第3話・雪



 そんな日が日常となるには、残された日はあまりに短かった。
 私大受験もはじまりだしたこの時期、寒さは一際きびしさを増していた。それは放課後の、にぎやかな美術室も例外ではない。むろんたった独りしかいない隣の教官室など、もっと冷え込んでいることだろう。
 しかしいまその小部屋は無人のようだ。どこかに出かけているのだろうか。ほとんど仕上がった絵だけが残された部屋を覗き込んだ一聖は、見るともなく廊下との出入り口を眺めていた。
「おい、聞いたかっ?」
 ガラリとその扉が開く。絶叫とともに飛び込んできたのは、彼の待っていた相手ではなかった。
 しかしあまりの剣幕に、室内全員の視線が集中した。よほど慌ててきたのだろう、その肩は切れる息に激しく上下させられている。
「神楽坂先輩、職員室に呼び出しだっ……!」
「なんだって? ウソだろっ」
「ウソや冗談で、こんなこと言えるかっ!」
 否定を重ねて打ち消したのは、苦しまぎれの悲鳴にもほどちかい声だった。
 あの人に限って。誰もが同じ想いだったのだろう、激しい驚愕と震撼がその場を駆け抜けた。
「呼び出しって、生徒指導かよっ」
「なんか怪しい界隈に出入りしてたとか……あ、おいっ」
 語られる理由を聞くのもそこそこに、一聖はその脇をゆらりとすり抜けた。
 寒さにかじかんだ身体は、落ちた体力とともに動きを疎外する。けれど廊下を走り抜ける彼は、ただまっすぐあの相手だけを捜し求めていた。
「 ―― 失礼しました」
 一目散に駆けつけた職員室の前、その男は待ち受けるように立っていた。一礼してその部屋を辞すところだったようだ。息を切らした一聖とは対照的に、彼の様子はいつもどおり淡々としていた。
 指導を受けたというのに、この冷静さは何だというのだろう。
 しかしそんな疑問は、透けて窺えた鋭いまなざしに消し飛ばされた。
「なんだよ、おまえも聞きつけたのか」
 噂の足は速いというがな。視認した瞬間に歪んだ顔は、どうやら嘲笑だったらしい。
 つかつかと近づいてくる歩調も、なめらかながら荒々しい。何かを言いかける前に、彼は真正面までやってきていた。
「自由だろ? 俺が誰とつきあおうとさ」
 そうしてクッと吊りあげられた口角は、律儀にとめられた詰め襟とはあまりにも似合わなかった。
「おまえも、好きにすればいいんだよ」
「……ひどい」
 非難の声に力はない。そんなことが一聖にできると思っているのだろうか。思っていないならば、なおさらに醜悪な意見である。
 だが彼はうざったげに前髪をかきあげて、唇を噛みしめた相手を見下ろしているだけだ。
「ちゃんと見たら、いいやつがいるかもしれないだろ」
 伸びっぱなしになった髪は、どうやらあげられないらしかった。しばらくののちあきらめたのだろう、逆にそれは引き下ろされた。顔の上半分を覆わんばかりの長さだ、ゆがめた口元の印象だけが強くそこには残った。
「同情されたいわけじゃないなら、しっかりしな」
 軽く肩をはたくようにして、彼は脇を通り抜けるようにして歩き出した。美術室に戻るつもりなののだろう。
 思わずその背後に一聖も向き直った。だが、その手も足も伸ばすことができない。
「せんぱ……」
「俺たちは、ただの先輩と後輩。せいぜい友達なんだからな」
 かすれた呼びかけにも、進み出した足は止められない。肩越しに向けられたその顔つきは、とどめを刺すように無表情だった。
 夏には当たり前に得ることのできた、柔らかな笑み。その片鱗すら、そこにはなかった。
(わかってる。わかってるんだよ、そんなことっ!)
