047: ジャックナイフ。


 ライブもおわり、ようやく夏本番の直前。まだ梅雨明け切らぬ気配の中、窓のない密室は上昇する気温をなおさら実感させる。湿り気すらもじわじわと肌にまとわり、体感温度を狂わせていく。
 興奮覚めやらぬはずの男たちは、そんな熱すぎる空間にまた集っていた。

「先輩って、おいらのこと、本気で好きなわけじゃないのかな?」
 ふっと。本当にふと思いついたかのように呟いた和真は、目線を彷徨わせたかと思う間もなく机へと突っ伏していた。その片手には、歌詞をつづるためのシャーペンが握られたままだ。書くべきものはラブソング、それゆえの連想だったのだろう。
「疑う必要ないと思うけどね」
 曲を作っているせいか、単にその会話の対象に関心がないのか。ギター片手の達彦は、めずらしいくらいにそっけなかった。問いかけたほうももともと回答を求めているわけではない。とはいえその場に三人目がいれば、視線がそちらへ流れるのも当たり前というものだ。
「……まあ、そうだな。愛しすぎて、制約は多い人かもしれない」
「ストレスフルになりそうだな」
 見つめられてまで無言を通す気はなかったらしい。さきほどの意見に同意を示しつつ、三人目の政人はさらりと思うところを述べた。それに返されたのは、落書きのように五線譜にメロディーを書き散らしながらのコメントだ。
「じゃあ、その鬱憤はどこにいくの?」
「さあ……どこか、だろ」
 アンプにつながない、弦の音はみみっちい。二人分の電源を入れた政人は、短く答えて試し弾きをはじめていく。音量の調整をしはじめた彼に、もはや会話の意志はない。和真もふたたびノートへと視線をおとす。そうして終わるかと思われた会話に、ギターが不協和音をうならせた。
「まさか、ほかの女性とかか?」
 色めきだった叫びとともに、五線紙が舞い散る。その瞬間、防音であるはずの部屋にガコンと鈍い音が鳴った。
「え?」
「なんだ?」
 外界からの音と認識した三人が、一斉に唯一の扉へと視線を向ける。
「 ―― よう」
 噂をすれば影、ではないが。
 めったにここへ来るはずのない彼が、開ききった扉の向こうに立っていた。

「ちょっと叩きたくなってな」
 飄々とスティックを握り、彼はドラムセットに向かっていた。首と肩をかるく回したのは、準備体操のつもりだろうか。数回タムやスネアを叩き、ハイハットの配置をほんの少し変えた。パイプ椅子の和真は、書き上がるまでここを離れられないのだろう。ただその様子を見つめている。
 そして鳴らされたのは、いつもより速めのカウント。
「やる気かよ」
 誰のものだろうか、口笛がちいさく鳴らされた。歌のないままいつもの曲がはじまる。ぴたりとそろった演奏は、ライブを彷彿とさせる出来だ。終わるやいなや、今度はベースからカウントが切られた。交互にカウントを出せば、繰り返すたびに速度はあげられていく。
「ついていけるかよ、ったく」
 ギターがまずは早々に脱落した。当たり前だ、ベースとギターでは指に要求される速度がちがうのだ。肩から下ろすことで離脱を示した彼は、傍観者のほうへと歩いていく。
「なんかすごいよねー」
「確かにな」
 主旋律を失った音は、鬼気迫るパワーだけを増幅させる。さきほどまでの会話や疑問など、どこかに消失していくしかない。『ちょっと』などと澄ましていてもそれほどに叩きたかったのかと、苦笑いがふたりの間で交わされるばかりだ。その傍らで幾度目かのカウントが、スティックから弾かれた。
「……うん?」
 ますます速さと烈しさを増した音の群に、突然達彦の目が険しくなった。その視線は、汗を飛び散らせるドラマーだけに注がれる。
「タツ? どうかしたの」
「ストップ!」
 プレイを中断させるには、十分な声量だった。先に問いかけたはずの相手を省みることなく、達彦はつかつかとドラムセットの前へ向かう。その顔つきはまったく険しさを隠していない。
「おい、なんだよいきなり」
「あんた、ケガしてる」
「え?」
 疑問は指摘された人間以外からも発されていた。だが頓着することなく、中断を強いた彼は相手首を掴み取ろうと腕を伸ばす。だが並んだタムとシンバルが邪魔をするようだ。
「左手かな、ちょっとおかしい」
「おいおい。別に普通だぞ」
「そんなはずない」
 めずらしいほど断定的な調子に、さすがの翔も驚きを隠せないのだろう。構えたままだった両腕をスティックごと掲げあげた。汗と腱が浮かび上がる肌に血の流れたような痕はない。
