AIKAWARAZU-NA-BOKURA ・ 2



 新緑のあざやかなシーズン。
 グリーンロードと名づけられた学内のメインストリートは、いまが最も美しいかもしれない。
 午後のまぶしい陽射しは、柔らかな木漏れ日となり路上へと降りそそぎ、並木を抜ける風は、さわやかな香りで人々の身体を洗っていく。
 白いシャツをひらめかせた長身の男が、ひとりそこで空を仰いでいた。
 ちいさなカバンひとつを携えた軽装は、学生らしからぬ姿でもある。だが彼は昨年もこうしてここにたたずんでいた。
 ひさしぶりにある光景。同じ通路を進む誰もが、瞬間その目を奪われる。それはあたかも映画のワンシーンのようでもあった。
「なんにも変わってねぇなあ……」
 ゆらりと歩きはじめた彼は、吐息だけでそう呟く。だが感慨深そうな顔は、光のなかで一瞬にして笑み崩れた。
「半年経ってなきゃ、当然か」
 相変わらず開放的な構内は、学生でなくとも紛れ込める。それは卒業生ならば、なおさらだ。とまどうことなく進む足取りは、光と風のハーモニーを愉しみつつ、学部棟の間から裏手のクラブハウスへと向かっていく。
 名も知らぬ後輩たちが、その傍らを早足で駆け抜けていった。サークル活動など、一、二年生が中心のものだ。はつらつとした声は、やはりこの季節に似つかわしい。
 ほほえましく眺めれば、目的地にはすぐにたどり着いた。学生以外には、さすがに無縁だろう周辺は、共通教育の講義がほとんどない、水曜午後ならではのにぎわいに満ちている。
 そんな中をすりぬけて、彼は一つのドアノブを握った。
 しばらくは足の遠のいていた場所、だが慣れた扉は今日も立てつけが悪い。
「お邪魔しまーす……、と」
 気軽な口調で覗き込んだ顔は、一瞬にしてひきつった。
「ほら出さないと、ほら。3,2,……」
「出しますー! さっさとほら、おまえも出せ、出してくれっ」
 カウントダウンをしている者は、よく見知った人間だ。
 仲間内での、原稿のせっつき合いなのだろう。だがその周りを遠巻きに囲む顔は、どれも血の気が引いている。
「すぐ出しますっ。だから待ってくださいー!」
 一番遅れていた者なのだろう。半泣きで救済を求める姿は、かなり哀れでもある。
 所詮ここでは外界の清々しさなどかりそめの安らぎにもならない。ただ眺めるしかない者は、改めてそれを認識させられていた。
「あら、ひさしぶりね」
 脱力したことによって、ようやく気配を察したのか。あきらめたように状況を見守っていたひとりが、室内から視線をふいに流してきた。
「……よう」
「頑張ってくれてるわよ、彼」
 大学院に進むならと、かわらず部長として君臨する彼女だ。めずらしく歓迎の意を示すその微笑みに、軽く片手をあげて挨拶をしてみせる。途端、その表情はいたずらめいて一変した。
「それにしてもあんた、ずいぶん余裕そうじゃない。間に合うわけ?」
「んー? いつから詰めりゃいいかくらい、わかってるよ」
 すこしばかりの嫌みも、ご愛敬。互いに慣れた応酬をする合間に、彼はするりと奥へと入り込んで、相手のほど近くにあった一脚へと座った。
 懐かしい一脚。即座にあがる軋みも部屋の雰囲気も、やはりまだ変わってはいない。
 結局、四年次の秋祭まで編集をしていたのだ。振り返るには早すぎるのだろう。
 ふっとちいさく笑うと、彼はぐるりと視線を巡らせた。
「今日はラフと、進行状況が把握できれば十分さ」
 まだまだ多いはずの顔見知り。だがいまだに誰もこちらに気を払う余裕はないらしい。それは輪の中心の人間も同様だ。
「進行状況、ねえ……」
「間に合うさ、この調子なら」
 部長としては二期目になる彼女だが、よほど頭が痛いのだろう。トントンと机を弾く指先。あたりを窺った瞳は、深いため息とともにそっと伏せられていた。
 だがこの時期、誰がトップであろうと所詮は変わらぬ惨状だ。
「間に合わせてみせる」
 力づけるように言葉を重ねれば、ようやく相手は顔を苦笑ながらほころばせた。
「ただし邪魔されないなら、だけどな」
「要するにあんたらに任せればいいんでしょ?」
