第5話・梅



 思いがけない訪問者に、神楽坂は自宅の扉を押し開けたまま固まっていた。
 寒そうに肩を竦めた、ウインドブレーカー姿のよく見知った男は。
「片倉……?」
「よう」
「どうしたんだ」
 受験生になってからはほとんど来たことのない彼は、しかし挨拶だけで黙り込んでしまった。めずらしいほど神妙な顔つきだ。どうやら相手もまた、声をかけきれずにいるようだ。
 そのまま数十秒が過ぎれば、寒気は家にも流れ込む。
「とにかく、あがれよ」
 室内にいたままの薄着では、寒さに耐えかねたのだろう。先に折れた家人は、促しながら背中を向ける。そうして無言のまま誘導するのは、渡り廊下でつながった離れだった。家を新たに建てなおす際アトリエとして残された、昔のままの部屋だ。
「悪いな、いま描いてるトコだから」
 苦笑まじりの短い謝罪は、室内の状況についてのものだった。
 決して狭くはないその場所には、絵の具を溶く油のにおいがつよく充満していた。一日この部屋に閉じこもっていたら、暖房もあいまって気分が悪くなりそうである。
 だが目の前で苦笑している男がこもりきりの生活をしているのは、はじめて来た者にも明白だった。玄関にやってきたときですらわかるほど、その彼には同じにおいが染みついていたのだ。
「別にいいけど……むしろ、なんだこれは」
「ああ、悪い。ゴミは捨てないとな」
「じゃなくて」
 制するように否定した片倉の視線は、描きかけのキャンバスへと固定されていた。正確には、その傍らに放置されているゼリー飲料のパックにだ。神楽坂のいうゴミも数個は置かれているが、封すら切らず積み上げられたそれは、少なくとも数日分に換算される量だ。
 その状況に、この家を突然訪れた彼は推測を確信に変えた。
「もしかしておまえ、喰わないんじゃなくて ―― 喰えない、のか?」
「……バレた?」
「気づくよ、いくらなんでも」
 悪びれることなく笑った相手を改めて見つめ、片倉は立ちつくしたまま硬直していた。
 微笑んでいるはずのその表情は、あまりに儚く覇気がなかった。よくよく見れば頬もこけ、顔色も相当に悪い。
 とはいえ背が高すぎるせいで、見た目の印象はいまもさほど変わっていない。だからこそごまかされつづけたのだ。
(どうして、いままでわからなかったんだ)
 むろん、毎日食事をともにしていたわけではない。だが昼どきに会えば、常に手にあったのはカフェオレひとつ。食べたり食べなかったり、いくらムラの激しい彼だとはいえ、その異様さになぜ気づけなかったのか。
 自らの受験等で忙しかったせいもあるだろうが、親友として、その変化に気づけなかったことが悔やまれてならない。
『痩せましたね、あのひと』
 バレンタインの日。呼び寄せた一聖は、けれどあっさりと見抜いていた。
 会った機会は決して多くないはずだ。驚く片倉に対して、彼はちいさく笑いかけてきた。
『あのひとを ―― 先輩を、責めないでくださいね』
 そうして縋るように見つめる瞳が、片倉をこの場所へといざなったのだ。
 握りしめた掌に、爪の先がわずがに食い込む。だがその痛みが次の行動を起こさせた。
 少なくともあの彼のため、そしてこの目の前の親友のために、現状は打破しなければならないのだ。
「いつからだっ」
「そうだな。ここまでひどくなったのは、つい最近か」
 読みの甘さにか、つい語気が荒くなっていた。だが受ける側はまったく飄々としたものである。淡々とゴミを捨てると、定位置らしいキャンバスそばの壁にもたれ立っている。顔だけはきちんと向けているところからして、話くらいは聞く気があるらしい。
「……余裕だね」
 手応えのなさに、皮肉が自然と織り交ざる。勧められることのない椅子を勝手に引き寄せ、片倉はガタンと座って睨みあげた。ウインドブレーカーも脱ぎ捨てる。
 もともと上と下から絡みあう視線が、なおさら急な角度でぶつかりあった。
「いまシリアスにしゃべったら、死ぬぞ」
「ああ? なにをふざけた……っ」