 だが達彦は怯むことなくその首を横へ振った。煽られるようにしてともに演奏していたときには気づけなかったが、完全に聞く側になればわからないわけがない。その程度の自負は彼にもある。皮でも剥けたか、それとも。その程度のほんのわずかな音の崩れだが、その耳は確かに異常を感じ取ったのだ。
「とにかく、やめてください」
「……悪いな」
 真摯に向けられるまなざしは、スティックを手放させるに余りあった。そうして翔がそれまでのパートナーを見やれば、彼もベースを肩から外すところだった。早弾きプレイなど所詮は遊び。そんなことで指や腕に負担をかけさせるのは許す気になれない。それが彼らプレイヤーとしての共通認識だったのだろう。白熱したプレイはあっさりとした結末で締めくくられた。
 するりとドラムセットから抜け出した男に、ようやく安心したのだろう。じっと見守っていた達彦は、同じく不安そうな顔を見せていた和真の元へと戻る。
「そろそろ書けたか? 出来たとこだけ合わせたいんだけど」
「あ、うん……」
 戸惑いをみせる相手を押し切る形で、彼は新しい曲と歌詞をぶつけあわせる作業をはじめた。
 そうなれば今度は逆に、プレイを最後まで愉しんでいたふたりが取り残される。だがたいした時間とも思えない演奏は、この空間では相当の運動量になったようだ。びっしょりとかいた汗を拭い、しばしの休憩とばかりに水を互いがあおる。
「本気で好きなわけじゃないかもってさ」
「うん?」
 声をかけてきたのはめずらしくも後輩の側からだった。口元をペットボトルの水で汚しつつ、捲りあげた袖もそのままに翔は視線を投げかける。だが目線は絡まない。
「あんたの気持ちを疑うなんて、和真もおかしなヤツだよ」
 クスリと笑いもせず、政人はそのまま核心めいたセリフで切り込んだ。この唐突さは、ある意味和真を上回るかもしれない。顎をしたたる水を拭うことすら忘れ、彼は相手を凝視した。
「どうせ、こうして演奏したり、なんか書いたりで吐き出してんに決まってるのに」
 あんなにうっとり眺めてて、気づかないんかな。
 ふたつの視線を実は居心地悪く感じつつ、政人はボトルの口を締めた。注目を浴びることに慣れすぎている男は平然としたものだが、ちらりちらりと流されてくる視線は、向けられている当人ではない彼にすらわかる熱烈なものだった。
 むしろ岡目八目なのだろうか。再度流されてきた瞳は、どこか妬みを含んでいる気すらする。ふっと吐きかけたため息、だがそれは先に隣でこぼれたそれに飲み込まれた。
「疑わせてるのは、俺なんだ」
 つづく低すぎる声に振り返った彼が見たのは、爪の先を噛みながら呟く男の姿だった。
「……え?」
「不安なんだろ。表せてねえんだ、俺が。あいつは ―― 」
 俺を決して不安がらせない。好きだと、あの全身で伝えてくる。
 だが、だからこそ不安だなどとどうして言えよう。
 過去の行為が和真を不安にさせていたことは、もう教えられた。伝える努力を惜しんでもいないつもりだ。それでもいま、あえて避けるように近づきもしない姿。それだけのことがどれだけ怖いものか、きっと彼にはわからない。
「じゃあ、見せてやれば?」
「なにを」
 自責にも似た声を意外に感じていた政人は、つい見入ってしまっていた瞳をすっと細めた。そのまま問いに答えることなく、ゆっくりと歩き再びベースを手に取る。背中に浴びた視線は逸らされていない。クスリと口元が緩む。
「おい」
「あんたの ―― 本気」
 くるりと振り返りつつ、彼の手は弦を強く弾いた。ビィーンと低く鳴り響くベースは、だが会話の邪魔になるほどではない。つま弾きながら交わす目線の強さが、その通い合う意思を感じさせた。
「遠慮するのも、わかるけど。大事ならなおさら。でも」
「時と場合ってな。わかってるよ」
 とりあえずため息をひとつ。手にしたままのペットボトルを再度唇に当てる。再び滴る水。
 いまだ書き上がらない歌詞を抱え込んだ相手を眺め、翔は濡れた口元を引き締めていた。

 そして夕刻もすっかりと過ぎたころ。ほぼ同じ方向へ帰るにも関わらず遠慮した達彦らを残し、翔と和真はいつもの道のりを隣り合って歩いていた。最寄り駅までならば特に長い距離でもない。
「さっき政人と、なに話してたの?」
「本気について」
「へ?」