 真面目に語るのも照れくさい。それはふたりに共通する意識だったのだろう。冗談めかせば、すぐに会話は気軽く流れていく。
「……まあ、『ら』は余計かもしれないがな」
 複数に含まれていたのは、再びカウントダウンをはじめた横暴な三年のことだろう。本年の栄えある編集担当は、どうやらその彼であるらしい。
「どうだか。必要じゃないの?」
 意図の読みにくいコメントを苦笑で見送れば、その間にもカウントは1に達する。そして彼らふたりはあわてて同じ体勢を取った。
 だがとりあえず脅しは実行されないようだった。
 周囲が胸をなでおろしている様子は、なかなかに同情を誘うものがある。ふたりもまた、避難態勢を解除する。そうしてため息を交わしあえば、苦笑だけが互いの顔に残る。
「と、そういえば」
「なに?」
 部長の微笑みは消えない。だが突如として改まると、相対する男はすっと真顔になった。そして、そのまま頭を丁寧にさげる。
「編集の外注、ありがとうございます」
 これこそが、懐かしいこの場所を彼が訪れた理由、他ならなかった。
 ゆっくりと戻した顔には、かぶらない前髪。以前より数段短くされたそれもまた、社会人としての自覚を感じさせる。
 それにあわせて、意外なさわやかさも演出していることに、彼は気づいているのだろうか。
「……殊勝なあんたなんか、気持ち悪いわよ」
 多少の照れはあるようだが、相手は四年も同じ部員として過ごしてきた彼女だ。思いきり肩をすくめて、けんもほろろに言い放ってくる。
「あんたに頼んだほうが、安上がりなのよ。きっちり仕上がるし」
 だが多少の照れはあるようだ。早口にまくしたてると、彼女はふいっと視線を逸らした。
 とはいえ、そのコメントも本心なのだろう。
 依頼しているのは、たいせつな作品を収める部誌だ。よい作品を書くために、ぎりぎりまで猶予を与えたいのが、部長としての考え。だが締め切りに遅れれば印刷代金は跳ね上がる。限りある資金を有用に遣っていくのも、またその立場にある者の仕事なのだ。
 そして冊子自体も、毎年積み重ねていく大事な記録。不慣れゆえに不器用な後輩らに編集を任せて、出来が落ちるのも許しがたい。
 同じく四年をここで過ごした男にとって、その心情はあまりにもわかりやすかった。
 とはいえ、いつまでも逸らされたままの顔は、ほのかに赤い。つい苦笑が漏れてしまうのも、致し方のないことだったろう。
「なによ!」
「いや? 別に」
 癇に障ったのか、一気にその頬はなお色濃く染まる。はぐらかすように返して、とりあえず視線をいまだつづいていた騒動へと投げた。
 つられたように動く、相手の瞳。それは瞬時に部長としてのまなざしになっている。
「せいぜい、がんばらせてもらうさ」
 互いに与えられた役割は、果たさなければならない。そして、果たしたいと感じている。
 だが部内事情だけで依頼されたわけでもないことも、決意あふれる横顔を窺う男は気づいていた。独立起業した彼に仕事を廻そうという意図もあるのだろう。
「……来年もお願いするかもしれないわ」
「そりゃ、なおさら頑張らないとな」
 ことばで告げるだけでは、伝わらない。だから感謝は仕上がりで示せばいい。
 視線を同じ集団へ注いだまま告げたことばは、だが同じ想いをもつ相手だ。確かに受けとめられただろう。
「もちろん、出来次第だけど」
「当然!」
 ようやく交わした視線は、それでもビジネスだけではない色合いに満ちている。互いに、そして部員にとってもたいせつなこの場所。そしてその作品集。託し、託される連携は、信頼ゆえだ。
 ならばあとは ―― この一瞬に全力を費やそう。
 強い想いは、彼の身体をぐっと立ち上がらせた。
「おーい。ちゃんとやってるかぁ?」
 身体をひるがえして、まずはようやく安全を確保したらしい一団へ声を投げる。一斉に注がれるまなざし、そして安堵の吐息。つづいて弾けるような笑顔が飛ばされる。
「あ、せんぱいっ!」
 ここでしか聞くことのない懐かしい呼び名が、聞き慣れた声で叫ばれた。
「今年の草稿。もうだいぶ集まってますよー」
「おう。優秀だな」
 ようやく存在に気づいたような今年の編集役は、くたばった部員をよそにこちらへ紙の束をかざしてみせる。そのプリント用紙こそが、努力と、そして恐怖による冷や汗の結晶だ。
