エピローグ・桜



 そして卒業の三月は、当然のようにやってきた。
 散り散りになるクラスメイト。涙に暮れる卒業生は、それでも出発への希望に満ちあふれた表情をしている。清々しい彼らの旅立ちは、まだ寒さの残るこの季節にこそふさわしくもあった。
 惜しむのは、同級生との別れだけではない。
 送る者と送られる者。在校生、それも部活動の仲間たちには、また異なる強い思い入れがある。同じ目標に向かって進んでいた間柄ゆえに、年齢差を越えて築かれた絆は強かった。
「ご卒業、おめでとうございます」
 校舎外へと出てくる卒業生を見送るべく、後輩らは彼らを出迎える。クラブごとに集まっての、最後の挨拶だ。誰もが昇降口から校庭へと流れていく。
 だがそんな一団から離れ、ひとり特別校舎棟へ向かう小さな背中があった。抱えているのは、大きな花束。前だけをひたすらに見つめて、その足は進んでいく。人の気配などあるはずもない凍えた廊下を抜ければ、目的地はすぐそこだった。
 馴染んでいるはずの場所、そして扉。伸ばされた手は、とまどうことなく取っ手を引く。
「なにしてるんですか?」
 中へと放った声は、そこにいる人物を予測していたがゆえだ。
「―― 一聖か」
「三年用のロッカーに。いまさら忘れ物でもないでしょう?」
「あったんだよ」
 ゆっくりと振り返った神楽坂は、あわてたそぶりもなくそのロッカーを閉めた。だがその手は何も携えていない。みつからなかったのだろうか。それにしては爽やかな表情をしている。
「髪、切ったんですね」
 顔立ちの理由は前髪の変化だろう。目を覆うほどだったそれは、跡形もなかった。すっきりと整えられた頭は、見慣れていたはずのものだ。
「……それは?」
「え、ああ」
 だが久しぶりに見た瞳は、一聖自身ではなくその腕にあったものに向けられていた。
「恥ずかしくないか?」
「今日は、別に」
 重ねての問いに、かぶりを振る。
 全国的に卒業式である今日ならば、花を持っていたところで意外ではないだろう。現にあちこちで今日は花を抱えた学生らを見かけている。
「あんたこそ。毎週そんなの持って学校通っていて、どうでした?」
 室内にはいりこみ、苦労しながら扉を閉める。そんな手の空いていない彼が顎で示したのは、既に枯れた百合だった。むろんそれは、定期的に神楽坂が運び込んだモデルである。
「恥ずかしかったです?」
「いや、どうだったか……。ああ」
 最後に持ちこんだときから、既にほぼ一ヶ月。捨てるには惜しく、かといって持ち帰る気も起きずそのまま放置しておいたものだ。むせかえるほどだった匂いも、いまではかすかにも漂わない。
 一聖の促しにあわせて視線を流せば、囚われたのは男の瞳だけでなく心もだった。つぼみから開花の瞬間まで、手元で眺めていた日々がなつかしい。
 描きあげた白百合は、まだ咲かないつぼみ。いつか大輪と咲き誇るだろうものの象徴だ。
「そうだな、幸せだった」
「花が好きなんですね」
 断言した彼を嘲ることなく、いまが盛りと花開くブーケを抱えた相手は微笑んでいた。
 彼が百合に託した意味は、決して伝えることのない想い。そしてまた、一聖の腕にある花もたぶん。ぐしゃりと抜き取れば、花瓶の枯れ茎は手のなかで崩れていった。
「あらためて。卒業、おめでとうございます」
「……ありがとう」
 祝いとともに差し出されたブーケは、先月もらった白いバラだけでつくられていた。だが受け取る手は伸ばされずにあった。
 別れの挨拶を直接言えるだけ、感謝すべきなのだろうか。髪への言及を避けるために話題をすり替えた男は、いまだ花以外に視線を注ぐ勇気を持ちきれない。とはいえそれ自体の美しさは感嘆をつかせるにあまりある。
「綺麗だな、本当に」
 自分のイメージとされたものを誉めるのは、いささかためらいもある。だが誰もが認める花のなかの花。百合と並び称される花のひとつは、あざやかにその生を誇っていた。
「ところで、この花の花言葉は?」
「前に言ってたな。確か『敬愛』だろ」
 突然の問いは、たぶんここへ来た本題。だがまだ焦るには及ばない。
「ええ。でももうひとつの意味は」
 知ってるみたいですけどね。そうして、ちいさな無言が返答を促してくる。