 ベースの煙幕で聞こえていなかったのか。地下鉄への出入り口をくぐるまでつづいた沈黙は、そんな問いかけで破られた。
 普段ならば取り留めもない言葉の応酬を繰り広げるふたりだ。どこか緊張していることを、互いに感じ取っていたのだろう。とはいえひとたびきっかけを与えられれば、堰を切ったように流れ出す。
「本気でってのは、どうかかるんだ?」
 地下鉄の揺れに合わせて会話はつづく。だが投げた問いに対して返されたのは、新たなる問い。向けられる表情など、怪訝に潜めたものくらいだ。
「だから、なにを疑ってるんだ」
「……聞いてたんだ」
「聞こえたんだ」
 ささやかな訂正は、意図したことではないと示すためのもの。だがきっかけがそこにあることまでは否定しない。この際どちらでも良いからだ。
「それでな。本気でってのは、どうかかるんだ?」
「どうかかるって……、なにがちがうの?」
「ああ。本気で好きじゃない、と、本気では好きじゃない、があってな」
 否定につく疑問は係り方によって明らかな差がある。つり革を下げる鉄パイプにひっかけた手が、つづく言葉を選ぶように握り込まれる。袖はとうに戻してある。あの場であればこそ晒せる、傷痕を抱えもつ腕なのだ。
「よくわかんないんだけど」
「……言い換えるか」
 文章を操る者とは思えないが、問いかける目つきは本物だ。ため息をついて男は天井を見上げた。
 つまりは。
「心底から好きか、心底キライか。あとなんだっけ?」
「心底からかどうかは分からないが好き、だな。本当は『心底からとはわからないが好き』と『心底からではないがキライ』なんだが、まあまとめてみた」
 好きか嫌いか。その分類など所詮はこの程度に過ぎない。俺がおまえのことを『本気で好き』なことを疑うのか。おまえのことを『好き』かどうか自体を疑っているのか。
(俺のことは信じなくてもいい)
 あの日、あの地下鉄の駅で告げた言葉に嘘はない。ただしあのときならば。
 短くも長い時間が互いにはあれから過ぎたはず。
 いま求め迫る答えは、取り戻すと決めた信頼、絆がどこまで築かれているかを知らされるものだった。試されているのは答える和真ではなく問いかけた男の側だ。冷静な顔を保ちつつ、ドクドクと鳴る心臓が痛む。
「好きでいてくれるとは、思ってるよ」
「じゃあ、本気かどうかだけなんだな」
 イライラとする感覚は思索を蝕み阻害していく。無意識が探らせるポケット。けれど地下鉄内は当然禁煙だ。無理矢理にパイプへ戻せば、ズキンと走る痛み。握りしめる力が強すぎたようだ。
「どうして本気じゃないかもしれないと思った?」
「なんとなく」
「……おい」
 ストレートにぶつけた質問は曖昧すぎる言葉と、そして伏せられた顔にかわされる。どうしてこれほどまでに想いとは通じないものなのか。直接に晒して注ぎ込む手段がほしい。切望する瞳は相手のつむじを見下ろしている。だがその目線は一瞬にして険しくなった。
「追いかけてるの、おいらばっかみたい」
 きっかけはその一言。だが男の変容に気づかない和真は、おずおずと言葉をつづけだす。
「いつも遠慮してるでしょ」
「どんなときだ」
「……ベッドのときとか」
 他人もいる空間であればこそなお潜めるべき声は、隣に立つ男にすらギリギリ伝わる程度だった。もし表情を見ることが叶ったのならば、さぞや悔しげだったことだろう。そのくらいには彼は男なのだ。
 だが残されなくなったキスマークに不安を覚えたのはいつだったか。そのときと同じ喪失感が心を過ぎる。SEXすら望むからしてくれているだけのような錯覚に陥ってしまいそうだ。
「それか」
「バカにしたでしょ」
「いや」
 ため息はのどの奥へ飲み込んで。言葉少なに男がした否定は、それでもはっきりとしたものだった。
 そっと目を閉じればすぐにでも思い出せる、その瞬間。ベッドに残してくる相手の目が訴えることに、気づかないほど鈍感ではいられなかった。
「遠慮するのも、本気だからなんだがな……」
 試されているわけではない、相手も真剣なだけなのだ。
 だからこそ呟きは車両の揺れにかき消える。ただそれでも、なお吐息はわずかに重くならざるを得ない。パイプにかけた手を時間稼ぎのように動かせば、巻き慣れない時計が袖のうちでカツンと当たる。それをもらったクリスマスからほぼ半年、頃合いだということなのか。
 まだ早いと。ずっと言い聞かせていたのは、いったいどちらのためだったのだろう。
