羽根をもつ人たち 1



 天界と魔界は、意外なことに地上を挟まずして接点がある。
 当然と言えばそのとおり。なぜならその三界は、三角形の頂点である。
 それぞれに独立し、また関与しあうことによって、世界の均衡を保っているのだ ―― 。

「……おまえ、なに?」
 天界と魔界の狭間。そのなんともいえない空間の、ぎりぎり天界だろう場所を怠惰に漂っていた男は、意外なものを発見していた。
 非常にちいさく、人でいえばせいぜい2歳児。だがその背に生えるものが、人間でないことは示している。それは彼の身体にもあるもので、見慣れたものといえばそうなのだが ―― 。
「おい、そこのおまえ! おまえだよっ」
 言葉が通じないのか、いや、ただ耳でも悪いのだろうか。絶叫すれば、ふよふよと漂うそれはようやくにして反応した。
「おいら? おいらは、たしか淫魔なんだけど」
「んな、ちっせーのに? って、いや、そんなことじゃなくて」
 瞳を見開くほどに驚いた彼は、だが次の瞬間、首をひとつ横に振る。
「羽根、白くねぇ?」
 目の前にあるちいさな背には、形はコウモリ、だが色は鮮やかなほど純白の羽根が生えていた。
 翼を汚した天使ならば、いてもおかしくはない。いわゆる堕天使というだけだ。その逆は、しかしあるはずのない存在だ。
「まあ、そんなこともあるって。マスターが」
 だが驚愕している男を目の前に、幼いこどもは物怖じしなかった。
「……マスターが、ね」
 本来ならば怪しむべき存在だろうが、にぱっと笑う姿に邪気は感じられない。どこから見てもただのこども天使だ。
 となれば、翼もむしろ『色が白い』というより『形がコウモリ』というべきか。
 どちらにせよ当人が気にしていないのなら、それはさほど追究する点でもないのだろう。むしろ怪しむのはそのバックボーンだが。
「あんたは? まさか」
 上級悪魔がこんなところを独りで。つづけられた言葉に、男はちいさく嗤った。
「俺? 俺は、これさ」
 無造作に指で示されたのは、頭上。いや、その上に浮かぶリングらしい。
 そんな場所に輪っかのある生き物といえば、相場は天使。
「でも……」
「ああ、この羽根か?」
 彼の背に伸びるのは、立派な羽毛の生えた大きな一対の翼だ。十分な手入れがされているのだろうそれは、だがなぜか漆黒の艶に包まれていた。
「……堕天?」
「ちげーよ。だったらリングもないはずだろうが」
「そか。うん、そうだね」
「俺は、突然変異ってやつだ。だからほら」
 覗き込まされた瞳も、闇を映したかの色合い。魔族でもそうは持ち得ないほど、美しいブラックカラーだ。
 柔らかそうな髪の毛も同じ色で、強いて天使らしいのは抜けるように白い肌くらいかもしれない。だが、それはまた上級悪魔らしさを高めるだけである。
「きれー……」
 もともと魔族は美に敏感だ。呆然と見上げるこどもは、純粋にその美しさに魅入っているようだった。
 どうにもいたたまれないのは、その視線の先にいる男のほうである。整った外見と思われてはいるだろうが、しょせんは変わり種。疑念や侮蔑のない目で見られることには慣れていないのだ。真っ当にほめられるなど、なおさらだ。
 仕方なく、彼も相手をじっと見つめ返す。自らの持たないピュアホワイトはうらやましくも、このこどもには意外と似合いだと素直に感じられた。
 最初の悪魔は天使だったと、そんなもはや伝説じみた話を思い起こさせる。
 ぼんやりと互いを見合って、どのくらい経ったのか。ぴるぴるっと、ちいさな羽根が動いた。
「ってことは、おいらといっしょ?」
「だろうな」
 かるく答えてやれば、なお揺れ動く羽根。どうやら感情がそのまま顕れるらしい。まるで動物のしっぽだが、こどもらしい仕種である。
「つか、おまえな。俺が本当に上級悪魔だったら、その口調マズイぞ」
「あ」
 いまさらの指摘に、しゅんっと翼が縮こまる。ちょっとばかり鈍くさいのかもしれない。
 だがこの小ささでは、それも仕方のないことだろう。成人体になってなお長命を誇る天人や魔人では、この男とてまだ若すぎる部類に入るのだ。このこどもなど、むしろ赤子といったほうがよいほどである。
「で、おまえさ。なんで国境とはいえ天界側にいるわけ?」
 問題と思われる言葉遣いは、こと自分に対してだけなら重要ではない。
 幼稚さやトロさも、演技とは思えない。スパイに使うにも問題外だ。なにかの手違いでここへ紛れ込んでしまっただけなのだろう。
「え? それはマスターが」
「マスターが?」
「天使は旨いぞって」
 その言葉に、もはや驚くことはないと思っていた男もずるりとコケた。
 魔界の民に喰われた天使など、聞いたこともない。ましてやその味などは論外だ。
 だがそんなトロくさい奴らは早々に喰われた方がいいだろう。なにせ天界は魑魅魍魎の巣窟。ヘタにそこで生き恥をさらしていくより、まだ楽というものだ。
 それはむろん、同族に対してだけではない。
「あんたも、おいしそうだよねー」
 根性の曲がったものほど、狩りに現れるだろう空間の狭間。このチビにも、多少はその傾向があるのだろう。動じなさ加減からして納得はできる。
 ただしこの幼さならば、すべてマスターとやらの責任だ。庇護する義務は大人に生じる。だがこの場にその相手はいない。
「……喰われる前に、帰れ」
「へ?」
「捕まったら、終わりだぞ。天使らに」
 にぱにぱと笑う幼き相手に、仕方なく仮の保護者を買って出た男は、ため息をつきつつ天界側をみやった。
