本能<3>  …FRIDAY EVENING…



 程良い酔いが意識を酩酊させていく。
 促されるままで紡ぐ言葉までが吐息のように甘く自分でも感じられ、この酔いを唆していく。

 ……イッソノコト、アイツト、ドウニカナッチャッタラ?

 グラスに琥珀色の液体を注ぐ仕草と同じくらい、唆す声音はこの酔いを後押ししていく。
 口腔内に広がる普段口に出来ないような芳醇な甘みまで、もっと酔いなよ……と誘うのだ。
「おいらはあのひとと、どういうことがしたいとか具体的なものがないから…」
 経験と想像力が貧困なだけだけど…。
 自嘲的な呟きまで、酔いに甘く溶ける。
 全て酔いのせいにしてしまえと、無言で継ぎ足してくれる優しい目に、今日は何故か流されたかった。
 打ちのめされた自分を感じ取り、溜め込みすぎた澱を吐き出させてやろうと思ったのか。
 想いを吐露しても良いのだと促す眼差しは、今夜だけは強がりの仮面を脱ぐことに目をつぶっていてくれる気がしたのだ。
 明日には、忘れてあげるよと。

 帰り着いたこの部屋で、嘲笑に汚された衣服を詫びながら差し出せば、生乾きの髪を壊れ物のように撫でられた。
 その優しい指の無骨さが、自分との差を強く意識させ、ここにいられるのは年長者の気遣いからなのだと、無力さを噛みしめずにはいられなかった。
 彼らと対等だとでも、自惚れていたのだろうか。
 自分など強がりの仮面を剥げば、彼の獲物になりたいだけなのに。
 顔も覚えていない相手の挑発より、よほどあの自分のために用意されたであろう嬌態の方が、この熱帯夜に茹だった脳に冷水を浴びせた。
 当のあの人は、今日だけは絶対に帰ってこない。

 ただ…と、酔った声音は自分とは思えぬ甘い音。
「あのひとが、どんなふうにセックスするのか知りたい」
  多分と自信なさげに付け加えた一言は、言葉にした羞恥からこぼれたものか。
 こぼした呟きは、素面では本音と認めることはけしてない。
「あのひとが熱くなって、どんな風に人を抱くのか…」
 冷めた脳で仕掛ける戯れじゃなくて、あの手がどんな風にまさぐり取るのか。あの唇がどんな風に飢えを満たそうとするのか。
 情熱にその身を任せた、枷を外したあのひとが知りたい。 

 なぜ行き着く先で、ソレに拘ってしまうのか。
 あの人が、唯一見せる拘りだからか。
 自分の方が、拘りたいものだからか。

『知りたいだけなんだ?』
 揶揄と言うには、あまりにも静かな問いかけが、そっと隠していた扉を控えめにノックする。 
『なら一度してみたら、気がすむかもよ?』
 ふと込みあげた笑いは、気遣ってくれる相手を不快にさせないように和ませたものだったが、自嘲に引き歪んだ口元は、自分でもわかるほどに覇気がない。
「それだったら、こんなに恐くないですよ」
 酔いが理性から作り上げる理屈を無効にさせれば、こんなにも本音はすぐそこに透けていた。
「知ったら多分、あのひとが他の人間に触れるのが許せなくなる。あの人を刺さない自信なんて、おれにはないですよ…」
 自嘲に細められた視界が、酔いのためか押さえた指の下で熱く歪んだ。

 その時がきたら認める覚悟は出来ている。
「多分、自覚はもうしているんです。でも、今の状態で認めたって、なんににもならないから」
 せめてあのひとに、入り込めれる存在になってなきゃ……・
 呟きは、相手よりも自分に言い聞かせるためのものであった。
 ぎりぎりいっぱいの状態。
 自分がもうごまかし切れなくなる前に、あのひとの心に関われるようになっていなければ、所詮自分は、その他大勢とかわらない位置から、もう動けはしないのだ。
 彼の一時の退屈しのぎの相手に、一度でも成り下がってしまったら…
 そのまま彼の言いなりになってしまいそうな自分が怖い。
 もう彼の腕に墜ちてしまえという誘いは、すぐそこにあって。
(だけどオレはそれ以上に、あんたが許せる、あんたになって欲しい…)
 そのためだったら、自分は多少傷ついたってかまいはしない。
「立てなくなるほどは困るけど…」
 彼と向かい合える程度の余力が残れば…
 こんな甘い考えだから、彼の耳に自分の言葉はとどかないのだろうかー……