 そこで糾弾は途切れさせられた。つっかかるように眇めた目の先、神楽坂はまったく感情を湛えていなかった。薄く浮かべられていた笑みすら、透けるように消えている。
 言葉だけを捉えれば、嫌みにしかならない。けれど一切の感覚を遮断して耐えているのだろう。冗談めかした口調自体が、既に限界を示していたらしい。
 目の前の彼は片倉がいるにも関わらず、めずらしくもその筆を取りあげていた。
「受験のせいか?」
「それも ―― あるかもな、一応」
「いちおうって、なんだよ」
 かたくなな背中に向けてかける声は、当たり障りのないラインから攻める。答えが返されるのをよいことに、次を求めた。じっと向ける視線の先、境界の内を埋める腕の動きは止められない。
「どっちかっていうと、進学とか、卒業とか。そういう感じか」
 色の洪水は、常どおりの絵を描き進めていく。キャンバスをまっすぐ向いたまま、神楽坂は考えるながらのように淡々と告げていた。
「進学と、卒業? なにが ―― おまえ、悩むことなんかあるか?」
「まだ油彩の実技は、終わってないな」
 その口調からはそれが悩みだとは思えない。前期試験はほぼ終わっていて、いまさらあがけるものでもないし、そもそもそれならば受験が悩みと答えそうなものだ。
 進学にせよ、卒業の単位が足りないなどということはない。呼び出し程度の警告では、生徒内での中傷はともかく、私立でもあればこれまでの素行上おおきく取り沙汰されるほどではない。
 ならばそのふたつから導かれるのは、高校から離れることで生じる内容だ。
「まさかおまえ、あのコのことが心配だとか」
 怪訝にこぼれた言葉は、発した本人の首をも傾げさせる。
 しかし黙々と繰られていた筆は、ふっととまった。固まった背中から、答えは返らない。
「いまさら? おまえ、女と……っ!」
 無言を肯定としたのだろう。だがあまりの驚きに、非難の声すら喉に詰まる。とはいえギリギリと音がしそうに噛みしめられた口元。そして憎々しげに睨む瞳は、まっすぐに相手を貫いている。
 卑怯な言い逃れを、親友として絶対に許すまいというのか。
「なんだよ、おまえまで信じてたのか」
 そんな背後からの圧迫に、ついに男は振り返った。だがその声は思いがけず軽い。反発するように、片倉のまなざしは鋭さを増した。誠意のなさは、もはや友人である自分へのものとしてにすり替わっている。
「職員室に呼び出しくらってただろうが」
「まあな。あと、ホテル街でみかけたとかだろ」
 ちいさく舌打ちの音が鳴らされる。神楽坂のものだ。ふっとため息をつくと、彼はやはり悪びれることなくそのまま肩を竦めてみせた。
「半分は本当なんだがな」
「……半分?」
 疑惑に満ちた声は、それでも問い直している。瞳は据えられたままだ。
「塾の帰り道なんだよ、その場所」
 あっさりと告げる姿に、なおさら困惑は深められる。不安と不審、そしてわずかな期待。そのまなざしの前、ゆっくりと笑いに彩られた口は開かれた。
「美大受けるだろ? それ相応の勉強するところがあるんだよ」
「ああ、なるほど」
「まあ駅前にあるし、交通の便はいいんだが。立地条件が悪いっていうか、なんていうのか」
 片倉とて進学校でわざわざ美術部に所属する者だ、聞いたことがないわけではない。軽くうなずいてつづきを促せば、流れるようなセリフはそこで途切れた。けれどその顔に後ろ暗さはない。
「駅の出入り口ひとつで、そっち側に行くんだよな」
 一息ののち、告げられたのは曖昧に濁した代名詞だ。しかし意味は十分に通じていた。
「なんだよ、それ……」
「ちゃんと先生方にも説明して、理解してもらったぞ」
 ふわりと長すぎる前髪をかきあげる照れたしぐさは、片倉に笑顔をよみがえらせた。シャイな高校生そのものの姿は、彼の知る親友の姿であったからだ。乱行かと不安に思っていただけに、安堵もひとしおであった。
 だが根本的に解決していない問題は、変わらず残されたままである。
「それじゃ、おまえ本当に……」
「まあ、たぶんな」
 ふと真顔に戻った相手に、いまさら隠していても仕方ない。再び絵筆を取りあげた神楽坂は、キャンバスにこそ向きを変えたが、そんな言葉でついに認めてみせた。
