075:人でなしの恋




 地下街にあるとは思えない噴水前。地元ではメジャーなこのスポットは、きょうも人待ち顔ばかりが群れている。
 うっとおしいばかりの人波も、なぜかここでばかりは気にならない。それは誰もが幸せそうな面もちで、遠く改札方面を眺めているからだろうか。
 普段ならば周囲から羨望のまなざしを受ける長身の翔もまた、いまはただその一部でしかなかった。
(まったく、幸せそうだねぇ……)
 彼の視界は身長のぶんだけ遠くまで見とおしている。だからだろう、いち早く遠くから歩いてくるカップルをその瞳は捉えていた。表情もわからないうちから、楽しげな雰囲気の伝わる姿に、彼もつられるように微笑む。だがその表情は一気に固まった。
「なんでだよ……っ」
 決して他人の前で見ることはないと思いこんでいた。
 そんな表情を、目の前の女性は確かに隣の男へと注いでいた。

「……お揃いで」
 衝撃から数十秒後、辿りついた待ち人に翔は片手を掲げていた。渇いた喉から絞り出した声は、だが意外だと思えるほどしっかりとしていた。
「ひとりだと、また絡まれるかもしれないからさ」
「そりゃ、絡まれはしないかもな」
「翔、どうかしたの?」
 名を呼ぶ唇は薄いピンクに彩られている。何を塗られたのか、その艶めかしさは普段の倍増しだ。
 そうして一瞬だが止まった目つきに反応したのは、傍らの観察眼に長けた男だった。
「今回もいい出来だろ? 思わず俺もクラクラしちゃったよ」
 自分のメイクテクニックにだろうか、それとも。
「女装しているときのこいつは、おまえの友人じゃねぇ」
「は? なに言ってるの?」
 話に乗ろうともしない翔に、批判にも似た声をあげたのは恋人の和真だった。だが親友である結城も怪訝そうな表情を隠せない。いつもならば軽口にむしろ調子を合わせてくるはずの相手だからだ。
 ふたりの不審は当然にして彼にも伝わった。理由もおおかたわかっている。
(おまえが信に足りうる親友であることは認めよう)
 だがそれでも無条件に和真の信頼を得ていることが許せない。
 あの笑みを向けられるのは自分だけであるべきだ。
「さっさと消えろっ」
「ね、ちょっと。翔!」
 威嚇はもはや周囲の目をはばからないものになっている。
 それを気にするのは当人ではない。遅れるようにやってきたふたりばかりだ。
「行くぞ」
「うん……。結城先輩、ありがと」
 ぐっと抱き寄せた肩は馴染んだ感触を伝えてくる。
 切り捨てるよう向けた背中は、だが戸惑いでも呆れでもない視線に見送られていた。