(まったく、末おそろしい後輩どもだぜ)
 同意を求めるように、彼は苦笑しながら背後の同窓生へと肩越しの視線を流す。
 だがもはや編集に関しては、委ねきった内容なのだろう。彼女は机上に置かれたモニタにだけ、まっすぐ向き直っていた。


 慌ただしく流れた時は、暑さとともに緑の木々をはっきりと色づかせている。無人にほどちかい昼すぎのクラブハウスの一室。窓越しに差し込む陽射しは鋭く、そして肌をチリチリと焼いていく。
 そんな五月下旬。彼の指定した日は確実に訪れ、そして既に過ぎ去っていた。
「で、誰が手伝うって?」
 刺々しさは、狭い空間を貫いていく。そんな氷のような声の主は、むろんあの請負人である男だ。
 伸びかけた前髪の隙間、照り返しで見づらいだろうモニタを睨みつける。真新しい液晶にはほぼ処理を完了したデータが、つづけざまにスクロールされていた。
 仕上がりが『ほぼ』である原因は、ただひとつ。
「まさか取り立てばかりしてて、書いてないとは思わなかったぜ」
「うう、ごめんなさいー」
 カチカチとマウスを鳴らしながら、彼はチラリと口元を皮肉げにゆがめてそれを見やる。
 途端にあがる謝罪の声。だがそうして跳ね上げられた顔は、顎をしゃくることで即座に元へと戻させた。
 相手の手元には、数枚の用紙。プリントアウトしたそれらを見直しているのは、取り立て役をしていたはずの彼であった。
「まったく、頭が痛いよ」
 編集作業は意外に繊細なものだ。立ったまま作業しているせいもあるのだろう、手袋をはめた指は焦る心に反して時おりミスタッチを生み出している。そして、日常ではめっきりかけなくなったメガネを何度もかけ直す姿は、疲労の色を感じさせる。
「ごめんなさい……」
 そんな彼の耳をかすかな声が打った。作業中、室内に余分な人間はおかない主義だ。相手は決まり切っている。
 こっそり窺うように視線だけを滑らせれば、パラリと紙をめくる仕種。さすがに目線だけは紙面に向いているが、その速度はいただけないものになっている。
 傾きかけた太陽は、徐々に室内へ長く差し込みはじめている。その光は薄赤い色味を帯びていた。時間はまぎれもなく迫っている。そっと壁の時計を窺った彼は、だがひとつ深呼吸をすると椅子へと腰を下ろした。
「ま、おまえがすげえ手段で取り立ててくれたから? こうして待っててやれるんだがな」
 わざわざ萎縮した姿をみたい者はいないだろう。淡々とした声には、笑いの色。けれど固まりかけた背中を反らせば、身体の痛みを示すかのように合わせて椅子が軋んだ。
 ことばにした内容は事実だ。他は仕上がっている。あとは残されたひとつの小説を待てばいい。
 しばらくは休養ということだろうか、彼はメガネを取りその瞼を伏せた。
「……あ、れ?」
「どうした? なんか問題ありそうなのか?」
 いったん閉じてしまえば、よほど疲れていたのだろう。端正ゆえに造り物めいてみえる貌は、唇だけを動かしている。
「ううん、大丈夫そう。このまま印刷出せるよー」
 どうやら疑問は、原稿に関してではなかったらしい。安堵から机へとへたりこんだらしい音が、男の鼓膜を通じて脳へと認識された。張っていた気が抜けたのだろう。
 だが実のところ、正念場はここからだ。
 完成したと示されるデータは、すでに編集用PCへと移されている。ただ形式を変更して、所定ページへと配置する必要がある。時間を弾けば、そろそろ限界だろう。
 疲れを自覚した身体は動くことを拒否している。だがここで手を抜くことは、自分に対しても許せない。
 全身のバネを使うように飛び起きると、彼はスクリーンセーバーが起動したモニタへと向かった。
「じゃあ、これでいくぞ」
 マウス操作に支障はないのか。よどみのない手つきは作業を着実に、そして迅速にこなしていく。
 形式変更、追記、完成させたファイルの検証。疲れ果てた相棒をねぎらうのは後回しに、PC内部で体裁を整えれば、もはやデータは印刷所に任せるばかり。
 時間を確認するまでもない。入稿までのカウントダウンは、既にはじまっている。
