AIKAWARAZU-NA-BOKURA



 まだ春とは名ばかりの二月。大学校内は、後期試験まっただ中である。
 四年次にある翔にとっては最後となる、今回の考査。だが卒業の懸かったこの時期まで、専門科目以外に必須単位を残している人間などそうはいない。それは滅多に学内でお目にかかることのなかったこの男にも、なぜか意外と当てはまる。
 受ける試験もロクにない。そして卒論も既に提出済みで、あとは口頭試問だけという現状。ならばほとんど大学になど来る価値もない ―― はずなのだが。
「で?」
「なんだよ、現部長さん」
 飄々とモニターに向かう姿は、なぜかこれまで以上に部室にあった。
「どうしてあんたはココに、毎日来るわけ?」
 いまなお部長職にある女性は、ひきつった笑いとともにこめかみへ青筋を浮かべていた。
 ちなみに同級生である彼女は大学院に残ることを決めているので、このあたりにいることに何ら疑問はない。
「あんた卒業できるんでしょ?」
「たぶん。いや、でもココでなら自分のPC痛めずに済むから……」
「ウチのPC、壊してかないでよ!」
「キーボードカバーは持参です」
 ぴらっと剥がしてみせて、キーを繰っていた男は得意げに笑う。純粋に楽しげな表情。それには、四年来の知人である相手も絶句した。
 だがそこで終わるような人間では、ここの部長など務まりはしない。
「この、元ひきこもりが……っ!」
 その言い回しが的確かどうかはともかく、彼女はすかさず牙を剥いた。
「いやいや。まあ、落ち着いて」
「どうしてあんたはそう冷静なのよっ!」
「……そうだな、どうしてだろう」
 肩透かしにも似たコメントは、けれど本人にすら首を傾げさせている。
 長かった前髪もすっきりとあげられるようになった昨今、崩れ落ちてもその瞳はあらわなままだ。
「っていうか、ここって妙に落ち着くんだよな」
 ちいさな笑いは、すでにおだやかな微笑み。キイッと椅子を軋ませながら身体ごと視線を廻せば、考査期間とはいえ数人の者が集まってきていた。そのほとんどはまだ試験を抱えていそうな、つまり一、二年生ばかりだ。
「そのあたりの怯えた一年とか、萌え語りばかりの腐女子とか?」
「内容はともかく、まあ認めなくはないわね」
 少々ふざけた意見もこの文芸ならば、そしてこの相手ならば問題にはならない。意外なほどにあっさり、同意は示された。
 実際、互いに同じ感覚を抱くからこそ、必要のないこの年度末にまでこの場所にいるのだ。
「あとは、そうだなぁ」
「なに? まだあるっていう……っ!」
「やっぱりおまえの存在か」
 問いかけは、息ごとそこで止められる。重なった熱い声は、掠れた加減までもが扇情的。その瞳は、ただひとりだけを捉えていた。
「なにやってんの? 先輩」
「おう、和真。けっこう遅かったな」
 爽やかな呼びかけは、誰かに熱視線を注いでいたとは思わせない。
 あまつさえ、突然背後に現れた恋人に対するものと理解できようか。
「さっきから居たけど。あんた、なに……」
 むろん返された声音は硬い。しかし男の表情はより楽しげに輝いた。
「ほら、副 ―― じゃない、現部長のマジいやがり顔だぞ?」
 つづけられたセリフとともに、指先が鮮やかな音を鳴らす。しなやかな人差し指が指し示したのは、彼のとなりでいまだ硬直から抜け出せずにいた部長だ。
 そう。流し目照射を受けていたのは、彼女なのであった。
「めったに拝めないぞー」
「あんた、それ目的で?」
 うん。いたずらを成功させた子供のような顔は、こくりとそのまま頷いた。
 まったく悪びれたそぶりはない相手では、もはや毒気を抜かれるしかないのだろう。部長は手近な椅子へと腰を下ろし、和真は白けたため息をついた。
「もうすこし、鏡とかみたほうがいいですよ」
「あれ? レベル落ちた?」
 自分の顔を撫でるように問いかける相手をよそに、和真は無視するように鞄をおろす。そこは互いに背中合わせとなる指定席だ。
 そんなそっけない態度を、相手はどう考えているのだろう。
「やっぱ、声と表情だけじゃダメかぁ?」
 動きもいるのかな。独り言を吐きながら、彼はおもむろに立ち上がった。意外なほど高い上背で、ぐるりと回り込んだのはもちろん恋人の横だ。
 突然の行動に、つい見上げるように視線が動く。