 もう逃げられない。あきらめたように彼は息を吐いた。それは答えまでの時間つなぎだ。花束を差し出す腕に、下げられる気配はない。
「……たぶん『私こそ、あなたにふさわしい』だと思うが」
「さすが。ええ、正解です」
 そっと流した視線は、しかし絡みあうことはなかった。
 向かい合って立つのはあの夏以来だろうか。時は思いがけず流れ、冷え切った空気のなかたちこめる油のにおいも薄い。そして彼らの服装も異なっていた。
「言われたように、オレ、周りもちゃんとみたけれど」
 そんななか、神楽坂が避けていた真の理由は、淡々とついに明かされはじめた。
「ずっとみつめていたいような人は、どこにもいなかったよ」
 変容は外見だけではない。感情をあらわにすることのない声は、成長の証なのか。
 そっと抱き寄せた花だけをみつめる瞳が、唯一むかしの名残をとどめている。
 もう恋なんてしない。とでも言うのだろうか。それとも、やり直そうとでも。
(未練だな……)
 立ちつくせば、夏とは異なる凍てついた空気が迫るのみだ。
 捨てきれない恋情を封じた男には、どちらも望むことばではなかった。
「ここへの置きみやげですか?」
 しかし一聖の口は、そのどちらでもない言葉を紡ぎはじめた。抱きしめていた花は、机へとおろされる。目立たぬように影へ置いたキャンバスへ、その目線はいつしか注がれていた。
 整然と仕切られた区画を、氾濫する色の洪水が埋め尽くしている。絶妙なバランスは神楽坂以外に持ちえない味だ。刷毛で刷り込まれた色は、どれも鮮やかに対立しながら、決して調和を崩すことはない。
 そこまでならば彼の技量として常どおりの作品だ。だがこの絵はこれまでの枠におさまりきらない。
 その理由は、ナナメに一筋。すべての境界を叩き斬るように引かれた、ただ一本の線だった。
「めずらしいですよね、これ」
 問いかけに返される声はない。言葉で作品を語るなど、男にはありえない感性だった。ただ同じく、相手が映しているだろうキャンバスを見つめているだけだ。
 鮮やかな背景のなか、なお浮き上がるライン。それはどれよりも強く、鮮烈な赤で ―― 。
 この絵こそ、あの片倉への懺悔のときに描かれていた作品だった。
 必要だった赤は、なにも置き所がなかったわけではなかった。画面を引き裂くのに、引き裂いたからこそ、生まれでた色。あふれだした血液。
 ペインティングナイフの刻んだ痕は、生命のなまなましさを如実に感じさせていた。
「タイトルは?」
「そうだな……、『L』というところか」
「Lですか? Lineの」
 見当づけられた単語は、意図するものの一部だった。Love、Life、Live、そしてLasting。それら複数の単語が、瞬時に作者の脳裏をよぎっていった。
 ひとつになど、集約できない。タイトルや描く行為を含め、絵は彼の生き様そのものだった。
 だからとなりあい対立しながらも、鮮やかさが生きる。混ざり物の色はいらない。どれほど混在して雑多にみえようとも、崩れない調和はそれ故なのだ。
「らしいですね」
 曖昧に首を傾げただけの作者に、一聖はちいさく目元をゆるめた。だがそのまなざしは、すぐに伏せられる。
 だが目を閉じてなお、赤い線はくっきりと甦ってくる。
 どれほど複雑に絡み合おうとも、主題は見失われない。こんな絵を描くのも、生み出すのもただ独りだけだった。彼の前に、世界はこれほど濁りなく在る。
「あんただけだった、そんなの」
 ぽつんと呟かれたのは、何故か過去形。思いがけない話の流れは、相手の視線を完全に一聖へと奪い取った。前髪という障壁をなくした瞳は、いまどんな色を映し出しているのだろう。
「あんただけだった」
 別れてから、気づいた。この目の前の人だけは、ずっと見ていたいと想っていたことに。
 好意を持たれていたからこそ、自然に隣にいてくれていた。だから、自分から見ていたことに、気づけなかった。その顔が自分を見なくなる瞬間まで。
「あなたのいう『好き』ということばとは、ちがうのかもしれないけど」
 彼の求めた理解とはなにか。まだその意味は、たぶんわかっていない。
 握りしめた掌が、ちいさくきしむ。けれど不安げに伏せたままだったまなざしは、確固たる意志であげられた。
「やっぱりオレは、あなたが好きだから」