「ったく、ネットでできりゃラクなのによ」
 追い込みのテンションは、その口調をなおさらラフなものにする。送付用のメディアを取り出しセットする手つきも、少々荒っぽい。
 間に合うかどうかは、このPC次第。いつの間にか購入されていたその最新機種に賭け、彼はCD-RWへの書き込みを開始した。
 そうしてHDがうなりはじめたならば、もはや人事を尽くしたふたりにできることはない。とはいえここで座っては、もはや動き出す気力は失せてしまう。発送して、ようやく安心できるのだ。
 ならばこの待機時間は、せいぜい愉しく過ごしたい。
「まったく。ホントあの脅しはすごかったぜぇ?」
 ニヤニヤと品なく笑いながら、男は相手の伏せた頭を見下ろしている。どうやら外見に似合わぬ嫌がらせを思いついたらしい。
 結局はフルで編集作業をさせられたのだ。その程度の意趣返しは当然かも知れない。
「うまく自分の技で脅し取ってくれたもんだ」
「……なんでバレてるんだろ」
 さっきも疑問に感じたけど。つけくわえながら起こされた顔は、どこか苦虫をかみつぶしたような表情をしている。
 どうやら原稿チェック中のおかしな声は、そのせいだったようだ。
「知ってたさ。でもがんばったのは確かだろ」
 思いどおりの反応に、内心でほくそ笑みながらねぎらいも向ける。
「歌のときより、声でてたんじゃないか?」
 今回の取り立てにおいては、実際に叫んだ瞬間など一度たりとも聞いていない。
 だがカマをかければ、一気にそまった頬。聞くまでもなく、実状は明かされたようなものだ。どれだけの被害が出たかは気になるところだが、それにより回収が早くできたのも真実。
(さあ、あとは間に合うか……だが)
 ぶちぶちとぼやく姿を愉しみつつしばらくからかっていれば、PCの進化も相当なものだった。書き込みは数年前とは比較にならない早さで仕上がり、焼き上がったCD-RWがハードから吐き出される。
 軽く検証がわりにデータを開き、確認ののちにファイルを閉じる。ケースに戻して手早くそれごと包み込めば、あとは発注書とともに送るだけだ。
「さて、出来たぞ。出してこい、速達でな」
 改めて時計を眺めれば、最終回収時刻まではあとすこし。美しいほどに濃い夕焼けは、まだ夜までの余裕を感じさせる色合いだ。
「料金不足、やるなよ。戻ってきちまうから」
「うんっ」
 今期の編集代表部員、本日最初で最後の作業である。閉じ入れた封筒には、読みやすいが少し右上がりな字で既に宛名まで書いてあった。
 託された後輩は、一昨年と去年の男と同じく、夕焼けのなか一直線に駆けだしていく。
「あいつの写真だけが、欠けたな」
 見送るように入り口に立つ男の眼は、鮮やかな夕焼けのせいか、ひどく眇められていた。


 構内にある郵便局までは、たかが知れているとはいえ意外に距離があった。往きにはまだ窺えた、夕陽と対色をなす木々の緑は、しかし帰り道にはすべて影となって映る。
 それだけの道のりだ、片道を走りきった足は疲れもあって多少もつれがちになっている。しかしそれでも、その浮かれた調子は隠しようがなかった。
 余裕で預けることのできたCD-RWには、満足のいく作品。あとは本として仕上がってくるのを待つばかりだ。
「でも、ちょっとマズかったかな……」
 唯一ある心残りは、詰めの編集作業を任せきりにしたことだ。
 限りなく朱に染まった天球の下。彼は疲労困憊しているだろう相手を想いながら、その元へと走り出すのだった。
 人の気配が減りかけたクラブハウス前。まずは深呼吸で切れた息を整えた。
 静かに開けることにも慣れた、サークルの扉。立てつけの悪いそれは、音を立てず開けられてはじめて一人前になったと認められるものだ。
「ただいまー……って、寝てる?」
 もしかして。そう思いつつ押し開けたそこから覗き込めば、赤くやわらかな光に照らされた先。彼は静かに机上へとその身を伏せていた。
「寝てるなぁ、完璧に」
 そっと近づいて間近から覗き込んだ瞼は、突然落ちた影にもぴくりとも反応しない。ため息に対しても、しかり。
 ありそうでなかった好機に、つい微笑みが漏れた。そしてひらめきも。
