羽根をもつ人たち 1.5



 魔界の入り口まで、すばらしい速さで送り届けられたこどもが、自力でふよふよと帰り着いたころ。各所を見回りに行っていたはずのマスターは既に戻ってきていた。
「ねえ、マスター?」
「ん? どうしたんだい」
 悪魔らしく笑顔の巧みな彼は、ひらりとまとわりつくこどもにとりあえずその表情を向ける。そのまま使っていた二対の翼をたたみ込んで座れば、話を聞く体勢をとったことがわかったのだろう。にっこりとちいさな淫魔は、その素性らしからぬ無邪気な笑みを浮かべた。
「きょうは、おもしろい天使に逢ったよ」
「天使? ああ、また抜け出していたもんねぇ」
「あ……っ」
 ぱっと両手でその口を覆い隠すが、既に遅すぎる。ぴるぴると震えるとんがりシッポ。怯えるのも当然だ。言いつけを破ってあの狭間に行っていたことを自らで暴露してしまったのだ。
 だが男は『抜け出していた』と確定的な言葉を使っている。既にバレていたということだ。そこに気づかないのは、立派すぎる間の抜け方というべきだろうか。
「まあ、それはいいから。どんな天使だったの?」
 好奇心が強いのは、悪魔であれば当然のこと。それはこのこどもだけに限ったものではない。
 だからだろう。教育的指導より先に、彼の口にはそんな問いがのぼっていた。
「えっと。マスターと同じくらいの年でね、まず、口が悪い」
 促しに、ちいさな白いコウモリ羽根が揺れた。指折り数えるようにして、すこし高めの声がかの天使について話しだす。
「でも、顔がよくって、からだつきがいい。っていうか、イイ身体っ」
「ちっちゃくても淫魔だねぇ」
「きっとマスターだって、そう思うよっ! でね、背中の翼がすごく大きいんだよ」
 舌ったらずな口調で一生懸命にまくしたてる姿は、どうにもかわいらしい。身振り手振りを含めてぱたぱたと動けばなおさらだ。話半分、ふんふんと聞き流す。
 天使に逢ったというが、この分なら見かけただけなのだろう。もし相対しているのならば、そもそもここに還ってこれているはずがない。
 そんなマスターの様子は、だがどうやらこどもにはまったく伝わらないようだ。
「でね、でね」
「うん、それで?」
「極めつけは、なぜかそれ、黒いの!」
「堕天?」
「ちがうんだってー。突然変異だって、そう言ってた」
 告げられた言葉に、男は笑みに細めていた目を一気に見開いた。
「そう言ってた、って」
「うん。それにリングもあったし」
 質問の意図はただしく受けとめられなかったようだ。だが新たな情報はより危険性を訴える。天使といえば、白い翼に金の輪っか。そこから外れた存在が、なぜこの同類のようでまったく異端であろう白い淫魔に関わってきたのか。
「でもおいら、てっきり上級悪魔かと思っちゃった」
「黒翼の……」
「うん。あと髪も目も、綺麗な黒色だったよっ」
 はしゃいだ口調は、きっと相手も喜んでくれるだろうという想いに満ちあふれている。
 なにせこんな不思議な淫魔といっしょに過ごすマスターだ。自分同様に本来の色と異なる存在の話ならば、関心も強いだろう。
「本当に、おいらみたいな色違いって、天界にもいるんだねー」
 楽しげに見上げた顔は、微妙に崩れた。返されるはずのやさしい笑みがそこになかったからだ。
「マスター?」
 だが再度の呼び声に気づかない男ではない。望みのままの表情を向け、そしてちょっと跳ねた柔らかい髪越しに頭を撫でる。たったそれだけで機嫌は回復だ。
「よくあんなところで天使に逢って、還ってこれたね」
「送ってもらった!」
「……その黒翼の天使に?」
 うん。元気さを取り戻したうなずきに、とりあえずもう一度撫でてやる。笑みも絶やさない。だがその瞳はますます探求の度合を深めている。
「他の天使に見えないようにって、だっこしてもらったよー」
「見えないように?」
「うん。危ないんだって、あのあたりの天使」
 その判断はまったくをもって正しい。あんな狭間にいる天使は、マトモじゃない。なにかしらはみ出している。
 そう、純粋に狩りを愉しむような ―― 。
 天界に踏み込んだ悪魔など公明正大に狩れる。それもこんな小悪魔未満など、いいオモチャだろう。
(なのに、なぜ?)
 不可解な行動は、なおさら疑念を呼ぶ。その相手は、一味ではないということだろうか。ただそこを通りかかっただけの、普通の天使。だが天使と悪魔は、対立しなければならない。そう認識されているはずだ。
「その相手の羽根って、何枚だった?」
「えっと、二枚。一対だけだよ」
 不思議そうに目を見開いた子供は、なんの疑念も抱いていないようだ。
 しかしマスターと呼ばれた男は、よりその不審の色を強めた。
 悪魔を助けるなど、天界でも上級のものでなければあり得ない行動だからだ。しかし一対の羽根といえば、普通ランクの者。なぜそんな天使ごときが、真理を知るかのように動いたのか。
 片一方を欠いては成り立たない関係であるからこそ、小競り合いを起こさせる。決してどちらかに力を偏らせないためにだ。
 共生できないからこそ、選ばれたその手段。そうして保たれる三界のバランスは、創られた自然。