 ようやく絡みつけられた視線に迷いはなかった。けれど受けてたつ男の顔は、わずかにも動かない。やつれた頬に、ただ静けさだけがたたえられている。
「だから、好きでいても ―― いいですか?」
「俺がおまえのことを好きになるとは限らない」
「それでも」
 瞬間つまったらしい喉は、それでも想いを吐き出させた。
 好きになってほしいから好きになるわけではない。もうこの感情をウソにだけはしない。
「あきらめろと言われても、あきらめられるものじゃないから」
 まっすぐな瞳は、ただひとりだけをひたすらに射抜く。どこまでも純粋に、ただひたすらに。けれどそれを受けてなお、神楽坂は微動だにしなかった。
「 ―― それなら、おまえの自由だ」
「そう言うと思ってた」
 気温より冷涼な答えは、しかしあまりに彼らしい。予測どおりのことばに一聖は破顔した。
 いつだって自分の、そして他者の自由を尊重するひとだった。こんな行動や告白も、別れすら等しく受け入れる。純粋に優しく、だからこそもっとも残酷な男。
「でも、ありがとうございます」
 くすくすとした抑えきれない笑いのなか、告げたのは心からの謝辞だった。
 彼のコメントは、突き放したものかもしれない。けれど拒絶はされなかった。それがどれだけの救いになるか、きっと当人にはわからないだろう。
『好きでいさせてくれて、ありがとう』
 二度とは言えない。一聖は心の中だけでもう一度告げた。
 本当は何も言わないで見送るつもりだった。それは彼が自分に唯一望む、あらたな道への一歩のはずだったから。彼の優しさに報いることになるなら、花にだけ秘める想いでよかった。
 けれど示された道に従う必要はない。彼はなにもかも託してくれていた。
 そう、きっとあの夏の日からずっと。
(いつか『好き』になってくれればいい)
 以前、彼の告げたそんなことばが、自らの想いと重なる。一聖は、ゆっくりとその表情をやわらかな微笑みに形づくった。
「変わったな、おまえ」
「そうですか?」
 ああ。確信を示すように頷き、ほんの少し相手はその目を細めた。なにかまぶしいものを見ているかのようだ。だがそんな視線の意味は、向けられた者にはわからない。
「見ていたいのは、あなただけだし。見てほしいのも、あなただけだから」
 もはや何も知らないころには戻れない。戻らない。決意は凛とした強い輝きを、そのまなざしに宿させる。夏より線の細くなった顔立ちは、ひどく彼を大人びてみせた。
「おまえに言いたいことばがある」
「……なんでしょうか」
「いまは、言えない。いつか……そう、いつか」
 素直になればいくらでも想いは伝えられる。そう、いまの一聖のように。
 だがそれでも告げるだけの自信が持てないことばはある。
 目の前の輝きがあまりにつよすぎて、神楽坂はわずかに視線を流した。その先にあったのは、乾きかけたキャンバス。ラインをみつめれば、自然、苦笑が浮かぶばかりだ。
 赤は血、生命。そんなエネルギーに満ちているからこそ、情熱の象徴になりうる。
 咲くことなくしおれるかと思った花は、ついに時満ちていま開いた。
「ああ、そうだ。忘れていた」
 画面から外した瞳は、ふと気づいたように一聖に微笑みかける。
「なんです?」
「言っておくがな。俺はおまえのこと、好きだぞ」
「あんたって……、信じられない」
 けれど別れたいとは ―― 確かに言われなかった気がする。
 ならばこの半年は、いったい何だったというのだろう。
 だからといって、なにが変わる訳じゃない。けれど、なにかが変わるかもしれない。
 つきあいましょうといって、はじまるばかりが、『おつきあい』ではないから。
「だろうな」
 ふふっと笑う表情は、自嘲にも似て。しかしそのまなざしは、まっすぐに一聖だけを見ている。
 なにもかも見とおしてしまいそうな瞳は、知的で鋭いが決して冷たいものではない。どこまでも深く、慈愛に満ちて優しい。
 それはずっと、彼が欲してやまないものだった。そしてずっと与えられていただろうもの。
 満たされた心に、想いがことばとなってあふれかえる。一聖はようやく自覚した、自分も彼を好きなのだと。そこには、理由も疑問も必要ない。
「疑わせたのは、俺だし」
