーゼルは、窓にほど近くセットされていた。



「県の芸大でしたよね。なんで東京とか受けないんです?」
「そうですよ、せっかくならどっか名門校受けておくとか」
 やはり絵を描く限り、芸大という存在はそれなりに憧れなのであろう。部屋に戻るやいなや彼は、後輩から矢継ぎ早に質問を受けていた。
「どこにしても狭き門。それに学校名で画家になれるわけでもないしさ」
 受験生に対して、プレッシャーにしかならない勝手な意見だ。だがそれに対し苛立ちをみせるわけでもなく、彼は笑顔でことばを返していく。馴染んだ椅子に座っている姿は、あくまでもゆとりありげだ。
「まあプロになる気もなれるとは思ってないし」
「だからこいつ、将来の就職を考えて地元選んだらしいぞ」
「もったいない! だって先輩って……」
 悲鳴は後輩一同からあがった。神楽坂の絵は、確かに一般の高校生レベルではない。むしろこうして気安く声をかけられる存在ではないと思わせる画力をみせる相手なのだ。
「でもさ。こいつらしいっちゃ、そうだろ?」
「まあな……って、どういう意味だよ」
 友人の選択を、同じ受験生として尊重するのだろう。かばうように片倉が笑った。それにわずかながら照れたように悪態をついてみせる。そして周囲がみな笑う。
 そのすべてが、一聖の目にはなつかしく映っていた。
「それで今回は? どんなの描くんですか」
「今回は静物画だ」
 ただ眺めていただけのそんな彼が、はじめて輪にはいるべく発言した。表面上はかわらぬ調子を保つ相手に、彼もまたさりげなく合わせようというのだろう。けれど所詮は、意地になっているだけだ。
 その表情がひどく強張っていることに、彼自身は気づいていないのだろう。やつれた頬にまつげの影が落ちれば、なおさらに男の眼は引きつけられる。
「ただ、なににするか……。イメージはあるんだが」
 まなざしは相手の伏せた瞼を捉えたまま、ゆるやかにとめられた。
 そして思慮するように、沈黙がわずかに流れた。耐えかねたようにまつげがゆらぐ。うすく覗かされた瞳は、みつめてくる相手の視線とそっと重なった。
(あんたは、そう来たんだね)
 静かにからんだ糸をほどきながら、一聖は気づかれないほどかすかなため息をついた。
 周囲のざわめきは、徐々に戻ってくる。しかし彼の耳にその会話は聞こえてこない。
 甦ったように耳を打つのは、あのときの神楽坂の声だけだ。
『俺は、俺の自由にする』
 そのことばのとおり、彼はひとりで自分たちの今後を選んでいた。それは彼自身とて同じだった。
 悲しみは、もう癒えていた。けれど、別れの理由だけはいまもわからない。
『わからないなら、仕方ないだろ』
 突き放したような声だけが、頭で反響する。
 わからなければならなかったのは、何なのか。
 問いかけの意味をにじませた瞳が、ふたたび後輩らと笑っている神楽坂を捉える。けれど相手のまなざしはすでに彼のところにはなかった。
 視線が絡みきらないのは、どちらが原因なのだろう。
(別れを告げたことに、後悔はない)
 一聖は確認するように言い聞かせる。感情のないひととつきあうなら、それがたとえ自分にあろうとも別れる。それは彼のポリシーに由来するものだった。
 好きかもしれない。けれど相手が望むほどの強さがあるか、疑問だった。
 だからこそ、身体の関係で確かめたかった。
(所詮、男同士の恋愛なんて、冗談だったんだ)
 求められたことは、確かに嬉しかった。
 ウソにしたくなかった自分の気持ちは、どう解釈されたのだろう。
 いまだ談笑はつづき、途切れるそぶりをみせない。汚れた手を洗いに行くそぶりで、一聖は美術室を出ていった。その背を見送る視線に、彼が気づくことはない。
 そしてふたりが帰るまで、その姿が部室へと戻ってくることはなかった。