「そんなに好きなら、なんで別れたんだよっ」
 叫びはわずかに鋭い。脳裏に一聖の瞳がよぎった片倉に、その棘は隠しきれなかったようだ。
「なんで……」
「だから、だろ」
 悲痛な呼びかけに、神楽坂はついにかぶとを脱いだ。
 震える声。けれどその腕はひたすらに一つの色を塗り重ねている。それはあの百合の背後に叩きつけた、深すぎる赤だ。
「別れたくなんて、なかったさ。でも」
 背をむけたまま、彼はその重い口を開いていった。
「耐えきれなかったんだよ、あんなあいつに」
「あんな、あいつ?」
「おまえさぁ。『なんでしないの?』って誘われて、できる?」
 肩越しに振り返りながらのセリフは、今度は片倉を絶句させた。その様子に、かいま見えた男の顔はふたたびキャンバスへと戻される。
「つきあってるから、進まなきゃ。そんなの、おかしいだろ?」
「でもそれは ―― 好きだから、だろ」
「……そうだな。そうだと思うよ」
 好きだからこそ。それは最も重大なキーワードだった。
「だけど、そんな感覚では、したくなかったんだ」
 つきあってるから手をつなぎ、一緒に帰り、キスをして ―― それ以上まで?
 抱き合う理由を、そこには求めたくない。恋愛感情があればこそ、性行為に価値がうまれる。快楽だけに溺れそうなほど若い彼らは、そう信じるくらいにはまだ純粋だった。
「どうせ、俺のエゴさ」
「……おい」
 自嘲はもはや隠されることなく、その顔を彩っていく。勢いに任せるように筆は画面を叩いた。
「待つつもりだから、つきあいはじめた」
 溜めつづける苦痛は、覚悟していてもつらすぎたのだろう。キャンバスに向けて独り言のようにはじまった告白は、限界を超えたダムからの水だった。とどめれば、ダム自体の崩壊を招くのみである。もはや片倉はその告解を聞くしかない。
「待てると思ったんだ……あいつの成長を」
「だが、待てなかった?」
 緩やかに向けるのは、呼び水。促されるまま、神楽坂の口はことばを紡ぐ。
「ああ。思っていたより、自分はガキだった」
 当たり前だ、所詮は同じ高校生。実年齢だけでなく、精神面でも差などほとんどなかったのだ。おこがましいこと限りない。彼は喉を突き上げそうな嗤いを、筆を握りしめることで堪えていた。
 他者である片倉まで巻き込んだからには、中途半端な懺悔はなお許されない。
「誰か他人に恋してしまう前に、つかまえたかった」
 塗り重ねる行為が、いまの彼の理性をつなぐのか。画面にふたたび、赤色が乗せられた。
「だから『好き』ということばで、自分のものにして」
 苦しげな一声に、より深くなる色味。そしてまた、ひと筆。
「それから、恋を教えればいいと思ったんだ」
 まだそんな感情を知らなかっただろう相手に、はじめて与える感情。
 だからこそ明確に ―― 形にはしたくなかった。
 好かれることから、好きという感情を知っていくはずだった彼。身体で安心するためだけのつながりじゃなく、ちゃんと自分の心から求めてほしかった。
(不安だったんだろう? おまえは)
 記憶をたどれば、常にゆらぐまなざしが追いかけてきていた。まだ恋には幼い彼のことだ。一般的通念で悩んでいても不思議はない。
 だから愛されている確信を、抱かれることに求めた。足りなかったのだろうか、俺では。こんな愛し方では。
 そしてあげくの果てに、選んだ道は ―― 。
「エゴ以外の、なにでもないんだっ」
 ついに筆は投げ出された。それは部屋の隅へ、乾いた音を立てて転がっていく。
「そう、エゴだ。わかってる、わかってる……」
 画面には、筆跡が痛々しく光っていた。
 愛してるからといって、相手が望むように成長するわけではなかった。たとえ相手が愛してくれるようになったとしても、同じ愛し方となるわけでもなかった。
 人の愛し方なんて、それぞれだった。なんて当たり前のことを、知らなかったのだろうか。
「だから ―― 自業自得なんだ、俺はな」
 ようやくもうひとりの存在を思い出したかのように、うしろを振り返る。