「 ―― 疑われるなら、仕方ない」
 ふうっと深い息に溶かした声音は、思いがけず諦めの色を滲ませていた。だがそれは相手が感じ取っただろう、理解を拒絶したものではない。ただもう見栄を張ることを捨てただけだ。不安を与えないための努力が反作用しているのなら、すべてを晒すのも吝かではない。
「明日、必修あるか?」
「……四限」
「なんとかなるか、ならないか、だな」
 びくりと竦んだ和真に、ほんの一瞬だが気配を日常のものに戻す。そうして軽い調子で問いかければうろたえながらも返された答えに、すこしばかり首をひねる。なんとも微妙なラインだ。
(まあ ―― 知ったことか)
 本気を欲しがったのは彼だ。まだもう少しだけ我慢は出来たというのに。
「降りるぞ」
「え? どうして」
 状況が読み切れないのだろう、揺れる瞳はおののきつつも問いかける。だが答えを返すにはまだ早い。わずかばかり強引にホームへ下りるため掴み取った手首は、うっすら汗ばんで冷えている。いや、もしかすると翔自身の掌が熱くなっているのか。わからないまま歩む靴音は、地下道であればなお高く響く。
「ね、しょ……」
「本気、見せてやるよ」
 早すぎる足取りに息を切らした問いにも、隣を窺う余裕はない。いつもよりも寡黙な男は、その口元だけにどうにか笑みを乗せたようにして和真へと振り返っていた。


 飛び込んだ部屋の内。シャワーすら浴びることなくふたりは絡まり合った。
 キスははじめから深い。呼吸を奪うようにつづけられ、その間に和真の服はなくなっていく。ふわりとその身が倒れ込まされたのは、いつの間にか誘導されていたベッドの上。掌がなぞるより早く、唇は下へとおりていく。慣れない者ならばおびえて当然なほどの性急さがそこにはあった。
 その証のひとつが天井に煌々と輝いたままの照明だろう。ふたりが抱き合うとき、これまでそこは常に柔らかな薄闇の内側だった。
 けれど本気を見せると決めた男は、もはや明るさに怯む隙など与える気はなかった。
「……え? ひゃ、あ」
 間の抜けた声は下へと向かった唇が中心を捕らえたから。羞恥に固くなりかけた身体も直接的刺激にはガードが緩む。舌先で舐めまわして軽く吸い上げれば、理性はまだあるのだろう。しかし制止に伸ばされたらしい手は力なくこちらの髪をかき乱すだけ、そしていくら拒否を示す言葉をあげようともその声が甘く溶けていれば誰が止める気になるだろうか。むしろ煽られるのが正しい青年期のあり方だ。
 誘惑によりいっそう激しく舌を絡ませて、包み込んだその先をきつめに吸いたてる。ぬめりを滑らせるようにしごけば、口の中でうごめく感触。解放は唐突にやってきた。
 嬌声すらなく乱された息を耳に、伏せていた頭をあげる。あっさりとすべてを飲み干したその口端には、残滓がうっすらと残っている。そのままの顔で相手の表情を窺えば、正気を徐々に取り戻したのかただでさえ上気していた頬はなお火照る。
(ああ、なるほど……)
 させたことはなかったが、されたこともなかったのだろう。ただ顔ごとを背けて手で覆う恥ずかしがり様とは裏腹に、脚をしどけなく開いたままであることがどこか笑いを誘う。
 そんな相手の内股にひとつキスを落とすと、彼は今度こそ完全にその身を起こした。そのままベッドの上、膝立ちでバサバサとためらいなく服を脱ぎ捨てていく。シャツを滑り落とし、インナーをもあっさりと投げ出す。これまでとて、抱き合うときにはむろん脱いできた。ただこれほど明るい光のなか身体を晒したのは、はじめてかもしれない。
「……見ろよ、これが俺だ」
 言葉に誘われるよう動かされた瞳の前、上半身は既に露わにされていた。その逞しさは和真も知らぬものではない。怪我の手当てのときに見たこともある。なにより身体を重ね合わせれば気づかないはずがないのだ。けれどしっかりと正面から見据えればまた違う感慨もあるのだろう。
 だがそんな姿を観賞する間を与えることなく、男はその下半身からもすべてを脱ぎ捨てた。
「逃げんな」
 見せつけられれば思わず逃げたくなる。だがそうして背けかけた顔を、指先が捉えた顎だけで固定していた。せめてもの抵抗なのか、潤んだ瞳はかたく閉じられる。とはいえ見せつけられる羞恥と恐怖はわからないでもない。多少の抵抗は慣れない相手であればと自然に思えた。
 けれどここで退いてはいつもと変わらない。