 空気の鳴動を感じる。こっそりと門が開かれたのだろう。ここにたどり着くのも、時間の問題だ。
「つか、しゃーねーなぁ」
 ちいさなコウモリ羽根では、たぶん大した速力は持たないだろう。
「え? えっと、な……うぎゃぁっ!」
「うるせぇ! でかい声で叫ぶんじゃない」
 いきなり抱き上げたのだから、悲鳴も自業自得。だが至近距離の絶叫は、男の耳に相応のダメージを与えていた。
 とりあえず二度目をされてはたまったものではない。黙り込ませてからぐるりと服の袖で抱き込めば、おおかたは隠れた。幸いにして黒色の部分はない。羽根さえ隠せばバレる可能性はかなり低いはずだ。
「頼むから、見つからないでくれよ?」
 なにもないも同然の空間。ばさりと自らの翼をはためかせると、彼は天界の門の逆側へと疾走しはじめた。
 いまほど悪目立ちする羽根に助けられたことはないだろう。色以外ならば、一級品。真剣に飛ぶならば、誰に負けることもない速度を誇る彼だ。こどもひとり抱えたところで、さほどの影響もない。
「はやーいっ!」
「だから、ちょっと黙ってろって」
 自らではありえないスピード感に対して純粋に喜んでいるらしいが、その甲高い声はいただけない。それは自分の耳に対してだけではない。
 魔族を抱え込んでいるところなど、身内に見られたくはないのだ。それもミニミニとはいえ淫魔だ。場合によっては、堕落とみなされかねない。
 だいたい悪魔を救おうということ自体が、変わっている。いくら色が白いからといっても、天界に侵入した相手に対して、本来してはならないことだ。
(だけど、まあ本当にちっちぇえしなぁ)
 すっぽりと腕におさまる存在を引き渡すのも忍びない。そもそも翼の色だけで多分に阻害されている天界に、忠誠心など存在し得ようか。
 ささやかな反逆にくすくすと笑いながら、彼はそのまま空間を飛んでいく。
「この手、気持ちいい……」
「手?」
「そう……、この手が」
 しばらくは速度ばかりに感心していたこどもは、抱き込んだ手にいつの間にかうっとりとすりついてきていた。
 目を細めてそうする仕種は、まるでネコ。まだ快、不快の感覚だけで生きるほど幼いのか、淫魔というよりむしろ愛玩動物のような雰囲気だ。
「んな、カワイイ顔すんなって」
 廻した腕の先で頭を撫でかけ、はっと男は動きをとめた。もしかして、既に淫魔の毒に当たっているのだろうか。
「……なぁに?」
「なんでもないから。あんまり声だすな」
 すりすりと掌に頬をこすりつけていた異色のこどもは、大きな目をより丸くして見上げている。
 微妙に揺れる、まなざし。不安なのかもしれない。そんな必要はないのだと、なお包み込む腕に力を入れる。伝わる感触は、どこかほわほわと頼りない。
(まあ、いいか)
 とりあえず感情のまま、頭をひと撫でしてやった。
 こどもは概して保護されるようにかわいらしい存在であるものだ。まだまだ慈しまれて、育まれていればいい。魔族に家族の概念がないとはいえ、マスターを純粋に慕う様子からして、たぶん大事にされているはずだ。
 しかし見られてまずい状況であるのに変わりはない。保護欲を刺激されたならば、なおさらに言い訳できない。
「ちょっと急ぐぞ」
 慣れないスピードは辛いかもしれないと多少控えめに飛んでいた男は、ちいさな頷きを受け、一気に空間を駆け抜けだした。
 そうして無言のまま本気で飛べば、国境などすぐ隣のようなものだ。
「あとは、マスターとやらに迎えにきてもらえ」
「え? あ、そか。あんた天使だったっけ」
 異界が接する場所には、抵抗の壁がわずかながらも存在する。その気配の変化を察し、彼はそっと腕から力を抜いた。
「ああ。だが小狡い天使はいるかも知れないからな。気をつけろ」
 本当ならば、門まで送ってやりたいくらいだ。こんな稀少な存在は天使だけではなく、魔族にとってもたぶん魅力的なはずである。
 だがここから先は、天使もまだ進入できる場所とはいえ、事実上魔界の領分。踏み込まないに越したことはない。
 それにいままで無事なのは、教育には多少問題のありそうなマスターとやらが、それなりの力を持っているからだろう。ならば余計に手出しは無用だ。
「おかしなひとだね、あんた」
「……うるせぇな」
 らしくないとは思う。天使らしさではなく、自分らしさ。自分とは、こんなに親切な性質だっただろうか。
 照れも入れば、ぶっきらぼうな言葉しか返せない。だがそれでもこどもは笑いかけてくれるのだ。やはり翼のかたちを間違えて生まれてきたのではないだろうか。
「でも、ありがと。またねー!」
 それでもその住みかは、確かにあちらの世界なのだろう。
 まずは小さな手をひと振り。パタパタと羽根をひらめかせながら、だが身体はふよふよとしか表現できない雰囲気でこどもは奥へと消えていく。
 あんな速度では、確実に捕まっている。判断の正しさを認識する一瞬だった。
「おかしいのは、どっちだよ……」
 あの異端さで損なわれないこどもらしさは、なんだというのか。
 なんとなく疲れながらも、だがめずらしい経験に微笑みが消せない。やわらかな感触に心温まったのは、事実なのだ。
 黒翼の天使は、どこか軽い気持ちで元の場所へと飛んでいくのだった。



>>> 1.5


気が向いたので、書いてみた魔天ネタ。ちなみにキャラはXXの面子。




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