 まだ活動を続ける後輩をよそに、昇降口を抜けほぼ校門を目前にした頃。
 それまでとなりでただ笑っていたはずの片倉は、傾いた陽射しのなかようやく口を切ってきた。
「おまえら、なんかあったのか?」
 違和感は察していたのだろうが、あの場で問わないあたりよくできた男である。口調も自然だ。あげく前を向いたままの顔は、強く追及する雰囲気を決して与えない。
「いや、別にないな」
「泣いてたぞ、あのコ」
「……そうか」
 冬の北風が神楽坂の足元を吹き抜けた。ロングコートの裾が鮮やかにひるがえる。けれど並びたって進む足取りは、止まる様子をうかがわせなかった。
「 ―― それだけかよ」
 ぞくりと冷たい声音が、凍りつく空気を突き抜けた。先刻までの姿は、出方を窺っていただけなのだろう。一瞬にして態度を硬化させた男は、視線も鋭く疑問をぶつけてきた。
「つきあってんじゃないのか?」
「いいや」
「嘘つくなよな、俺にまで」
 親友ゆえにだろう、語気も徐々に荒くなってきている。足取りもひどく緩くなっていた。
 どうやら涙がよほど効いたらしい。もう逃がしてくれる気はなさそうだ。
「本当だ。別れると言われたからな」
 観察眼は誰もが認める相手だ、ごまかすことなどできそうにない。ひとつ吐息をつくと、過去形ではあるが、意外なほどにあっさり神楽坂は関係自体は認めた。
 同性の恋愛だと侮蔑されたところでいまさらだ。そんな開き直りもあったのだろう。
「引き留めなかったのか?」
 しかし糾弾者にとって重要なのは、そこではなかったようだ。気味悪がるそぶりひとつせず、次々と畳みかけてくる。ならば言葉を濁しておく必要もないだろう。
「なんで、別れたんだよ」
「そう言われたからな」
「だからって! 簡単に別れたのかよ?」
 短い言葉ながらも、ようやく会話は成立しはじめた。
 だが淡々とした男の調子は、どこまでも崩れない。冷たい風に晒した頬が強張るのか、表情すらそこからは消え失せていた。
 けれど血色の悪い唇は、かじかみながらも開かれる。
「というより、最初からなにもなかったんだ」
「……どういう意味だ?」
 つぶやきは誰に向けてのものでもなかったのだろう。思いがけないことばに意表を突かれたのか、問いかけも遅れて響く。
「なにもなかったんだよ、どうせな」
 くり返すこと自体が答えなのか。冷え切った風に乗る声は、色なき寂寥に似ていた。

『オレも好きですよ? 先輩のこと』
 恋情を告げたとき、この言葉とともに返されたのはあっけらかんとした表情だった。
『俺のいう好きは、いつかおまえを抱きたいと思うかもしれない【好き】だぞ?』
『よくわかりませんけど、イヤじゃないと思うんで』
 小首を傾げるのは、まだ15歳ゆえのこどもっぽさか。だが拒否は示されなかった。
『なら ―― 好きになってくれれば、いい』
 そんな気軽な交際は夏とともにはじまり、そして夏とともに終わった。
 あの蒸し暑い、九月の末に。

「なんにしても、あんなに痩せて……みてらんねーよ」
 足だけは常の道をたどりながら回想に耽った相手をどう思ったのか。
 片倉は冷たいアスファルトを荒々しく踏みならしながら、頭をかきむしる。
「そうだな」
「なんとかしようと思わないのか? 好きだったんだろっ」
 心ここにあらずながらも返す言葉は、あまりにも感情がない。それは他人事ながらも心配している者にとって、苛立ちをぶつけさせるもの以外なにものでもなかった。激しい怒声は、普通ならば相手を十分にひるませる力を持っていた。
「……なにができるってんだ、俺に」
 遅いながらも動かされていた足が、ぴたりととまった。
「おまえなら、なんとかできるのか?」
 つづけられた低い声音は、冬そのものの冷淡さをただよわせていた。
 舞い散る前髪で、表情はほとんど窺えない。追い打ちをかけるように、風が一陣過ぎ去っていく。それでもひたと据えたまなざしは、夕陽よりも印象的だ。
「かぐら、ざか……」
 その瞳に竦まされたのか。呆然と名を呼んだ相手は、完全に動きを失っていた。
「俺、今日から塾行くから」
 そんな友人の姿に、我を取り戻したのだろう。申し訳なさそうな雰囲気を瞬間にじませながら、彼は小さく別れを告げた。うすっぺらい鞄を脇に挟み込むと、すっと踵は返される。
 そしてとまどいなく足はうごかされた。寒風を切っていつもと逆方向に歩き出す背中は、影だけを長く残してちいさくなっていく。
 手袋をつけてなお冷たい手は、突っ込まれたポケットの中で握りしめられていた。



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いきなり冬。しかもセンター試験直後(笑)




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