 力なくシーツに置かれている、自分よりもひどくちいさな手を彼はその掌に収めた。乾きかけた汗にすこしばかりひんやりとした感触は、熱に冒されつつある身体に心地よい。その感触を楽しむまま導いた先は、男のなかでいま一番その熱さを増した場所だった。
 驚きにだろうか、一瞬にして振り解こうとされた腕を、再びきつく掴み直す。ドクドクと脈うつ感覚が、押さえつけた手を通してなお響く。興奮していることは、文字どおり和真の手に取れていることだろう。重ねさせたまま強引にその指を動かせば、これまでに感じたことのない愉悦がわき起こる。少しずつ硬度を増し、ぬめりも増していく。決して恥ずかしくないわけではない。
「わかるか? お前が触るとこんなふうになるんだ」
 声も熱に浮かされている。奥歯を噛みしめながら相手を窺えば、ようやくにしてわずかばかりその目が開かれた。こちらの様子と手に取らされたものを交互に見比べるのか、すこしだけその顔が上下に動く。自分の内側に迎え入れたことがあるとは、到底考えられないサイズだろう。
「あ、ね……しょ」
「慣れてないおまえに無理をさせないのも、愛だと思った」
 本気だからこそ控えていた、壊してしまうのは耐えられないから。
 非難かもしれない声は聞きたくない。動かし続けていた指をとりあえず止め、男はしっかりと和真へそのまなざしを向けた。見返してくる瞳は、目尻を紅く染めつつも正気を失っていない。ただこちらの行動を待っている。
「でも遠慮するなと言うんなら ―― 遠慮しない」
 他人を抱くことはあいにくと慣れていた。それでもただ一人の相手を抱きつづけることははじめてなのだ。相手を思いやることを含めて、自らを抑えていたのは事実。好きすぎてこの感情がどこへ向かうのか、いまだに不安が拭いきれない。
 励まされるようにして声はこぼれた。
「本気で ―― いや、全力で見せてやるよ。俺を」
 ドクン、ドクン。耳元で響く自分の心音が、ひどくうるさかった。だが告げたならばそれまでだ。そうだ。もう隠しておくことも難しい、この膨張した想いは。
「しゃべりすぎだな」
 うっすらと苦笑を浮かべた男は、重ねたままだった手を再び滑らせはじめた。
 立たせたままだった膝を折り、自らの感覚だけを追いつめるようにその指は動く。内側に重ねられた手は、さきほどまでと少しだけ違う反応をみせていた。操られるままだったそれは、おぼつかなくも意思をもって動かされている。
(これで、いいのかな……)
 上目遣いの目つきは不安げに問いかけている。正解を誉めるようによりいっそう力を込めれば、その指先は戸惑いを捨てたようだ。
 確かな自信を得て動かせばそこには不思議な感覚が生まれていた。外から促す力を感じ、中からは熱く確かな反応が返される。その不均衡ゆえのバランスは和真にとって馴染みが深かった。身体をすっぽり包み抱かれ、それなのに内側から激しく穿たれるあの感覚にどこか似ているのだ。
 ふわふわとした心地のまま、促しに合わせて手と指を走らせる。一心不乱。そんな集中力を発揮しはじめた彼の耳を、不意に低い吐息が震わせた。包んでいた手が遅れて止まる。
 先端を包み込むようにされた掌の中、数度に分けて熱さが襲った。予想外の量だったそれは、重ねていた男の手をも濡らしていた。
「なめろよ……」
 驚きによる硬直と、放出の余韻。しばらくの停滞はお互いに必要だったのだろう。
 先にその余韻を乗り越えた翔は、湿った感覚もそのままの指で硬くなる頬を撫でていく。頭上から響かされる声は命令並にきつい。だが所詮それは懇願の領域にある。
 本気を見せようとする男の、受け止められたいという欲求だ。
「……、ん……っ」
 目を伏せておずおずと寄せられる唇。紅い舌にドロリとした白い欲望がかき消されていく。けれどその感触と光景が新たな興奮を誘う。舐めさせたいのは指などではない。放出に失っていたはずの硬さは徐々にだが確実に戻ってくる。
 しかし今はそれよりも。衝動のままに体勢を変えて二本の脚を抱え上げる。
「……本気で構わないんだろ?」
 いつだって一瞬で装けられる薄い、けれど確実にある壁。けれど今日だけはそのささやかな隔たりが疎ましい。
 和真もまたその意識を感じ取ったのだろう。驚きに見開かれた目は、しっかりと彼を見返すと静かに伏せられた。そのまま小さく返された頷きに、ほっと思いがけない吐息が漏れる。了承の意を受け翔はとりあえず濡れたままの指を埋めた。