 別れてしまった今、もう二度と手に入らない。睡眠不足の頭にガンガンと響きわたるのは、いま告げられた言葉ではない。呆れたようなあのときの声ばかりだ。
「あ、れ……?」
 睨みつけていたはずの視界が、徐々に暗くかすんでくる。涙でもあふれているのだろうか、学生服の色ばかりが残像のようにぼやけている。
 早くぬぐわなければ。伸ばそうとした指は、かすかにも動かなかった。その代わりに、全身が静かに傾いでいった。閉じかけた視界に、一気に広がったのは黒い闇。
「……一聖っ!」
 そんな声は、都合の良い幻聴だったのか。彼の意識はゆっくりと、忘却のやさしい闇へと落ちていった。
 けれどそんな逃避は、数時間にも満たないものだった。
「さっきは、ありがとうございました」
「いや。だが調子が悪いなら、無理はするなよ」
 部活動の終了直前、青白い蛍光灯のもと、彼はふたたび同じ相手と向き合っていた。
 目が覚めたのは、養護教諭だけがいる保健室だった。そこで教えられたのが、運んできたのがこの目の前の男であるということだったからだ。
『御礼くらい、言っておきなさいよ』
 にわかには信じがたい内容だが、着ていた衣服には埃ひとつなかった。そんなものがつけば払ったところで黒い上下だ、痕は残る。ということは倒れる直前に支えあげてくれたのだろう。
 あのとき駆け寄って助けてくれたのだろうか。
 しかしささやかな期待さえも、このクールな相手は打ち砕いていく。重ならない視線。感謝のことばさえ拒絶する雰囲気は、ほぼ仕上がった絵に筆を動かしつづける姿から伝わってきていた。
(早く新しい誰かに、恋をしてほしがってるんだ。このひとは)
 たぶんそのほうが互いにとって良いと、判断しているのだろう。間違っても気を持たせまいとする態度も、彼なりの誠意だとはわかる。
 それがわかるからこそ、痛いのだ。
 別れていることなど、ちゃんと理解している。それでも別れていると実感させられる、この短くも永遠に消せない距離は。
 実感しなければ、気づけなかったけれど。痛くて、いたくて――。
「まだ具合が悪いのか?」
「 ―― え?」
 苦しさに、ぐっと胸元を押さえてしまったようだ。気を失った直後だ。キャンバスを挟んだまま立ちつくしていれば誰でも、そして誰に対してでも同じ疑問を抱くだろう。
 心配されればされるほど、むなしさに痛みは増幅していく。
「いいえ。なんともないデス」
 ゆるやかに首を振ったその顔は、なけなしのプライドでだろうか。うすく微笑みをうかべていた。
 しかし貼りつけたような表情は、能面のように『哀』しか感じさせない。
「嘘つくの、イヤなくせによ……」
「え、なんですか?」
 ぼそりとため息で吐いた男の意図はどこにあったのか。聞き取れなかったらしい一聖の問いかけに、答えはもはや返らない。ふたたび動きした筆だけが、その場に存在を主張していた。
「じゃあ、失礼します」
 一礼に対しても、ことばはない。視線はキャンバスに固定されたままだった。
 これ以後、だれに誘われても一聖が教官室へ立ち入ることはなかった。



 そして完全な自由登校となり、三年生のクラス棟が閑散とした二月。
 再びあの噂が、美術室で熱く取り沙汰されていた。
「また、あのあたりで見かけたって……」
「ええ? だって注意受けてるんだろ。なのに」
「どうかしちゃったのかな、先輩」
 人の口に戸は立てられないということだろうか。当人は百合も描きあげたのか、既にここにはいない。そんな気のゆるみもあったのだろう。新たな証言に、もはや彼らは絵を描くどころの騒ぎではなかった。
 尊敬していた先輩の奇行は、むろん皆が不安に感じる内容だ。気にかかるのも仕方ない。だがそれは心痛という美しい名目の下、部員全体の好奇心の対象になりさがっていた。
「なあ、おまえどう思う?」
 期待と不安が、誰もに同じ問いを抱かせる。答えはまちまちだ。しかし、ただそんな仲間たちを眺めているだけの者がひとりだけいた。
(バカバカしい……)
