第4話・聖



 自由登校になっていても、この日だけは学校に来るのが慣習となっているバレンタインデー。
 ちょうど私大の結果が出るころだ。報告も兼ねてというのもあるだろう。久しぶりに顔を合わせたクラスメイトに、教室はなごんだ雰囲気に包まれる。
 むろん息抜きにもなるのだろう、そのまま部室に顔をだしていくのも通例だ。
「この部屋の雰囲気は変わらないな」
「当たり前だろ、まだ半年くらいしか経ってないんだからな」
 美術室に向かう一団もまた、口々にたわいないことを言い合いながら慣れた廊下を歩いていく。
 文化祭とともに引退した彼らだ。寄贈のため描きに通っていた神楽坂以外は、その部屋に行くこと自体も久しぶりだろう。だが彼とても登校が完全に自由となったとき以来のことだ。
「しっかし、寒いなぁ」
「……そうだな」
 人気のない特別教室棟は、確かに強く冷え込んでいた。だがそれもひとたび扉を開けば忘れられるはずのものだ。
 見た目は普通の扉。しかし彼らにとってはなつかしい、特別なそれを開く。
 常どおり騒々しい美術室は、ひさしぶりの先輩を迎えるためいっそうの賑やかさをみせていた。
「みなさん、お揃いですねっ」
「ああ。受け取りに来てやったぞ」
「はいはい。ともかく、後輩一同からでーす」
 尊大な態度は、しかし表情に裏切られていた。歓迎に対して、ささやかな笑いを提供しているつもりなのだろう。むろんそんなことは後輩たちも心得たものだ。あっさりと突き放し、彼らはこの日にむけて準備してきた品を運び出してくる。
 しかしどやどやと取り出されたのは、彼ら三年の予想していたものではなかった。
「……花?」
「なんだ? 今年はチョコじゃないのか?」
 愛の告白である菓子を流用する。それは代々受け継がれた男子校特有の悪趣味な伝統であった。
 久々にあらわれる先輩に対して、感謝の想いをストレートに表現することを恥ずかしがる。そんな年頃ならではの贈り物であろう。
「男からのチョコってのも、なんでしょう」
 意外性に目を丸くした彼らに、肩すかしを食わせた後輩らはそろって満足げに笑う。
「だからって、花もイヤだろうが。なあ」
「このネタごと、やめときゃいいのに」
 ひっかけられた彼らは、口々にぼやく。だがいっそう笑いが広がれば、お手上げだとあきらめの視線を見交わした。
 かく言う彼らも、去年は嫌がられながらもチョコレートを渡した側なのだ。
「悲しき受験生へのエールだと思ってくださいよ」
「嫌がらせか? おまえら」
「いいから、はい。受け取ってくださいね」
 照れではぐらかしている自覚が、お互いにあるのだろう。現実を突きつけるコメントに、彼らはなつかしい美術部の雰囲気を楽しんでいた。
「それぞれのイメージに合わせたつもりなんですよ?」
 そうして次々に渡されていく花は、確かに対象の一側面を突いていた。この時期でかきあつめられる花の中からとしては、かなりの選択眼だろう。さすがは美術部員ということか、洞察力はそれなりにあったようだ。
「先輩には、はい」
「神楽坂が、バラぁ? げー、似合いすぎ」
 茶化した声は、片倉を中心とした三年生のものだ。それまで会話にまったく加わることのなかった神楽坂は、なにを考えていたのだろう。突きつけられた花に驚きながら、それでも笑顔でそれを受け取った。その表情も態度も、まったく以前とかわるところは感じさせない。
「バラねえ……」
「いい感じでしょう? 豪華なくせに、ポピュラーで」
「秘密めいてるふうだしね」
 昼休みすら当たり前に参考書を開くこの高校では、素行での呼び出しを受けた相手というのは近寄りがたいものがある。それは目の前の神楽坂に対しても同様だ。
 しかし後ろめたさの欠片もない当人を目の前にして、その不安は消し去られたようだ。会話に加わらなくとも、確かにそこにいるという安心感。
 噂はしょせん噂ということか。ゆとりが生んだコメントは、周囲の笑いをなおさらに誘った。