 そう、《すべてを知る者》だけが、創れるはずの ―― 。

「マスター? どうしたの?」
 見上げてくるこどもは、不安でいっぱいなのか瞳を潤ませている。たぶん言いつけを破ったことが負い目になって、普段よりこちらの反応に対して敏感になっているのだろう。
 だが怯えさせるための命令ではない。それはこのこどもを護るためのものだ。
「なんでもないよ。いい天使でよかったね」
「……うん」
 歯切れの悪い返事は、だがぽんぽんと背中を叩いてやることで笑みへと変わる。まだまだ幼い、本当に幼い者なのだ。
「でも安全な相手ばっかじゃないから。気をつけるんだよ」
「はーい」
「絶対に天使にはひとりで逢わないんだよ!」
 好奇心が旺盛な年頃というにも早すぎるが、もともと魔界の者は娯楽を欲する体質だ。
 遊びに行くなとは言わない。だが、だからこそ厳しい言葉は忘れない。
「でも、おいしそうだったな……」
「まだ天使を食べるには、早いでしょ。っていうか、他の淫魔に喰われそうなくせに」
 親の心、子知らずというか。ぼんやりと思い出し笑いをするこどもは、その淫魔の血脈を幼さのなかに感じさせる。
「えー。だってぇ」
「甘えてもダーメ。俺には効かないよ?」
 幼いこども相手に欲情する趣味はない。そもそもマスターに魅了の術は通じないはずだ。
 それでも厳しくなれないのは、それなりにつきあいのある庇護者ゆえのものだろう。
「はいはい、もう寝ようね。無駄にエネルギー使うと、成長しないよ?」
「え! うん、早く眠るーっ」
 遅い成長がコンプレックスになっているのだろう。かるく手で追い払うと、ふよふよとしか表せない動きで、白い羽根に支えられた身体は屋敷の奥へと消えていった。
「それにしても抱え込んだだけで、成長させるとはねぇ」
 感嘆の呟きは、誰に向けてのものでもなかった。
 あの本人は気づいていないようだったが、少なくともいまのこどもは三歳児以上の体格をしている。むろん小さいことには変わりない。だがたった一日みないだけで、ありえることだろうか。
 そもそも淫魔の成長は、十分な食餌にある。しかしその食餌とは、他者の精気。
 実際に性交渉があったならばともかく、軽く触れただけというならばいったいどれほど濃いエネルギーだったのだろう。よほどこのこどもに欲情していたか、それとも元々の〈気〉が強い体質なのか。単に吸われやすい系統だったのか。
 一対だけの黒翼という点を除いても、かなり気になる相手である。
「今度、ご挨拶に行かなきゃね」
 遠く天界を眺める目つきは、しっかり細められている。だがにっこりと囁かれた声は、どこか底冷えするおそろしさを含んでいた。



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閑話休題的な話。
誰がだれなのか、もうわかりましたよね?



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