第2話・百合



 クラスメイトが教室に吸い込まれた後、神楽坂はひとり廊下を歩いていた。
 すでに私大受験がはじまれば、学校内の雰囲気も一変する。授業よりも受験対策優先。受験に必要のない教科時間は、自習に当ててかまわないことになっている。不安に駆られる学生らの、精神安定のためだろう。
 むろん彼とて、例外ではない。
 センター試験も終わり、二次試験は実技だけ。クロッキーと、油彩もしくは水彩だ。気が向けば、授業に参加してもよいが、受けなければいけない科目はない。
「失礼しまーす……」
 声は儀礼的にかけるが、誰もいないことはわかりきっている。職員室で借りてきた美術室のカギを差し込むと、彼は中へと滑り込んだ。そのまま当然のように奥の教官室へと進んでいく。
 出席を取ったあとは、いつもこの部屋で寄贈作品を描くことに費やしていたのだ。

「……もうこんな時間か」
 冬の陽射しは、柔らかに画面を浮かび上がらせる。彼はそんなキャンバスにちいさく吐息をついて、動かしつづけていた筆をそっとおろした。
 時の移り変わりとともに、西に傾きかけた太陽。絵の具の赤みは必然的に増していた。
「疲れた、な」
 朝からずっとキャンバスだけに向き合っていれば、必然的に見つめるのは自分の心になる。
 もう一度ため息をつけば、重なるように終業のチャイムがその部屋にも鳴り響いた。
 本来ならばHRに教室へ戻るべきなのだろうが、カギを返しに行くまでは、学校にいることになっているのだろうか。いつの間にか戻らなくてもよいことになってしまっていた。
「ある意味、先生に感謝かな」
 ちいさく笑えば、強張っていたらしい頬がわずかにひきつった。
 彼とて受験への焦りがなかったわけではない。ここまで考えての寄贈作品制作だったかは疑問だが、二次試験にむけて集中できるこの状況は素直にありがたかったのだ。
 ただ、寒さだけは身に凍みる。独りしか存在し得ない空間は、どこまでも冷え冷えとしていた。
「あいつらは、本当に元気だよなぁ」
 だが隣の部屋はどうやらそんな寒さとは無縁のようだ。
 徐々に集まりはじめたらしい部員たち。教官室にこもっていても、彼らのざわめきは常に伝わってきた。時にはあいさつと称して顔をだす後輩もいる。そのつきあいのように、一聖が教官室へくることもあった。
 だがそこに言葉はない。他の後輩の背後から、ただ見つめているだけだ。
(その視線の意味を、おまえは知らない)
 伸ばしはじめた前髪の隙間からも、端々に相手の感情は見え隠れしていた。これまでにないほど強く向けられるまなざしは、あまりにも雄弁だった。
『なにがわかっていなかったの?』
 別れの、そして別れにつながった理由がわからないから、注がれる視線。奪い取れた瞳。
 彼を好きだった神楽坂にとって、それは本来なら喜ばしいことのはずだった。
「ウザいな……」
 長すぎる髪の毛が、いつの間にか眇めていた眼に刺さりかけていた。軽くかきあげれば良好となった視界に、ガラス越しの夕陽が激しく輝いている。
 心をざわめかして止まない朱色だ。
(なぜおまえは、俺から理由を得たがるのか)
 俺を見ていたところで、意味はない。ちゃんと周りを……そして自分の感情も見ろ。
 無意識のうちに筆先に絵の具を掬いとる。それをキャンバスに載せかけ、その腕はとめられた。
 しばしの逡巡 ―― 選ばれていた色は、夕暮れの空色そのものだ。
「背景の色……、かえるか」
 鮮やかさを失わずに暗さをも併せもつ深い色合いは、対象の個性を十分に引き立たせていた。
 そうして意識を画面だけに向ければ、世界は閉じていく。ざわめく感性を強制的に遮断して、彼は制作へと戻った。
 油のにおいに混じるあまい花の香りすら、もはや彼方のものへと変わっていた。