 深すぎて、呼吸が止まっているかと思わせる相手の横へ、パイプ椅子を静かに寄せる。まずは自らの頬で息の確認。それから、当分は起きそうもない寝顔をまじまじと観察しはじめる。
 入稿も済んで墜ちた眠りだ。もうすこし安らいでいてもよさそうなものだが、眉間はしかめられたままで顔色も悪い。かろうじてメガネは外されていたが、開け放たれた首もとでしわの寄ったシャツは、その疲弊ぶりをあらわしているようだ。
 なおかつ、外すことさえ忘れられた手袋。だがその違和感に気づきながらも、取り去る腕は伸ばされなかった。
 うすく血がにじんだ爪先には、キータッチでつくった傷。だが人差し指の付け根にあるしみは。
「ありがとね……」
 そのたった一言だけを真摯に告げながら、そっと傷痕へと指を伸ばした。
 シャイな相手だ、手の傷を含めて努力への謝辞など、絶対に欲しない。眠っているからこそ、告げられる。口にすることは、なかなかに叶わない感謝のことば。だが伝えたいのは、本心だから。
 そうして彼は、触れるか触れないかの距離で、しばし指を絡めていた。
 だが徐々に暗くなる室内。時間はいまなお流れつづけている。
「さてと。どうしようかな」
 こぼれた声は、思いがけず困惑の色を帯びていた。
 帰途に着かせるには、あまりに体力を消耗していそうな相手だ。とはいえここで眠らせるより、一度起こしてでももっと寝やすい場所へ移動させた方がいい。幸いにして、この部室の奥には畳をひいただけだが簡易和室がある。ほんのすこし起きてもらうだけで済む。
 理性はそう思うのだが、寝不足なのは彼とても同じこと。
 困惑しながら時計を見上げた瞬間、絡ませた指がいきなり強くつかまれた。
 熱っぽい掌。そっと身を寄せれば、なおさらに温もりはつたわってくる。それは汗が冷えかけた肌に、あまりにも心地よかった。
 そして、しかめた眉がほのかにゆるむ気配。どうやら相手も同じ想いらしい。
 張りつめていた気は、もう必要がない。気づけば、あくびがひとつ。
 丸まるふたつの影を照らす残照は、徐々に勢力を失っていく。五限終了のチャイムも鳴れば、新たな宵闇はすぐそこまで降りてきていた。
 星もまたたきかけた空のもと。人の気配がほとんど消えた構内では、クラブハウスの灯りはやはり目立つ。
 閉館した中央図書館から、学部へと戻りかけていた足。だが校舎棟の隙間からみえたその光に、引き寄せられたのだろうか。ひとりの女性は、早足で向きを変えて歩きだしていた。
「まさか、間に合わなかったのかしら?」
 ちかづけば煌々と輝く部屋は、予想どおりの窓だ。裏手へ廻り込み、その扉をいきおいよく開ける。焦る心をあらわすように、ガタンと激しい音が鳴る。
 そうして不安もあらわに室内を覗き込めば、ひそめられていた柳眉はもとの形を取り戻した。
「……間に合った、みたいね」
 確認するまでもなく仕事は終わっているだろう。
 ほっと吐息をつけば、無意味に焦らされたことだけが腹立たしい。院生になっても苦労性が治らないのだろう、駆けつけた部長はとりあえず発注先の男の頭を一睨みした。だがそんな怒りなど、しあわせそうに眠る相手に対して、長くはつづけられない。あまつさえ仔猫のようにくっつきあっている姿など、どうして微笑まずにいられようか。
「すこしはこれ、役に立ったの?」
 口調だけはまだ怒ったふりで目線を流したのは、一台のPC。使われた形跡は、キーボードに歴然と残されている。現在は画面すら消されているそれは、彼の卒業後にようやく購入できた最新型だ。
 この男と同レベルに作業ができなければ、きっと無用の長物になる。いまさらだと思いつつも発注したのは、彼女の一存だった。
「来年も……、頼んでいいのかしらね」
 修士課程でやめるにしても、あと一年は部長職。権限は彼女にある。けれど見下ろす目線は、わずかに疑問の色を宿している。
「このコいなくても、受けてくれる?」
 そっと滑らせた視線は、すぐに元の男の顔へと戻る。
 だが問いかけに答える声はない。深い寝息が奏でるハーモニーだけが、室内に響くばかりだ。
「出来上がり次第だったわね」
 期待してるわよ。キーに残る血の痕をそっとふき取ると、彼女は電気を消して夜へとでていった。