 そんな会話の背後に、静かなメロディーが流れはじめた。だが帰宅をうながすその放送が鳴り響いても、部活動はつづくようだ。
 輪から外れていた一聖はそんな皆を残し、独り美術室を抜け出していった。
 あのひとの考えなど、わかるはずがないのだ。部員らよりよほど長い間悩んでも結論の出せない彼は、冷たい風のなか嘲笑にはなりきらない表情を浮かべている。
 そんな彼は疲れた足取りで最寄り駅へと向かい、地下鉄へと乗り込んだ。あとはいつもの駅まで、揺られていけば自宅はすぐそこのはずだった。
「ほんと、バカバカしい」
 何度目かの愚痴は、ふたたび寒気を浴びている自分自身に向けてのものであった。
 気づけば、一聖は途中下車をしていた。職員室につい駆けつけたときと同じく、自然と身体が動いていたのだ。そこはもちろん、例の噂にあがった場所にほどちかい駅だった。
 だが高校などよりよほど広い場所だ。細かい場所までわかっているわけではない今、偶然などほとんどあり得ないだろう。
 そもそも、逢って何を言えばいいというのか。
「なにやってんだろ、オレ」
 いわゆる夜の繁華街に独り。ネオンの輝く真っ暗な空を見上げ、彼は深く息を吐いた。月も星もそこにはない。白く立ちのぼる息が、闇に映えて寒さを強調してきているだけだ。
 帰ろう。ブルリと身を震わせる風に、首を元に戻した瞬間のことだった。
「な、んで……」
 もっとも逢いたくて、けれどいまは決して逢いたくなかった相手が、そこにはいた。
 自由登校になってから数日、目の前の彼は制服を脱いでいる。はじめて見た私服姿は大人びており、あたかも見知らぬ他人のようだ。一聖は思わず、その認識を拒絶した。
 だが翻っているロングコートには、ひどく見覚えがあった。
『寒いのは、きらいなんだ』
 そう聞いたのは、下校途中はじめてふたりで雪を見たときだっただろうか。襟元をぐっと寄せて歩く様子に、はじめて親近感を抱いたことを覚えている。まだつきあうなど、想像すらしなかったころのことだ。
 そのときにも着ていた真っ黒なそれは、この宵闇にしっくり溶け込んでいた。
「ホント、だったんだ」
 予想はしていたはずの姿ではあった。だが実際に目の当たりにすれば、ショックは隠せない。
 信じたい想いが、実感をともなわせない。触れたら、目の前の彼は消えていくものではないのか。むしろそんな幻影であってほしい。
「一聖? なんで、こんなところに」
 相手も困惑しているようだが、そのうろたえた声は彼に現実を突きつけた。
 まぎれもなく今ここにいる男こそが神楽坂当人であるという、冷たい事実を。
「あなたは……」
 つきあっていたはずのオレとは、できなかったことをしているの?
 声は詰まり、暗闇のなか白く消えていった。だが揺れながらもまっすぐ射る瞳は、なによりに雄弁に語りかける。
 この場所にいるということは、そういう行為をしているということだ。
「別に、抱けるさ。好きじゃなくても」
 状況を理解した相手の答えは、しかしあまりにも冷酷なものであった。
 悪びれるでもない調子は、かえって言葉の信憑性を高めている。わずかに歪められた口元は、あまりにも皮肉めいていた。
 確かに所詮は生理反応のようなものだ。可能性論であれば、確かに不可能なことではないだろう。
「俺とは、誘ってもしなかったくせに」
 小刻みに腕ごと震えているのは、力を込めすぎているせいだろうか。ぐっと握りしめたこぶしは、痛いほどに握りしめられている。
「試してみたいのか?」
「やめて、くださいっ」
 じりじりと間合いを詰めてきた相手に、一聖は激しく拒否を示した。軽く突き飛ばされる形となった相手は、けれど予測の範囲だったのだろう。体勢ひとつ崩すことなく、安全距離を保ちたたずんでいる。
「なんだってんだよ、まったく」
 ちいさく舌打ちをしながらそうこぼすと、そんな男はなぜかコートのボタンへと指をかけた。手袋が邪魔なのだろう。だがもたつきながらも、ボタンはひとつ、またひとつと外されていく。