『一緒に墜ちる覚悟がある相手じゃなきゃ、あいつは這い上がれないのかもしれないよ?
もちろん、あいつが選んだ相手限定だろうけどね』
「墜ちる覚悟……」
 呟きは、暗示のように重く響いた。
 全てを受け流すような微笑みの主は、忘れてしまえと杯を進める。
 大きくあおげば、渦巻いていた思惑は霧散し、ただその囁き声だけが彼の人の声で繰り返された。 



「おまえ、歌詞暗すぎるよ。意味わかんねーし。こんな曲、盛り上がらねぇよぉ」
 歌詞を見せる瞬間というのは、意外なほど緊張するものだ。
 小説は、わざわざ関心がないであろう相手に見せることはない。
 そして三人の中でも一番小説にも詞にも関心が薄いであろう実が、一番顕著な反応を示した。
 直感に基づいたであろう意見は、それ故に一番わかりやすい感想だ。
 果たしてこの高校時代からの友人が、今の自分が作る詞にどんな反応を示すか怖くないわけではなかった。

 ロックともラブソングとも言い難い、頭に痛いフレーズ。
 昔、歌に乗せて解放を軽快に唱ったセリフとはほど遠い。 
 期待されていたものからずれていることはわかっている。
 だけどもう、自分は誰かに期待された言葉など紡げはしないのだ。
 そんなお前は必要ないといえるならば、さっさと突き放してくれと嗤う声を黙らせることはできない。
 ただ引きずられる負の感覚が、彼らとの交流から発しているとは言い切れないので、自分から突き放すほどの意思の強さはない。
「エロくっさいヤツはいいけど、どうしたらこの曲に合うのか、さっぱり」
“曲に合わない”は致命的であり、こればかりは痛いところを突かれた気がした。
 まるで自分本位で曲調を考えない作詞をしたつもりはないが、誰もが受け止めやすいものであったとは、正直思えない。
 達彦が自分を否定するわけはなく、彼の自分に対する賛同などまるでアテにならないことはわかっている。彼はいつでも極力この自分を庇護し、援護する態度を取るのだ。
 しかし、達彦の明らかに困惑を示した表情を見れば、彼も実の意見に賛同するところがあるのだと言うことがわかる。
 意見を求め政人に視線を向けたのは、ほぼ3人同時であった。  
 彼はとうに紙面から顔を上げ、脇に避けていた愛器へと手を伸ばしていた。 
 何も言うことはないということか。
 いつもならばそれで答えは得たと紙を引き下げるところだが、今日だけは拒絶の言葉でも明確な音を得たかった。

 いつ頃からだろう。高校の二年の夏頃からだろうか。政人とは、いつ亀裂が走るかわからない危うさが生まれていた。
 お互いに相容れないから、距離を持つようにしているところもある。確信したときには、政人とはお互い特に言葉をかわさなくとも険悪になっていたのだ。
 だが不思議なことに、こういうときに彼ならば一番真摯で信頼の置ける言葉をくれるのではと思ってしまうのだ。
 説明をしなくともわかってもらえる。たとえ、受け入れられなくとも……。
 沈黙の中、ベースの弦を弾く低い短音が響いた。音の確認か、指慣らしなのか。
「やるか」
「え? まっ 政人?」
 政人は楽器を持てと達彦へ顎で合図する。
「あっ ああ」
 達彦も慌ててギターを手にすると、呆気にとられたのは実だ。
「おいおい。いきなりかよっ」
「譜は配ってあっただろ」
 感情を漂わせないハスキーな声は強制力を伴わない分、口を挟む隙がない。感情の読めない黒目がちな瞳は愛器以外には目もくれず、全員が配置に付くのを待っている。
 知っているようで耳に馴染んでいない音の変化。テープで聞かされていた彼のパートより、幾分変化している印象を受けるのは気のせいか。
 実が怠惰にドラムの前に座ったのを見送ってから、マイクスタンドに指を絡めた。
「好きに歌ってみろ」
「政人……」
 明朝体で表面上整えただけの詩とも言えぬモノを配ってから、初めて彼はこちらに視線を向けてときた。
 今日初めて、真っ向から視線が絡み合った。