「先輩、ちょっと ―― 」
「なんだ?」
 すでに筆がとまっていたのが幸いしたのだろう。申し訳なさげなそんな声は、運良くも神楽坂の耳にとまったようだった。
 気づけば、日も沈みかけている。
 僅かに残るオレンジ色の光さえも闇に飲まれてゆく空間は、夜の風情を漂わせていた。
「相変わらず、寒がりみたいですね。わざわざベスト着こんで……」
「学ラン着てじゃ、描けないからな」
「俺らは気になりませんけどね」
「袖がか? それとも寒さがか」
 皮肉にもとれるコメントに、現れたばかりの後輩は乾いた笑いを返した。
 だが確かに冷え込みもずいぶんと厳しくなってきている。腕の動きを疎外しないためシャツの上にベストを着ていた神楽坂は、意外なことにそれを脱ぎだした。そのまますぐに学生服を羽織る様子からして、もはや絵筆を握れる室温ではないと判断したのだろう。
「つか、俺にはこの部屋の匂いのほうが気になりますって」
「何のだ……? ああ、これのことか」
 油の匂いなら、隣の部屋も大差ない。ぐるりと首を巡らせれば、すぐに原因に思い当たった。
「ええ。また新しいの持ってきたんですね」
「構図はもう決めてるから、気分でしかないけどな」
「それが重要なんでしょう?」
 言えてる。キャンバスと並べて飾ってあった画材に、絵描きふたりは小さく笑みを浮かべ合った。
 そのまま視線は描きかけの絵へと流れていく。暗がりに浮かぶ朱と白のコントラストは、既に仕上がりの域へと達していた。
「そういえば、寄贈って、前に描いたのじゃダメなんですか?」
「本当はいいんだろうな」
 気ぜわしい受験生が、毎年この時期に描いているとは思えない。翌年は自分たちがなる立場でもあるのだ。ふと気づいた疑問は、ある意味当然のものだった。
「 ―― ダメなんだと、俺の場合は」
「先生の意見も、わからなくもないですけどね」
 筆をかたづけながらの苦い言葉は、にべもなく一蹴された。
 普段、彼が描く作品は具象画ではない。画面を分割し鮮やかな色彩で塗りわけていく、デザイン性の高いイメージ画だ。タイトルはあれども、一般人がそれらを理解するに困難を要するのは明解だ。
 多分にそれは、ただの美術部員にとっても同様なのだろう。
「わかりやすいもののほうが、校内展示にはいいですから」
「確かにな」
 フォローのようなコメントは、微苦笑をもって受け入れられた。
 しかし神楽坂の個性は、要請された静物画を描こうとも生きている。いかに写実的であろうとも、印象を大切にする画風に変わりはない。
 一本線で勢いよく描かれたグリーンは、たぶん茎だ。しなやかなそれが大胆に画面を横切る構図は、彼ならではのものだろう。緻密に練られた、そのくせ、植物の生命力は損なわない配置。ほそく固そうなつぼみは、その力を最大限に表すものなの。いつかははち切れるように咲き誇る、そのことに疑念を抱かせない。
 匂いの元となっているモチーフは、すでに大輪の白百合を咲かせていた。
「やっぱり繊細なんですねぇ」
「で、なんだったんだ?」
 大胆さはすべて鋭い感性ゆえのものだ。尊敬する先輩の絵を目の前に、すでに用件は忘れられかけていた。仕方なく原因となる神楽坂も、呼び水となる言葉をかける。終わりかけとはいえ描きかけの絵だ、しげしげ見られるのも嬉しいことではなかったのだろう。
「まだ描いてるなら、悪いんですけど、こっちのカギもお願いしていいですか?」
「俺も、もう帰る準備はじめてんだけど」
 口へと手を当てた後輩は、思い出したように早口でまくしたてる。そのまま手招きをしつつ、彼は美術室側へと消えていった。不平をこぼしながらも、部室として使っているそちらへと男も顔を覗かせる。
「 ―― なんだよ、こいつ」
 視線の先には、机に突っ伏すように眠り込む一聖の姿があった。よほど寝不足だったのだろう、熟睡しているのは近寄るまでもなく明らかだ。
 だが大きな声で会話をするのも、気遣いがなさすぎるというものだろう。
「起こしゃいいだろ?」
「最近、調子悪そうだったんで……」
 静かに近づいていけば、困惑した表情はなお色濃くなる。最近の彼を知っているがゆえのものなのだろう。
 眠っているのならば、そのままにしておいてやりたい。そんな意志を示すように、一聖自身のものであるダッフルコートが、その背中にはかけられていた。