「で、なんで白なんだ」
 その笑いの中心で、彼は眉をしかめて問いかけた。
 一輪だけをラッピングしたバラの花は、品種は分からないが大輪の白。生命力は豊かで、放置されたからとて枯れることはないバラは、そのくせ手をかけることが当たり前。それでこそ咲き誇る、ハイブリッドティーだ。
「色は一聖が決めたんですけど」
「その花の花言葉、『敬愛』っていうらしいですから」
 フラワーショップの受け売りですけどね。
 常と変わらぬ後輩然とした態度は、水を向けられてようやく相手へと視線を流してきた。
 昨日のことは、なかったこととして流す気なのだろうか。部屋に入ったときから一度としてちかづいてこない相手に、神楽坂はちいさく嘆息した。
「……なるほど。まあ花言葉はひとつだけじゃないけどな」
「ほかにもあるんですか?」
「まあな」
 周囲からあがる意外そうな声を受け流すように、彼は少し微妙な顔つきをみせた。
 そのまま、カラーを花言葉で選んだ相手へと目を向けるが、既に相手は他の者と言葉をかわしている。サポートは望めそうにない。
「しかしバラは、あんまりおまえらからもらいたいセリフはないぞ」
「俺らからの愛情は、いらないってことですかぁ?」
「っていうか、おまえらそんなん求められたいか?」
 肩をすくめながら告げる彼は、ここの誰もが知っているあの男だった。訪問したばかりにあったはずの壁は、もはや後輩をも解きはなったようだ。少々辛辣なかけあいすら笑いとなっている。
「まあいいじゃん、似合ってるんだから」
 片倉もまた場に合わせたように、軽口の応酬に色を添えた。筆を持つとき以外の神楽坂は、多少口が悪かろうとも、そのくらいに親しみやすい相手なのだ。
 しかしそれが、特別視を厭う故につくりあげられた人間像だと、誰が気づけているのだろうか。
 たゆまぬ努力で築かれた画力と人間性。むろんいまでは、それまでも含めて彼だ。それゆえに彼は最もバラらしいのかもしれなかった。
「だからおまえらには、言われたくないんだっ」
「いや、だって似合うんだよ。気障さとかさ」
「あはは。まあその花の礼に、みんなでなんか喰いに行こう」
 応酬は収拾の気配みせない。その場をまとめたのは、前部長を務めあげた者の高らかな笑い声だった。



 そしてなだれ込んだ、近場のバーガーショップ。一角を埋めた彼ら黒い学生服の一団は、騒がしさでも山積みにされた食料の量でも、群を抜いて目を引いていた。
「ほら、これでいいだろ」
 個々に注文するのも面倒だと適当にみつくろったのだろう。どんっとトレイをおろした三年らは、ぐるりと後輩を見回した。支払いはどうせ彼らの受け持ちだ。
「えー、これだけじゃ足りませんよ」
「ちったあ遠慮しろっての、まったくおまえらは」
「じゃ、足りなかったら追加ということで」
 おごりとなれば遠慮がないのは、やはり食欲旺盛な男子高生ゆえか。
 文句もそこそこに好き勝手伸ばされてくる手は、次から次へと新たなバーガーを奪い合っていた。そうして口が塞がれれば、まずは不満を告げる場所もなくなっていく。
「先輩、ちゃんと食べてます?」
 そのなかでひとり、ゆっくりとホットのコーヒーをすする神楽坂の姿は、奇妙に浮いていた。
「喰ってるぞ。なんか描きながらばっかだけどな」
「いまは食べることに集中したほうが。なくなりますよ?」
 さすがにすべて食べ尽くすことに気が引けたのだろう。
 後輩は残り少なくなっていた山から、すこし高めのバーガーを差し出した。
「どうしても、気になってな」
 苦笑しながらも礼を述べる。押しつけられたバーガーの包みをほどく動作は、やはりのんびりとしていた。
「県の芸大でしたっけ」
「本当に東京とか、行かないんですね」
「いまの先生、こっちの人だからな」
 バクっとかぶりついた直後の声に、彼はコーヒーで飲み下しながらそう答えた。