 いつも通りドラムスティックのカウントから始まった演奏。
 走りだしからとばし始めたベースに他の二人も驚いている。いつもは一番堅実に乱れがちな全体の音を支えているベースが、挑発するように煽り立ててくる。
 応えるようにギターも唸り始めれば、釣られるように戸惑いがちだったドラムも好きなように主張し始めた。
 乱すのとは違うぶつかり合い。自分を隠すなと挑発する音の波。躍動感に強くなる鼓動。
 心地よさから、意識する前に言葉が喉を突き破る。


もう 自分を否定するのはつかれたよ
「正しい愛情」はもう 諦めるから
その瞳で 僕を試さないで
もう 恋でないことは 僕を救わないから

誰か決めてくれ
君が決めてくれ

もう これ以上自分を否定したくないよ
僕を誰か決めてくれ
試さないで 僕を受け取って



 気取る言葉など本当は紡ぎたくない。叫びたい言葉は非難でも主張でもない。
 もう赦しを請うてもいいから、認めて欲しい。このままは、受け入れて。
 オレを中にまで入れて。

 文字の世界は螺旋。
 どれだけ推敲しようが、そこからは抜け出すことは出来ない。
 言葉に捕らわれる身でありながら、体現を伴った言葉が持つ力にはいつも容易く屈服してしまう。
 音階に身を委ねカラダの底から声を上げれば、使われていない脳で絞り出す言葉などより、よほど心を解放されていく。
 泳ぎだした声は、己の中で黙らせておくことが出来ない。

「おまえには、わからないよ」
 誤魔化すフリで、諦めをを見せつけるようにわらったオマエ。
 諦観は何に対してだった?
 それは、「理解される」こと? それとも、「理解しない」オレ自身?
 「理解」とは「受け入れる」こと?
 その笑みを拒絶と受取り、親友に心からの笑顔と信頼が向けられなくなった日。

「カズになんかに、わかってほしくないっ」
 曖昧に背を向けたオレに、これ限りと君がぶつけた本音。
 叩きつけるように拒絶をつきつけたキミ。
 オレだって、いってみたいものだ。
 オレがわかっているだとか、わかりたいだとかいったことがあるかい?
 真顔で冷たく返せば、誰だって怯むくせに。
 ああ、わかりたくないね。自分の心の中を見て欲しいなんて。
 そんな“自分の中には、誰に見られても恥ずかしいものなんてありません”と、いえるのかと、笑ってみたい。

 笑顔が旨くなっていく。何を考えているのかわからないと言われるソレが。
 わからないヤツだと言われることが多くなっていく。
 ああ、オイラにもわからないよ。
 なのに……
 どんどん変わっていく自分がいる。いや、意識せずに昔の自分に還ってしまう。どんどん素直に。情動豊かに。
 見栄が剥がされていき、昔、子供っぽいと敬遠したはずの自分がむしろ心地よい。
 その言動にひっかき回され、自分には「ない」と思っていた種の感情が自分の中で渦巻いて、このカラダのキャパを今にも越えそうなのだ。
 堰を切ったとき、溢れるがまま垂れ流すのか、爆発して破綻するのか。
 これでも自分は、女々しくもみすぼらしい自分の本質を隠したがっている己を、痛いほど自覚しているのだ。
 このまま引きずられるまま曝していくくらいならば、いっそ何かを壊す起爆剤にしたい。
 これ以上、自分は何も出来ないのか。
(叫びたいのも解放されたいのも、もしかしてオイラのほうで。期待しているのもオイラの方?)
 他の誰かを戯れに解放させる暇があるなら、いっそこの自分を鷲掴みすればいいのに。
 遠回しな挑発などではなく、その秘めている強引さと激しさをこの身にぶつけて欲しい。
 あの鋭い眼差しで、心も体も…この欲望ごと射抜いて欲しい。
(もっと、ぶつけてきてよ…っ)
 掻き回して、余計な迷いや言い訳など、考える余力がないくらい……
 吐き出してしまいたい。
 この身を喰らう、アンタを毎夜夢見ている。