「もし帰られるんなら、ちかくに置いてってもらえば。勝手にかけて帰ると思いますし」
「はいはい、わかったよ」
 この程度の内容ならば、あえて断る必要もない。軽く手を振りながら承諾すれば、相手はお願いしますと駆けだしていった。何か用事でもあったのだろうが、よほど独り残しておくことが不安だったのだろう。
「さて、と。しかし冷えるな……」
 既にまとめてある荷物を奥から取って戻れば、いまだ一聖は眠りの中にいた。まだ起きるまで相応の時間はかかると踏めば、寒さもまたいっそう強く感じられる。腰を据える気があったわけでもないが、彼はコートを羽織っていったん自販機まで足を伸ばした。
「また、泣いてたのかよ」
 ホットのペットボトルを手に忍び込むように戻った彼は、隣の椅子をそっと引いて座り込んだ。そうして覗き込んだ顔は、前にも増して血色が悪い。薄闇でなお白くみえる肌の上にある雫は、まぎれもなく涙であった。
 規則的な呼吸は揺らがない。その音に合て吐息をつけば、呼応するようにそれはこぼれ落ちていった。わずかに揺れたまつげからは、ふたたび新たな水滴が生まれている。しかしその眼はいまだ開かれる兆しをみせなかった。
 その様子に、神楽坂が座り直した瞬間だった。
「わたる、さん……」
「 ―― ! なんだ、寝言かよ」
 突然の呼びかけにあわてれば、瞳はやはり閉じられたままだった。それ以上のことばはない。呼吸は変わらず深く長い。
 静かにその顔は寝返りのように背けられた。視界に入るのはやわらかな髪の後頭部だ。そうして隠された表情に、ようやく跳ねた心臓も落ち着きを取り戻す。
「渉さんねぇ……」
 呆れたようにつくった声音は、抑えていてもがらんとした室内に響いた。
 一度も呼ばれることのなかった、ファーストネーム。それをまさか、こんなタイミングで聞くことになるとは、彼とて予測できなかったのだろう。
「寝言には気をつけろよな」
 誰と気づかなくとも、少なくとも男性名。誰かに聞き咎められたら、どうなることだろう。
「別に、なにも起きやしないか」
 勘ぐりすぎた自分自身に対して、自嘲の笑みが浮かぶ。
 所詮は同性の先輩と後輩、ふたりの関係を知るものはせいぜい片倉だけだ。それ以上を告げられたところで、名前だけでは追及などしないだろう。そもそも彼のファーストネームを覚えている者など、美術部にいるかどうかも怪しい。
 歪んだ顔つきのまま見下ろせば、組んだ腕の上でふたたび顔の向きは変えられていた。寝返りに似た仕種をくり返しているのは、眠りが浅くなってきているせいだろう。そう思えば、いささか呼吸も短めになっているように感じられる。その頬をまた一筋の涙が伝い落ちていった。
「脱水になるなよ」
 あまりに遅くなるようなら起こさねばと思っていたが、その必要はなさそうだ。
 からかうような苦笑をみせ、彼はそっと立ち上がった。浅くなった呼吸をもう一度確認して、滑り落ちかけたコートを掛けなおす。そんな動きにつれ、百合の香がまき散らされた。
 そのまま彼は荷物を手にすると、ロングコートを翻して立ち去っていった。
「……あれ?」
 残り香だけがうっすらと漂う、誰一人いない部室。ふわりと引き起こされた意識は、扉の音を認知することはなかったようだ。ゆっくりと身を起こせば、コートが肩で滑っていく。
「寝ちゃってたんだ」
 突如感じさせられた寒さに、布地を引き寄せる。みながいないことに安堵しつつ濡れた目元を拭えば、かたわらにはカギが置き去りにされていた。
 その隣には、まだ未開封のペットボトル。
「誰だろ……、いただきます」
 自分のために置かれていたのは、彼にもわかったのだろう。冬の空気は乾燥しきっており、確かに喉は渇いている。感謝とともにすぐそのオレンジのキャップはねじ切られた。
 冷めかけたお茶は微妙に苦い。それでもそこには、ほのかなあたたかさが残っていた。



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ようやく神楽坂の名前が出現。
でもこいつ以外、苗字か名前しかなかったり(笑)




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