 師事する相手によって、それなりの傾向や派閥がある。それに添った学校のほうが、受験に当たって有利なのはいうまでもない。神楽坂が目をかけてもらっている人物は、確かにこの県の派閥に属していた。
 だが、その程度のことで合格できるほど甘くないもの事実である。
「なんにしても、大変そうですね。受験」
 炭酸や苦いコーヒーは、油っぽさを中和していく。会話をしながら彼らはドリンクでいきおいよくバーガーを流し込んでいた。
「つか、俺にも神経あったんだなあって」
「本当ですねぇ、それは意外。なんてね」
 受験生の真の状況を理解しているのか、いないのか。無遠慮なコメントとともに、後輩らは一斉に吹き出した。彼の実力を認めているからこそ、笑っているつもりなのだろう。
「大丈夫ですよ、神経なんかなくたって」
「おまえらは……。勝手に言ってろ」
 そんな笑いが一段落すると同時に、話題の主はすっと席を立ちあがった。そのまま何人かの前を抜け、通路へと出ていく。食べ終えたゴミは、きちんと畳まれている。場は新たな会話へと動き始めていた。
「 ―― 無理するな」
 手には空のカップを携えた、カウンターへ新たなドリンクを取りに行くかのような、通りすがり。
 背中越しに声をかけた相手は、むろん一聖だった。指先にポテトをつまんでいる彼に、バーガー自体へ手をつけた様子はない。相変わらず食欲がないのだろう。
「無理に喰ってんなよ」
 重ねての声にも、返事はもどってこない。あきらめたように神楽坂はメインの通路を歩き出した。
 しかしその次の瞬間、彼の背中は激しい視線に貫かれていた。なにもかも突き抜けて刺さるそれは、あらゆる感情を放出させている。
 見る間でもなく、跳ね上げられた心拍数。まっすぐに視線を絡めていたら、どこまで反応してしまっただろう。手の中にあった紙コップは、ぐしゃりと潰れてその掌を濡らしていた。
「おい一聖……、なあっ! ちょっと」
「あ? すみません。なんでしたか」
 気易げにかけられた呼びかけが、据えられた目を引き剥がしたようだ。見なくてもわかる無言のプレッシャーは、名残惜しげながらも急速に軽くなっていく。意図せず挟まれたような声が、救いとなったらしい。
(いや、わかっててかもしれないな)
 あの声はあきらかに、事情に通じた片倉のものだった。
 だが判断のつきかねる行動をここで思案していても仕方がない。ともかく圧迫からの解放にかすかな安堵を覚えながら、そのまま彼は歩く。道すがら潰れたコップはゴミ箱へと投げ捨てられていた。

「……慣れても、気分のいいこっちゃねぇな」
 コーヒーの匂いがついているだろう掌は、その口元を覆っている。
 汚れた手を洗うようにさりげなく洗面所へ来た彼は、なぜか水音を立てた個室から出てきていた。
「いい加減、なんとかならないもんかねぇ……」
 吐くのもあきた。真っ当にものが喰えなくなって、どのくらい経つのだろう。
「誰だよ、ハンバーガーにしようっていったヤツは」
 悪態も独り言では覇気がない。壊れた胃は、濃厚な油物を受け付けなかったようだ。べたつく酸味が、いまだ不快感を与えている。誰も来ないのをいいことに、彼はうがいを何度かくりかえした。
 洗面ボウルへと最後の水を吐き出して、蛇口をしめる。
 そうして顔をあげれば、視線は自然、向かい側にある鏡を覗き込む形となった。
(なんて、情けない顔してるんだよ)
 死人のような、幽鬼のような、そんな ―― 。
 けれどそれがいまの自分。そんな顔があまりにふさわしすぎて、瞳は逸らしきれなかった。
 やつれた姿の虚像が、実像をみつめているだろう現実。
「もう、笑うしかねぇか」
 他人の気配のない場所はやはりうすら寒く、冷たい水に手と身体は震えていた。
 けれど、その場所に笑い声が響くことはなかった。



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