 金曜の夜の予定は確認するまでもなく決まっている。
 この季節、時計の短い針が真下に近づこうとも、日が落ちるにはまだ遠い。
 世話になること受け合いの相手を思い浮かべれば、遅い来訪は準備を忙しなくさせるだけで、かえって相手に面倒をかけることになる。
 しかし、今日ばかりはどうにも気が進まず、足も向かない。
 あの自分には似つかわしくない店の喧噪を思い出せば、蘇るのは目映いライトを照り返す縒れた布と、肉感を連想させるように指先を食い込まされた手付き。
 一瞬の目眩にも似た衝動は、名前の付けられぬ猛りを喚んだ。

 この苛立ちはお門違い。
 わかっていても、それでも沸き立つこの想いを、あと数時間でどう始末すればよいというのだ。
 この感情を引き起こすその存在に対してぶつけるなど、みっともなくて出来やしない。
 アノ口元が嘲笑に歪むのが眼の裏に浮かぶようだ。
(きみもそんな気持ちだった?)
 あの日、きみがぶつけてこなければ、僕は自分の思い上がりにも誰かの気持ちにも、きっとあのまま気づけなかった。
 きみはオレの恩人だったのか?
 想いをぶつけるという、事象を示してくれた。
 後にも先にも君以外に、オレに対して自分をぶつけてきてくれた相手はいない。
 そして、そうすることをよしとしないで背を向けた友人。
 それは拒絶ではなくて、一つの選択でしかなく……。
 自分とオレと、二人の立場と関係とを。
 守るために選び取ってくれた手段だったのかもしれない。
「ごめん、タツ……」
 あの時は自分のプライドを守るのに必死で、物わかりのいい振りで無関心を示すしかなかった。
 大学に入り、もう一度やり直そうと手を伸ばすのは、並大抵の覚悟ではなかっただろう。
 その痛みに、気づけなかったよ……。

 守るために背を向ける男。
(アンタはなにを、守りたいの?) 
 その背に手を伸ばして、無理矢理こちらへ振り向かせたいという衝動を巧く飼い慣らせない。
 掴み取りたいのか、掴みとられたいのか。
 でも、このままではきっと変わらない。
 このままならば、何も失わず、何も得ず、ただ擦り抜けていくのを待つだけ……

 夏休みの夕暮れ時。サークルへ書きかけの話のデータを取りに行きたかったが、この時間では運動部でもない部室に誰かいる自信はない。
 しかし鍵を管理室に取りにいくのは面倒だったし、もしかすると人がいるかもしれない。
 開いていなければ今日は諦めよう。
 幸いクラブ棟の方へ歩いていけば、文芸部の窓から明かりが漏れているのが見えた。