 こんな往来で服を脱ぐことに、何の意味があるのだろうか。
 だがそんな疑問とは裏腹に、一聖の目はその動きに釘づけだった。
(好きと思ってくれてないのに……)
 そんな相手になど絶対に触られたくないと信じていた。だがいま彼のなかをかけめぐる感覚は、まったく逆のものだった。
 この往来でどんな目に遭うとしても、触れられたくて仕方がない。それどころか、彼に触れたい。もはや手が届かないことが恨めしくてならない
 伸ばしそうになる衝動を御するために、ふたたびその手はかたく握りしめられていた。
(やっぱり、好きなんだ……いまでも)
 ちがう。いまのほうが、もっと――。
 そうであるからこそ、絶対に触れられたくない。誰にでも与えられる腕では、哀しすぎるから。
 あの日からつづく胸の疼き。自覚してしまえばなおさら切なさは増幅していくばかりだ。痛みを堪えるように、一聖は強くうつむいた。
「なんでもいいから、行くぞ」
「え?」
 ぬくもりがふわっとその背中を包みこんだ瞬間、強引な腕はその背を押して進みはじめた。
「こんなところで見られたら、俺もマズイんだよ」
 ぼそりと囁かれた内容に、一聖はかけられていたコートの前をあわてて合わせた。
 部活動からあせって駆けつけた彼は、当然のことだが学生服を着たままだ。そこにダッフルコートを羽織ったところで、その雰囲気は隠し切れていない。それを隠すためだったのだろう。神楽坂のコートは、その上からでもすっぽりと覆えるだけのサイズを誇っていた。
「あ、あの……」
「黙って歩け。目立つ」
 寒くないですか。そう問いかけた出鼻はいともたやすく跳ねつけられた。ここまで言い切られては、もはや声のかけようもない。こっそりと見上げても重ならない視線。ただ前だけを睨んで歩く私服姿の男は、それでもあの存在であることを知らしめている。
 ふたりは夜の色濃い空間を、ただ歩きつづけた。
 しばらくののち、彼らは目的の駅までたどりついた。外気の遮断された地下は、さすがにどんよりとあたたかい。互いにいつしか緊張していたようだ、強張っていた身体は深くため息をつかせた。
 それは駅まで無難にたどり着けたことによるものか、それ以上の何かがあるのか。より深い吐息をついた神楽坂にも、きっとそれはわからないだろう。だが手袋をはずしたその指は、そのくせ定期券を取り出すことにひどく手間取っていた。
 とはいえそんな時間など、些細なものでしかない。
「言いたいことがあるなら、明日聞く」
「え?」
 かぶせていたコートを奪った彼は、着込むことなくそれを自分の右肩へばさりとかけた。そのままひとり、先に改札をくぐりぬけていく。肩越しにすら振りかえる様子はない。
 ここから先、ふたりの乗る電車は逆方向になる。
 答えはおろか、別れの挨拶すらかわさないまま、彼は過ぎ去っていった。
「明日って、なんだっけ」
 置き去りにされた一聖は、周囲の流れを疎外するように立ちつくす。日付など、とうに彼の中で意味をなさないものになっていた。
 残像のように灼きついているのは、黒いコートを肩から掛けながした後ろ姿。ちいさくなっていく背中はただまっすぐに進み、そのまま群衆に溶け込んでいくのだろう。翻ったコートの長さが、妙に印象的だった。
「さむ……」
 その上着が一枚なくなったせいだろうか。思わず底冷えする寒さを感じ、彼は自らの身体を抱きこんだ。そうして包んだ両腕はあたたかいはずだった。
 けれど今の彼には、かえって冷たく痺れるような感触を思い知らせるだけだった。
 それはあの真っ黒なコートを奪っていった指先が残していったものだった。



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これで風邪とかひいてたら、受験ヤバいってーの。
寒がりのくせに、かなりのギャンブラーですな。




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