「俺であふれるくらい満たしたいよ、上からも……ここからも」
 動きは緩やかに、だがその指し示す場所だけは確実に示す。猥褻なはずのセリフも、今の彼が告げればただ相手の身体を震わせるばかりのものだ。もちろん快楽の方向性でだ。そうして高まったであろう感覚を、突き上げることで確実な快感へと変化させていく。
「まだ、イクなよ……?」
 優しさや穏やかさなどは、この場にはかけらも存在しなかった。口調とは裏腹なまでの余裕のなさが、和真すら知り得ぬ欲望を暴き立てていく。もちろん決して雑ではない。巧みな指先はいたずらに動けども、むしろ細やかな気遣いに満ちている。だがかすかにあげた声ひとつひとつを拾い上げるそれは、触れられる者の羞恥を誘うものでしかない。肌を撫でまわす手は、淫猥そのもの。流し目ひとつとっても、その瞳に彼自身の欲情が現れていれば、性感を煽るためのものだと如実に感じさせられるばかりだ。
「今日はいっしょに、な?」
 与えられる感覚に震えるばかりの身体を、体勢を整え直した男は熱い息と同時に今度こそ貫いた。シーツに押さえ込んだ手とは裏腹に、両の脚は高く抱え上げ膝を折らせることもなく開かせる。なにひとつ隠せない状況は、だがいっそ羞恥を感じる余裕を与えない。そうして強引に晒しださせるのは心だ。
「怪我するぞ……」
 逃しきれない感覚に和真の掌は無意識に握りしめられる。そこをこじ開けるように男は自らの手を入れ込ませた。これで爪が彼を傷つけることはない。そしてこちらを傷つけることを厭えば、もはや無理に握ることはできない。溜まる熱は徐々に声となってあふれはじめた。
 冷房の効いた室内であれ、夏の閨の熱気は濃い。じんわりと伝う汗は、髪までもじっとりと湿らせていく。互いにその滴を絡ませ合い、おもむく衝動のままに身を揺らす。
 いや、和真は躍らされるばかりか。ぐっと奥を突き上げたかと思えば、浅い箇所ばかりを執拗にこねられる。縋るように爪を立てたときだけ、求める強さを与えられる。何度も繰り返されるうち、穿たれる深さがありありとわかるようになった。形すらも身体が覚え込んで、物寂しさに収縮をくり返すことまで自覚させられた。
 徐々に速く深く。声を止められない位置を突き上げる動きは、狙ったように正確だ。その間も男の手はずっと和真の掌に重ねられている。
「も、もう……!」
 何度達したら果てがあるのだろう。制止のことばなどこれまで告げたことはなかった。けれど返されるのは無言のままに見下ろす瞳。泣いて懇願しても、その律動は止められない。いっそうの激しさを増すばかりだ。
(こわ、れ……るっ)
 飛び散らされる汗は、頬を伝いはじめた涙とまじりあってなお熱かった。四肢を自在に操る腕も熱ければ、埋められた塊もまたその温度を下げることはない。内からも外からも熱量が与えられつづける。迫り上がる快楽はもはや恐怖だ。喉からほとばしる嬌声に艶などとうにない。何のためにあがっている声なのかももはやわからない。意味を成さない音はただ息を継ぐたびに唇を突き、浮かされる熱を相手へと浴びせかける。そうして互いに尽きることない無限ループを巡る。
「許してっ」
 永遠を迫るかのような中、当人の耳すら突いた絶叫にすっと止められた動き。放出の一瞬を目指していた和真の身体は空虚感を訴えた。だが追い上げられつづけ疲弊していればこそ、こんな完全燃焼と言い切れない終息もひとつとして欲してしまう。
「も……、ゆるし、て」
「……まだ、だ」
 否定は無意識に発されたのだろう、和真の顔を窺うこともなく男の瞳はわずかに見開かれた。
 熱に狂ってようやく発された、だがそれこそが本音。自らに教えられた彼は抱きかかえるように体勢を変え、行為でもなおその意志を主張していく。懇願されてもやめられはしないところへ既に到達しているのだ。ギリギリと奥歯を噛みしめ、目元を眇めたままに途切れない律動を激しくする。
 動きを荒くすれば自然と体勢も崩れる。すぐに爪を立て握り込んでしまう掌を押さえつけていた手は、大きく抱え上げた脚の膝裏に当てられた。ぐっとそのまま脚を折らせ、男はより深い侵略を試みる。
「おい、こっちだ」
「……あ?」
 背というよりもはや肩胛骨より上だけで支える身体はあまりに不安定だ。促されるままに和真はようやく解放された腕を背中に廻しかけた。だが力が入らないのか、すぐにそれは滑り落ちる。けれど一度触れてしまえばもう我慢などできない。何度も繰り返し、しがみつきたいと願う想いは爪までもを立てさせた。綺麗についた背筋を覆う皮膚にひっかき傷が何度も刻まれる。