 その扉が閉められた空気の流れが、意識を浮上させたのだろう。語りかけられていた男は、遅ればせながらその眼を薄く開いた。
 だが身体はたやすく動かなかったようだ。抜けない疲れのせいかと首だけをめぐらせれば、かたわらに寄りかかるようにして眠る頭がある。茶色のふわふわとしたネコっ毛は見慣れたものだった。
 そのまま壁の時計を見れば、すでにこの相手を帰すには遅すぎる時間。
「いまさら帰るのもな」
 ひとときの眠りが癒しになったとはいえ、まだ動き出すには億劫だ。
 どうせそれほどの時間はない。いまはまだ夜ゆえの眠り。だが腕のなかのぬくもりは、あまりに手放しがたいというのに、きっと講義がはじまれば行ってしまう。
(それまでは、せめて恋人として)
 この眠りを守りたい ―― 。
 身動きしたせいでか、相手はすでに呼吸を浅くしている。崩れた体制を戻し、そっと寄りかかり直させれば、その顔はほのかに微笑みを浮かべたようだ。
 ともに成し遂げたという充足感とあわせ、いとしさが全身を駆けめぐる。
「お疲れさん」
 肩に乗せた頭を覗き込み、髪の先にキスを贈る。絡められた指先はそのまま。かるく腰を抱きとめるように逆の腕まわせば、伝わる重みはひどく心地がよい。その穏やかな感触に、ひとつだけ深呼吸をすると、彼もまた静かにまぶたをおろした。
 だが残された短い恋人同士の時間は瞬く間に過ぎていく。
 互いの目覚めは遠いままに、明け方はやってくる。まだ空さえ白まぬうちから奏でられる、小鳥のさえずり。誰かが散歩でもしているのか、嬉しげな犬の鳴き声。夏に向けて長くなる陽ならば、もうすぐその姿を室内にまでもたらすことだろう。
 抱きとめられたまま眠る者の覚醒は、そんな朝の陽射しがゆるやかに導きだした。だが徐々に強さを増すまぶしさに、瞳は開くことができない。ゆっくりとそれでも起こしかけた身体は、動きを中途で阻まれた。
「えっと、なんでだっけ?」
 つないだ指には記憶がある。だが支えるように腰にまわされた腕は、身に覚えのないものだ。公共の空間で、陽射しもすでに浴びる時刻。寝起きの頭は認識よりさきに混乱を弾きだした。
 逃れるようにみじろぐが、がっちりと抱きとめられた身体は離れない。なおさらに暴れれば、当然のことだろう。くっついていた男の瞳は、いきなり大きく開かれた。
 ひとつ、ふたつ。まばたきをすれば、一気に完全覚醒へと至ったのだろう。滑らせた視線は、状況を正しく認識していく。そこから編み出された対応策なのだろう。
「おはよう」
 彼は短くだが、いまだ目を閉じたままの相手へ、自らの起床を知らしめた。寝起きの声は、掠れたように低い。驚くように跳ねた感覚を腕に得れば、確信はひとまわり深まった。
 誰か来るのではと焦っているのだろう。だが時計の針はいまだ早すぎる時間を示している。
「おはよう」
「オハヨウゴザイマス……。あ、あの」
 重ねて声をかければ、惚けたように返される挨拶。そして、つづかないコメントは、無理にはがそうとする身体のよじりによって示された。だがそれは苦笑いを浮かべさせるに十分な代物だ。
「おい」
 そっと見下ろす表情は、その印象を無音のうちに変化させていく。細められたまなざし、そして片端だけつり上げられた口元。そうして唇は、ゆっくりと開かれた。
「起きるなら手を離してくれよ?」
「……あ!」
 そうしてようやく目を開き、ことばの意味を理解した恋人の様子は、よほどおもしろかったのか。寝苦しい体勢でいまだ疲れているだろう男がゲラゲラと笑う姿は、朝日のなかでなぜかすがすがしく輝いている。
 つながれた手がほどかれるには、まだしばらくの時間がかかりそうだった。


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ということで、日常は根性でつづいていくのです(笑)
翔の指のケガについては、『Living!』があがったら…。
しかし1と微妙にテンションが違うのは、なぜ?




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