 認識すれば、駆け上がるのが恋情。ドキドキと高鳴る心臓が、その頬を赤く染めあげる。
「だから、好きなだけ疑ってくれていいんだ」
 そんな相手をみつめる神楽坂は、あくまで真摯だった。ことばに衒いはない、むしろ自らにすら言い聞かせているかのようだ。
「うたが、う?」
「ああ」
 いつか信じてくれればいい。いや、信じさせてみせる。おまえが選んでくれた、この俺だから。
「とりあえず、これ」
「ロッカーキー? 三年用の」
「来年の春の予定だったが ―― いま開けてくれていい」
 怪訝な顔つきを見せながらも、一聖は素直にその突然のプレゼントを受け取った。カチリと、キーを廻す。使い古したイーゼルの奥。そっと秘められた大判の封筒は、あっさりと取り出された。
「芸大の案内書?」
「追いかけてくるなら、いるだろう」
「……自信家ですね」
 そして付け加えられた小さなため息。それに、神楽坂はかすかに口端をあげた。
「まさか。逆だよ」
 短い言葉に秘めた想いは、意外なほどに複雑なのか。常の彼らしさをにじませた軽い調子は、どこか苦い表情に裏切られていた。
 封印した忘れ物は、どうとでも取れる置きみやげ。薄っぺらいその冊子は、しかし絵を志す者にとってあこがれの象徴だ。そしてそれは一聖にとっても同様のはずだった。
 この場所で天性の才をみせていたのは、なにも神楽坂ひとりに限ったことではない。彼の絵を理解できる唯一の生徒、それがこの後輩なのだ。それだけで容易に推測できるだろう。
(おまえには、きっと絵だけは捨てられない)
 ともに通えれば、それもよし。だがそうでなくとも、同じ絵の道を進んでくれれば。
 エゴといわれても、彼の絵を失くしたくなかった。それは才能を惜しんでなのか、それとも。
 形すら不確かな一縷の望みは、やはり彼に託されていた。だからこそさよならだけは、神楽坂の口から言えなかった。
「まあ、ありがとうございます」
 多分に困惑しながらも、自分よりもちいさな手は大切そうにその封を閉じなおす。そんな封筒が、わずかばかり憎らしくもある。
「いいや。こっちこそ、ありがとな」
「……なにがです?」
 見上げるきょとんとした顔は、明らかに説明を請うていた。だがそんな表情を神楽坂はあっさりと笑いだけで流していく。そして彼はそのまま、置き去りにされていた白いバラを抱えあげた。手にして見つめれば、花はよりその美しさを誇ってくる。
「ああ。なんだ」
 納得したかのつぶやきには、あえて答えない。
 受け取れなかった門出の『敬愛』。それもいまならば心から嬉しいものでしかなかった。
 さよならどころか、亡くした恋まで手に入れた。真正面から見つめあえる幸せが、ここにいまある。負けたと思っていた賭けは、一聖の手によって救われたのだ。
「やっぱり似合いますね」
「サンクス。ところで、どうしてここが?」
「なんとなく」
 ふと思えば、校舎内に一聖がなぜ戻ってきているのか。
 送り出された神楽坂ら卒業生もだが、在校生とてみな既にいるはずのない建物内だ。最後の別れを惜しむ声が、耳をすませば遠くに響いている。
「まあそれ見た瞬間、ここにはいないって言われたんで」
 それというのは、花束のことだろう。これを見て神楽坂を連想する者は、部員にはきっと多い。
 だがあっさりそう告げられるのは、たぶんただ独りだ。
「片倉か」
「ええ。あの『エゴイスト』ならいないって」
「……あの野郎」
 軽くまぶたを伏せての苦笑は、けれど決して厭わしげなものではなかった。
「行くか」
「そうですね。でも、少しだけ」
 ゆっくりと伸ばされた手が、硬い学生服の背中へとまわる。花を手にしている腕は、まわし返されようもない。それでも花束越しに抱き合った身体は、かすかなぬくもりを感じさせる。
 ほころびかけた花は、一気に咲き誇っていく。

 まだ桜は固すぎるつぼみ。だが、春はもう既にはじまっていた。



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第2ボタンとか、交換させてもよかったんだけどね。
なんか似合わなかったんで、やめてみました。




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