「あ、ごめ……」
「爪立てるんなら、ぎっちり立ててくれ」
 掻きむしられる痛みなど、いまの男の前ではむしろ笑みを誘うものにすぎない。
 だが余裕の素振りもそこまで。くわえ込ませたままの杭は放出の瞬間を待ちわびている。かけられた手を首の裏で交差させて、彼は自らの終わりに向かって今度こそ揺るぎない動きを再開した。
 明るさが保たれていればこそ、見える互いの視界もまた限界を早める。そこに響くのは、二つ折りにほど近い形となった和真の嗄れた喘ぎと、抑えても低く深く漏れている男の吐息。それを肌のぶつかり合う音とベッドの軋み、濡れた音が調和しながら包む。これ以上はないという激しさ。宙に浮かぶような高揚感のなか、ふたりの息が完全に止まった。
「かずま、さ……!」
 浮かされたような声が、最後の空気を震わせる。愛を語るでもなく、ただ一言その名を呼んだ音。だがどんな言葉よりも男の心を顕したそれは、中からも外からも抱く相手を感電させた。

 いつもは優しさに包み込まれていた、その抜き身。
 だからといって、その鋭さは決して錆びつくことはない ―― 。

 射精と同時に止まってしまった時間は、徐々に動き始めた。
 きっかけは和真の息苦しさだ。すっかりと枯れ果てた喉は、酸素を求めた瞬間からくり返し咳を吐き出させる。
「大丈夫か?」
 ゆっくりとなだめるように、その跳ねる背中をおおきな手はさすりあげた。先ほどまでの熱を解き放った身体は、穏やかな暖かさだけを伝えてくる。途切れることのない柔らかな動きは、徐々に肺と心にゆとりを取り戻させた。
「ね……」
「なんだ?」
 ともにベッドにあるのははじめてかもしれない。いくら本気を迫られたからとはいえ、好き放題に蹂躙した自覚のある男は何を切り出されるのかと恐れを抱く。だが困ったように眇められた優しい彼の瞳は、どうやら相手の頬を染めさせるだけのものだったようだ。
 そうして相手は突然に胸元へ顔を埋めてきた。怪訝そうに眉をひそめれば、その雰囲気すらも密着した肌は伝えたのだろう。なおその花はほころんだ。
「おい」
「うれし、かったよ……?」
 聞きたくもないはずなのに無意識が問いかけさせる。おずおずと目線だけをあげた相手から返されたのは、ありがたいがこの状況では意外すぎるものだった。
「も、もちろん、恥ずかしかったけど……すごく」
 この行為が生々しさを感じさせるものだと、和真はこれまで気づいていなかった。
 心のつながりを確信するためにある行為だとは知っていた。だが行為自体から感じ取る、感じ取らされるものもあるのだ。はじめて知ったかもしれない、汗にまみれた相手の肌は、思いがけず気持ちよかった。何一つ隠すことを許されず暴かれていく快楽もまた、愛する者にだから見せたく、また引き出されるものだ。
「でも、さすがにまだ毎日これじゃつきあえないかも……」
 わかればこそこの行為への恥じらいも増す。身を竦めた和真の頭に振らされたのは、ごく軽い拳だった。
「そんなん望まれても、こっちの身がもたねぇよ」
「うう……。ごめんなさい」
 謝罪はいったい何に対してか。むしろ謝るのはこちらだろうと、密かに望んでいないとも言い切れない男はこっそり嘆息する。だが望んでいるのは相手もなのか。そうでなければ謝罪はない。そう解釈するのはずるい考えだろうか。
「だが、思ったよりは待ってやれねぇぞ」
 表情だけはからかうように軽く。試すように吐いた言葉は、だがしかし隠すことをやめた本音だった。
「今回ので、火ぃついちまったからな。いまでもまだ、やりたりねぇくらいにさ」
「……もう一回、する?」
「いや、いい」
 短い拒絶を遠慮だと思ったのだろう。浮かんでいた恥じらいの笑みが曇る。事に慣れた相手ならば確かにこのままつづけるところかもしれない。
「一回で済むと思ってるのか? まだまだだな」
 金魚のように口をぱくぱくとさせる動きはかなりの見物だった。だが今日は本当にもういいのだ。帰れないこともない時間だろうが、冷めてなおくすぶる熱を持てあましながら身を寄せ合って眠るのも悪くない。
『本気、みせてやれよ』
 そっと伏せた目の内側。そう言い放った政人の顔が不意によみがえる。
(だが……多少は、ゆとりも必要だろ?)