 建て付けの悪い扉をようやく身につけた技術で持ってして開けば、ふわりと記憶を刺激する匂いを感じた。
 視線を向ける前から、誰がいるのかは一瞬で察していたのかもしれない。
 それでも視線が絡み合えば、呆然と立ちつくしてしまうのはその存在感ゆえか。
「………」
 挨拶や軽口の一つでも投げかけられればよかったのに。
 しかし紫煙を漂わせたソレをゆるりと口元に運ぶ動きに、あの夜、誰かの耳朶に立てられた濡れた歯先がフラッシュバックして、先ほどまでの苛立ちが胸を灼いた。
 表情が作れない。
 自分でも認められない感情に振り回されている表情を見られたくなくて、自分のデスクへと向か歩幅が広くなる。
「サボテンがいるな」
 退屈しのぎの揶揄にまで付き合う必要ない。この挑発すら喫煙の片手間なのだ。
 視線を合わせることなくパソコンを起動させれば、くすくすと含み笑いまで聞こえてきた。
「おー トゲトゲ」
「刺さりたいんですか?」
 横目で睨み付ければ銜えタバコの口元がつり上がる。
 挑発に乗ってはいけないと思いながら、その声を無視できない自分が口惜しい。
「ご冗談」
 返される返事は楽しげだ。釣られて振り返れば、向けられるのは強烈な流し目。
「どうせ刺されるなら棘は選ぶな。俺が刺されてやる花は薔薇ぐらいか?」
「……」
 どくりと鼓動が強く打つのを感じた。今更、絶句するほどのセリフでもあるまいに。 
 白い布地に食い込んだ、筋張った指が脳裏から離れない。
 何故ここまで振り回されるのか。 
「ご希望には添いたくない気分なので、丁度いいです」
 真っ正面から見つめれば含み笑いは納められ、今日初めて彼は瞳に興味をはいた。
 一歩踏みだし、デスクにもたれてなお高い位置にあるその肩に腕を伸ばした。
「刺してあげますよ。気の立ってるサボテンなんで」
 充分に拒める緩慢さであったはずなのに、男は身動き一つせずこちらを見ていた。
 その口元から笑みが消えたのを視界の先に捕らえ、こちらの貌はその肩口に隠す。
 頬に触れた首筋は、思いのほか熱かった。
「今日は誰れかれかまわず、こうやって棘を刺そうって予定なわけだ」
 多少は動揺を呼べたか。男の声から先の含み笑いは消えていた。まさかこの自分が、自分から抱きついてくるとは思いもしなかったであろう。
 緊張よりも清々したという晴れやかさが勝った。
「っ」
 男は遠慮なく片腕を腰に伸ばしてきた。抱きしめ返されたわけではない。爪を隠したその手は煽るように腿から背の窪みを辿っていく。
「お前にかけたがってる、あいつらとかな?」
 自身専用のデスクで火を押しつぶした男の声は、楽しげと言うには物騒だ。そう思うことすら自惚れか。
「あんたと一緒にしないでくださいっ」
 誰彼かまわずなど、望んでいない。
「そうか?」
 含み笑いは奇妙なほど、悦びに歪んで聞こえた。
 その間にも男は開いた掌を徒にあそばせてくる。
「無節操オトコにいわれたくないですよっ」
 思わず出た声の大きさに、しまったと正直思った。
 先日のことを、女性との睦み合いを、意識していることを曝してしまった。
 何気ない風を装い身を離せば、男は容易く解放を許した。さほど興味のあることではないということか。ただ意外そうに、男は口元に笑いを作る。  
「節操ならあるぞ」
 とうにデータを移し終えていたFDを取りだす間も、男の嬲るような視線を感じていた。
「イれなかったし」
 ぼそっと呟かれた言葉は、明らかに聞かせるためのもの。
 遠くで頭に血が上るのを自覚したが、相手を睨むことへの制止は出てこない。
「使えなかっただけじゃないんですか」
 自分でも意外なほど低い声だった。これでは自分の内心を晒け出しているようなものだ。
「へぇ…」
 男の瞳が暗い悦びに輝くのを見た気がした。
「……っ」
 低く口笛。意外そうに細く眇めた眼。
 あの獲物に向ける眼だ。
 その形のよい口元に上るの獰猛な笑みに、ざわりと背筋が震えが走った。
 後ずされば簡単にぶつかる自身専用デスク。顔を至近距離でのぞき込まれれば、そこへずり上がることになった。
「なんなら、試してみるか」
 疑問系にすら聞こえないのは、認めたくない怯えか。動揺を示すなという命令は、見栄のためか保身からか。振るえそうになる喉を叱咤し、平静を装った声が出ることを願った。
「結構です」
 発せられた声はやはり嗄れていて、この場の逃れられぬ緊張を強調させただけに思えた。
 押し付けられる体躯。倒れそうになる背を支える掌に荒っぽさがないことが、自分を押さえつけることに、さほど力を必要としないことを示しているように思えた。
 自分の女性より軽くはないはずの体重が、その腕一つで容易く支えられている。
 隙を見せまいと、見上げる形になったその顔をから眼だけは逸らすまいとした。
 間近で見つめ合うこと数秒、ふっと零された笑みは誰を笑ったものだったのか。
 解かれた緊張に視線で不可解を示せば、相手の笑みは違う形に歪んだかに見えた。
「むせっそうねぇ……」
 言葉は聞かせるための独特のイントネーションを持っていた。
 何を言うかと訝しげに見返せば、相手は無遠慮に瞳の奥を覗き込んできた。
 腑まで曝される心地に、後手に付かれていた手が汗に滑る。
「一人に絞れば気がすむわけでもあるまいし」
「っ!」
 羞恥と屈辱に煮えそうだ。この男は、どこまで人がひた隠ししている欲望を掴み出せば気が済むのか。
 恥部を曝された人間の復讐心を知らず、差し込んだ手で平気でまさぐってくる。
 報復を恐れぬその瞳で……。
「ィッテ、おい!」
 力の限りで押しのけた。
 虚をつかれてさがった男に、体当たるようにして逃げだ出した。
「おいっ」
 建て付けの悪い扉に手をかけたところで、後から思わず鋭い呼び止め声がかかった。
 振り返った瞳は、怒りと怯えと、どちらが色濃く映っていただろう。
「荷物」 
 教材も入ったいつも肩に背負って持ち運ぶDバッグが、男の片手に掴み上げられていた。
 表情を消したその顔から、もうどんな感情も読みとけない。
 全て、この男にとってどうでもよいことなのだ。
 駆けることなくバッグを受け取るまでの間に、男はまた一本、新たなタバコを抜き出していた。
「……」
 近づいて受け取る間に、男は火をつけ紫煙を薫らせる。
 まるで、もう捕まえる気はないと示すように。  
 背を向け今度は早足にならぬように出ていくが、けして振り向くまいと言い聞かせた。
 視線を向けてはいけない。
 もし相手が嘲笑を浮かべ自分を見つめていたら、羞恥のあまりまた逃げ出してしまうかもしれない。
 でも、それよりも。
 あの眼がまるでこちらを見ていなかったら……。
 虚しさとは似て非なる痛みに、縋り付きそうだ。