 訥々とした声は、だれにも見せることのなかった神楽坂の一部だった。無意識につくっていた人格すらを越えたいまの姿は、人より秀でた才を持つが故にできた孤高さだけをにじませている。
「だが、あいつは……いや、でもあいつも選んだんだ」
 口元を覆い隠すように自らの掌をまわす。その手の甲にも赤い絵の具はついていた。
「別れさせたんじゃないのか? 誘導して」
「それでもだよ」
 離れたかったわけじゃない。ただもう、疲れていただけだ。
 別れると言われたから ―― 別れた。それだけのこと。
 本当は、別れたくないと言われたかったのか。それも今はもうわかりはしない。
「かえって無理矢理、成長させることになったかもしれないがな」
 怒りや悲しみに、あと何があれば変えられるというのだろう。
「いまでも、好きなんだな」
「……ああ」
 すべてを語り尽くしたいま、なぜまだ問われるのか。判らないながらも彼は答える。
「でももう言えないって?」
 拒絶することのない相手に、声は重ねてかけられた。向かい合う身体は、ゆっくりとその背を向けた。転がった場所まで歩くのすら、すでに億劫だったのか取り上げたのは新たな筆。その先はパレットへと迷うことなく滑らされた。
 だが、いつの間にか目的の色は使い果たしていた。舌打ちしながらその場所へチューブをひねれば、似て非なるほど鮮やかな色彩が絞り出される。
 しばしのそんな沈黙は、けれど互いにきちんと受け入れられていた。
「そうだな」
 ぽつりと呟けば、いまさらながらに押し寄せる後悔の波。押し流されたいという欲求もよぎる。
 けれどこれ以上の苦痛を一聖に対して与える気など、彼にはなかった。
「言ったら意味ないだろ?」
「バカだね、おまえ」
「俺も、そう思うさ」
 声にはあきらめすらにじまない。綺麗な筆先は淡々と油壺へと入れられた。
 出したばかりの絵の具だけをみつめ、神楽坂はひたすらに溶く。練るというほうが適切な抵抗は、筆には向かない。取り替えるように彼はペインティングナイフを手に取った。
「それなら、おまえ」
「だからエゴイストなんだ」
「え?」
 やさしい誘惑に耳を貸してはならない。なお腕に力をいれた彼は、それでも冷静に練りつづけた。
「だから、あいつに選択させたんだろうな」
 疲れていたからだけじゃない。自分からでは、絶対に別れを選べなかったと知っていた。
 本当に恋を知らなかったかどうかなど、わかりようもない。
 けれど、俺に信じさせることだけはできなかった。それだけは事実。
「せめて好きだと、ひとこと言ってもらえてればな」
 少しは何か変わっていただろうか。不安を解き放つために触れること、それを恐れずにすむくらいにはなれただろうか。
 愛されている自信もなく抱くことができる、そんな余裕はなかった。
 抱きたくなかったわけじゃない。衝動はすぐそこにあった。
「なるほど、ね」
 懺悔を受ける者は、相手の感情の波に飲まれてはならない。ゆっくりと頷くことで、片倉は自分の心を制御した。
 目の前の男は、熟慮を重ねていまの状況を受け入れている。ならばもはや何も言ってやれることはない。むしろ何も言うべきではない。
 だが理解してなお、伝えたいことはある。
「でもおまえは、エゴイストになりきれないな」
 あたりの空気を揺らしたのは、驚愕にふるえた吐息だった。
『責めないでください』
 ここにはいない彼の相手も、それだけを望んでいる。
 だが許すのは片倉ではない。一聖でもない。断罪している神楽坂自身だ。
 ゆっくりとその哀しい存在は振り返る。
「それなら、こんな苦しんだりしてない。だろ?」
 無言で見返してきたまなざしに答えるよう、彼は静かに応じた。
 手にしたいと思ったのなら、もう一度奪えばいい。だがそれをしないのは、相手への愛情だ。
 別れを選んだのは、意志ではない。彼が彼であるために、選ばざるをえなかったのだ。
「どうだかな」
 曖昧なはずの答えは、やわらかく室内に響かされる。手にしたままのパレットの上、練り上げた絵の具は綺麗な艶を放っていた。