「こんなふうに ―― 」
 そんな相手の顎へ、手がかかった瞬間。室内のほぼ全員が、なぜかその耳を塞いだ。そして、どこかではじまるカウントダウン。
 直後、この世のものとも思えない絶叫が室内を襲った。
「うわ。俺もあとコンマ一秒でやばかったぜー」
 振動として余韻の残る室内。その静寂を最初に破ったのは、やはり翔だった。
「ちっ! 逃げましたね」
「残念だったな」
 舌打ちは攻撃を外された和真のものだ。絶叫には、大量の空気を必要とする。いつもより素早く吸ったつもりだったが、どうやらすべて読まれていたらしい。
 とはいえ常より大きかった空気振動は、怒りのおおきさだったのか。
 予測された行動とはいえ、誰もがほんの少しの差でダメージを喰らっている。自業自得の翔はともかく、割合とちかくにいた部長は睨みつける以上の反応を示すこともできないほどだった。
「おい、ひとり倒れてるぞ」
「あ……」
 コメントをくれた男の視線の先、確かに一年生がひとり崩れ落ちていた。まるっきりガードできなかったのだろう。至近距離でなかっただけ、障害として残ることはないだろうが、あのいわくつきの破壊力はいまなお健在らしい。
「まだ慣れてないヤツいたのかよ」
「そのコ、途中からだし。最近こんなコトなかったでしょ」
 泣きっ面に蜂であった部長の反撃は、元凶へとささやかに返される。
 あんたがいなかったから。言外にそうほのめかされた男は、さすがに決まり悪そうに窓の外へと視線を投げた。
「今日も、痛烈だったよなー」
「どっから出るんだろうね」
 立ち直りの早い後輩らは、すでに自分たちのペースを取り戻している。すでに、このなにもかもが日常ということだろう。
「さて、と」
 部長も雑事へと戻れば、謝罪に向かった和真もとうに席へと着いている。
 青い空に向かって、ため息をひとつ。それから男もまた、元いた机の前へと帰るのだった。
 そしてモニタを眺めること、しばし。だが集中力はとぎれがちだった。
『鏡とか、みたほうがいいですよ』
 ふつうならば別段気にするほどのことでもないコメントだろう。
「なあ。そんなに俺、テク落ちた?」
 思わず口を突いてでたのは、間の抜けた問いかけだった。
 顔や外見は特にかわったと思わない。ならば残るのは。
「なあ、和真ぁ」
 向き直ってまで問いかけるが、返答はカタカタと鳴らされるキィばかり。
 過去には得意分野とすら思っていた内容だ。いまとなってはほぼ無用なものだが、恋人が相手となれば話は別である。
 愕然としながら、彼は鞄へと鏡を出しに腕を伸ばした。
「……そんなこと、ない」
「え?」
 ぼそりと返されたのは、そんな瞬間だった。
「周りへの影響、考えてよ。みんなが、見るんだから」
 軋ませながら椅子を廻して、ようやく向けられた顔。見下ろすようにしばらく眺めれば、すべてに得心がいった。
「 ―― 了解。悪かったよ」
 尖った唇は、噛みしめていたのかわずかに赤く。ひそやかに見上げる瞳には、濡れた嫉妬が確かにあった。
 ささやかな独占欲の表明。それは、不安を一掃してあまりある。思わず微笑みかければ、返されるのは悔しげながらもはにかんだ表情だった。
 絡ませた視線は、そのまま離れない。
「そっちのほうが目立ってるわよ」
 傍らにいまだ部長は座っていたらしい。だが、ぼそっと吐かれた悪態は、あえて右から左。ついでに周囲の視線もあっさり無視するならば、世界はふたりのためにある。
 とはいえ、さすがにキスはマズいだろう。
 わずかばかりの配慮で額だけをぶつければ、それでも黄色い声は十二分に響かされた。統括者からは、地の底並の恨みがましいため息。
 そして真っ赤に照れた恋人からは、カウントダウンの『声』が。
「さあ、もう萌えは十分だろ! さっさと書けっ」
 絶叫よふたたび状態の口を掌で塞ぎながら、男は高らかに宣言していた。

 そして一年ちょっとつづく日常は、今日もまたはじまるのであった。



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こんな日常でいいんかね、こいつら。




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