 大事なことは愛していること、またそれを余すことなく伝えること。そして何より愛しつづけること。穏やかに包み込みたいと思うのも、いま持っている本当の想いなのだ。
 焦る必要はない、まだ互いにはじめたばかりなのだから。
「だ、だけど! おいらは」
 抱き込んで眠りへに落ちようとする意識を、鎖骨に吹きかかる息はしっかりと引き上げた。瞼を引き上げれば真っ赤な顔が戸惑いも露わに、だが真剣に睨みつけている。笑ってはいけない。そうわかりつつも苦笑は隠せない。
「それに、ちょっとばかり痛くてなぁ」
 ますます言い募ろうと意気込む相手の目の前、ゆっくりとかざした右手の人差し指はひどく腫れあがっていた。紫に変色した色合いは予測の範囲。だが改めて見てみれば相当に不気味だ。突然に示された側にとってはなおさらだろう。
「ど、どうしたの! それって」
「やっちまったかな」
「なにをっ」
「疑われたと思った瞬間。つい殴っちまってたんだよ……」
 部室の扉を。さすがの和真もその告白には唖然とするしかなかったらしい。照れから浮かべた笑いにも、驚きと呆れの色を濃くして見つめてくるばかりだった。顔を背けて逃げたい醜態だ。いっそこのまま目を閉じて寝てしまおうか。
「そ、れって」
 ぽつりと上がった声は瞳を一点だけに据えてのものだ。その先は追うまでもなく変色した指の付け根、そこではときどきつけるリングの石が大きくひび割れていた。
(怒ったんだ……)
 それも指を折るかもしれないほどの力で。
 気づいてしまえばもはや疑う余地はない。嫉妬など嘲るだけかと思っていた。不審など切り捨てられる、そう思わされるくらいに彼は和真にとって絶対の強靱さを誇る存在だった。その彼が憤慨してくれた。その事実だけで十分、気づくべきものだった。
 いや、これほどまでに本気を突きつけられた今だからこそそう思えるのか。
「和真? な、……っぅ」
 一瞬のうちに泣き崩れかけた顔つきに、あわてた男は抱き寄せようと手を伸ばす。だが焦って両手を動かせば腫れ切った指に痛みは走る。
「と、とりあえず、冷やさないとっ」
 漏らした呻きはほんのかすかなものだった。だがそれは和真の理性を引き戻すには余りあったようだ。いや、看護を目指す人間としての心意気だけだろうか。あわてふためいた彼は、脚をひきずりながら洗面台へと向かっていく。
「おやおや、いい眺めだねぇ」
 判断は正しいだろう。本来ならこの怪我を見た瞬間に取るべき行動であることは彼とてわかる。そもそも自分でもっと早く対処すべきことだろう。しかし身体の痛みもだが、服を着ることすら忘れているのか。タオルを取り出し水に浸す姿はすべてが晒されたままだ。
 その後ろ姿に臆面もなくにやけた男は、ベッドサイドに放り出していたジャケットを目線を逸らすことなく引き寄せた。そのままポケットを探ると、取り出したいつものタバコを傷めた指に挟む。独特の金属音はつづけて弾かれた。
「痛ってえなぁ……」
 熱が退きかけた身体は、じわじわと一本の指から痛みを訴える。それをはぐらかすためにも、慣れた苦みを深く吸い込む。せっかくの夜をこれっぱかりの怪我に邪魔されたくはないのだ。
 まだはじめたばかりの恋。愛されていると知ればこそ、どんな瞬間もひとつずつ知り尽くしたい。すべてが最初で、また最後となるはずの経験なのだ。
「あと少しだけ、ゆっくりと。恋人気分を味わさせてくれな?」
 白煙とともに幸せを噛みしめ、彼は戻り来る恋人の姿を微笑みで待ちかまえる。

 彼らは知らないが、時間は既に日付変更線をまたいでいた。




052:『真昼の月』の続編的ストーリー
そして『NO GAME』につづく(笑)




≪≪≪ブラウザ・バック≪≪≪