(最後のやさしさなんて、それすらもエゴだろう)
 冷静な認識は、彼の心に新たな矢を刺していた。だがそれは、この心優しい親友に言う必要のないものだ。十分に彼は心を癒してくれたのだ。感謝はいくらしてもしたりない。
 だからだろう。説明は終わりとばかりに、神楽坂は今度こそキャンバスへと身体を向け直した。
 吐き出しきった心に重荷はなかった。もはやシナリオに選択はない。ただエンディングロールを待つだけだ。穏やかな気持ちが、ゆっくりと彼に微笑みを浮かべさせた。
 片倉もまた、おおきく伸びをするように立ち上がった。
「なんでそんなに好きになっちゃったんだろうね」
「さあな……。きっかけはあったはずだが」
 ウインドブレーカーを羽織りなおす音が、ふたたび色を運ぶ男の耳へ伝わった。
「だが、もう忘れた」
 そんなことは、どうでもいい。彼と過ごした日々は、短くも輝いていた。
 思い起こした彼から、笑みがこぼれおちる。
「いまはただ、好きだと実感させられるだけだ」
 だからこそ、あいつを厭うた仮面を被ってみせる。いくら苦しくとも、それこそが彼への報い。
 そして ―― 好きという唯一の証。
 落とした視線の先、絵の具を掬いとったままのナイフが赤く光った。叩きつけたキャンバスにも、同じ色が濡れて光る。
 あの日と同じ、夕陽に映える情熱のカラーだ。
「赤、か……」
 あいつがナイフを差し出したなら、いっそ自分を切り刻めるというのに。
 布切れをあてがい、彼は乾きかけた絵の具を掌の中でぬぐい取った。ぐっと引き抜けば、銀に輝きを放つペインティングナイフ。それは迷うことなくキャンバスの表面へとあてがわれた。
 生乾きの絵の具に、ぐっと喰い込む感触。塗ったばかりの色は、つぎつぎに剥ぎ取られていく。
 あの百合の絵以来ずっと、この色はどこにも置き所がなかった。
「でさ。あのコが成長したら、おまえどうするワケ?」
 成長を阻む存在である自分であるから、別離を選んだと彼は語った。ならば逆にそれは、彼自身が決めた期限ともいえる。
 帰り支度をととのえた片倉は、気易い口調であえて最後の問いとして投げかけた。
 それは神楽坂の弱さを知っている彼ならではのものだったろう。
 その目の前で、相手はただひたすらに色をはがしつづける。ガリガリと乾いた絵の具すら削る音がちいさく響く。
(答えはおまえの心にだけあればいいさ)
 時を戻そうとする行為へ没頭する彼に笑いかけ、片倉は扉へと手をかけた。
 その瞬間、ナイフの動きがとまった。
「いつかあいつが『恋』を知ったなら」
 つぶやきは、画面に落とされた。ことばと息が、互いに詰まる。
「そのときには、告白できるだろう」
 前だけをを見つめながらの声は、ちいさくも毅然としていた。
 だがその目に映る、赤色のこそげ落とされた画面は、ひどく生彩を欠いている。この絵には、絶対に赤は必要なのだ。どれほど困難を極めようとも、またその先に破綻しかなくとも。
「きっと振られるだろうけどな」
 血のような赤は、手の中の布にだけ残されていた。
「つくづく ―― バカだよ、おまえ」
 ひとつ、ため息。そして振り向きながら笑った男に、親友を自認する相手もまた呆れたように笑い返した。けれど互いにその視線を交わしあえば、淋しさが増していくのを自覚するだけだ。
 はぐらかすようにキャンバスを越え巡らせた瞳は、ちょうどひとひらの花びらを捉えた。
 窓の向こう。雪の欠片のようなそれは、はらりと舞い散っていく。遅咲きの白梅だ。
「もう、冬も終わりだな……」
 二次試験はおろか、すでに卒業式すら目前だ。暖房が効いたこの部屋はすでに春。
 中途半端な猶予期間も、もはや数日を残すまでとなっていた。



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もちろん自己チュー以外、なにでもない。
だけど人には、それしか選べないときもある。




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