 初めて自分から手を伸ばしたのだ。
 ただの虚勢と相手は受け止めたかもしれないが、その瞬間、緊張よりも清々したという晴れやかさが勝っていた。あとにもさきにも、この手が自ら先に誰かの背に腕を回したことがないことを、彼は知らない。
 にも関わらず、あの男にはどうでもよいことなのだ。
 独占欲も、劣情も、伴わなかった恋。まだ芽吹く前だったのか、単に自分はやはり恋などしていなかっただけなのか。
(こんなの、恋だなんて言えないよ)
 この感情こそ、勝手な傲慢な欲求を正当化する、思い込みではないのか。
 恋と言うための確証はどこにもない。
 あるのは、嬲られ煽られる、熱。
 抑えても這い上がるそれは、そのうち思考力すら奪い、欲求のままに請う動物に成り下がりそうだ。思いやりや優しさなど、彼と深く関わるほどに呑み込まれ塗り替えられていく。
 そのくせ、あの男は少しもそんなことに捕らわれてはいないのだ。彼が足掻いているのは別次元のことで、周りを巻き込む火遊びは、ただの結果。
(おいらは、壊れない)
 巻き込まれてはならない。そうなれば、自分はただの結果の一つになるだけだ。
 自分は自分を壊さないで、自分を通す。
 彼が求めているのはそんな相手だけ。
 自分は、基盤になりたいのだ。
 調和を壊す因子になるより、破壊のない変革を支える地盤になりたい。
「壊さない」
 壊せない自分なら、壊さないで支える存在に。
「……痛いよっ ロクデナシ」
 胸が痛い。じわじわと絞られるようだ。
 こんないないところで胸を握り込むなら、差し込んだ腕は抜かずに、そのままこの胸を掴み上げればよいのだ。
 じわじわ絞り上げたって、残るのは絞り滓だけだ。
 そんなもの差し出したって捨てていくんだから、早くこちらを見て。
 抜け殻だけが、残る前に……。

 祈るように夜の闇が近づく虚空を仰げば、脳裏に横たわる抜け殻は誰だったか。
 真夏のねっとりとした夜の気配にも寒気を覚える。知らず抱きしめたその肩に、食い込むほどに指をたてていた。



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by さいが請(たびねこ横丁)サマ

No-number コヨーテ前夜〜087:コヨーテの間の、
イメージ(萌え?)小説



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