 駅構内から歩くことしばし。クリスマス一色のムードあふれるメインロードを離れれば、常の寂れた街並みは健在だった。立ち並ぶ雑居ビルのひとつ、意外にも昼からの営業を示す看板のライトに男の目的地は決まったようだった。すっと階段をあがりかければ、ひっぱられる服の裾が行動を阻む。
「ココ、入るの? やめない?」
「そのカッコなら、問題ないって」
 冬の寒さを避けるようにセーターの上にショートコートをきっちり着込んだ姿は、彼ですら女性だと見誤った出来映えだ。身長の高い男が相手であれば、なおのことカップルにしか見えないだろう。ミニスカートから伸びる脚には、だがストッキングではなくニーソックス。昔のつきあいからは想像しがたいだろうが、意外に清純派を好んでしまう翔の嗜好をよく理解しているからだろう。
「そ、ういう意味じゃなくって」
「おまえだって俺の願いなんて聞かないだろ?」
 自分だけが聞きいれる必要などない。強気な態度はそれでも赤く染まった頬に屈しそうになる。ぴくりと男のこめかみが反応したのは、そのときだった。
「……一年ちかく前のことだったから、だって?」
「刺激になると思ったし」
 おうむ返しにした声は思いがけず低いものだった。その不機嫌さに気づいているだろうに、和真のことばは止まらない。むしろ正当化しようとでもいうのだろうか。ならばこちらも自らの理を通すまでだ。
「ならもっと刺激的なコトしてやろうっていうんだよ」
 苛立ちに一歩踏み出した足を、センサーは如実に感知したらしい。ついに磨りガラスの自動扉は開いた。
「さて、どうする?」
 ざかざかと踏み進めば、店内は意外なにぎわいを見せていた。昨今の開放的な風潮はこんなところでも顕著なのだろう。あわてて追いかけてきた和真の目もいささか驚きに見開かれたようだ。
 むしろそれは並んだ商品に対してだろうか。一般人も手にしやすく女性も警戒しないようにとパステルやクリアカラーでつくったところで、所詮は淫具。かわいらしく装うほどに、肉欲へのグロテスクさが露呈する。その奇妙さがいっそい卑猥なのだろう。
 内心でため息をつきつつ目線を巡らせれば、すっとコートの袖が引かれた。
「どれでもいいぞ? クリスマスプレゼント代わりだ」
 好きに選べ。怯えたような顔つきを曲解してにっこりと笑いかけてやる。声を出さないように努めれば、否定は難しいはずだ。案の定相手はますます困った表情を向けてきた。
「仕方ないな。じゃあ、このあたりから選べよ」
 しかしそうして示した位置は、ますます羞恥を煽るための一角でしかなかった。周りの視線も突然にして好奇に満ちる。
 恥ずかしさに身を竦めるいまの和真は、本来使うべきではない場所を新たに開発される、そのために連れてこられた女性にしか見えないだろう。
「どれでもいいんだが……選べないなら、手当たり次第買うか?」
 人間、本気で怒りが発動すると繕うまでもないらしい。内容はともかくとして、傍目にはきっと声音も表情も穏やかに映ることだろう。この静けさを怖いと感じるのは、対象とされた相手だけだ。
「これなんかどうだ?」
「そんなの……」
「わざわざオモチャ買うんだぜ。ああ、こっちでもいいか」
 パッケージから出されているのは見本なのだろう。電池もはいっているのか、スイッチに触れれば不自然な回転と振動で動きはじめる。
「俺のはさすがにこんなふうに動かないからな。それともやっぱりあっちの」
 そうして指し示した物は驚異的なサイズを誇る張り型だった。普段受け入れさせている自分よりもはるかに大きい。このコーナーにあるべきものではないだろう。
(M調教ってことか? まあ普通の女相手ならそうかもな)
 だがいまの相手にとって他の場所の代物ほど、むしろ恐怖を感じさせるだろう。
 和真には抱かれるための場所はひとつしかない。だから使える道具も限られてくる。いかに抱かれることで普段から馴らされていようが、玩具の硬さは肉とは異なるのだ。
「じゃあもう一回訊くぞ。どれがほしい?」
 喉を鳴らしながら嗤えば、うっすらと桜色の乗せられた爪がひとつを指さした。シリコンかゴムか、そんな珠がつなげられただけの、面白みに欠ける安っぽい品だ。
 だが選ばせただけで十分だろう。ファンデーション越しにも染まった頬と今にも涙をこぼしそうな瞳は、人目になどさらしたくないほど愛おしい。ただ今日に限っては、周りの好奇のまなざしも和真を辱めると思えば心地よい。
 背筋をまっすぐに伸ばしたまま、男は袖を掴む相手を引きつれたままレジへと向かっていった。

「……満足した?」
「んなわけねーだろ」
 自動扉の外へ出ながらの声は、寒風に吹き消されそうなものだった。
 だが買うだけのことに何の意味があるというのか。それでは刺激としても価値が低い。
「青だ、行くぞ」
「え? あ」
 あわてて付き従う姿には目もくれず、横断歩道を渡った先。そこに最終目的地はあった。
「ここ、入るつもり……?」
「いいや? ちょっと借りるだけさ、この駐車場をさ」
 並ぶ車はプレートが隠れるよう板が立てかけられている。べらべらとビニルのカーテンが垂れた内側は、既に秘密めいた空気を漂わせていた。
「借りるって」
「黙ってろ」
 非難などもう聞き飽きた。力で抵抗するわけでもないのだ、それほど嫌がってもないのだろう。
「総レースってか? あいつもすげぇセンスしてるもんだ」
 するりとスカートのなかへ滑らせた手は、不思議な感触を伝えてきていた。びくりと揺れた肩はとりあえず無視して、そのままその布地をずらしていく。さきほどの命令を聞き入れているのか、唇はかたく結ばれたまま声もあげない。
(むしろ期待でもしてんじゃねぇか?)
 ほのかに湿った質感に、都合の良い解釈がふと頭を過ぎる。
 だが冷静になるまでもなく理由は心のどこかで悟っていた。抵抗され傷でも残されれば苦しむのはこちら。気づいていればこそ和真はおとなしく身を任せているのだ。
 その優しさを逆手に取ることの愚かさは、だがもはやどうしようもない。こんな暴力を振るう自分は与えられる立場にないというのにだ。
「さっさと終わらせるぞ」
 どこかにカメラがあることだろうが、たぶん入室前の悪ふざけだと短時間なら見逃されるだろう。咎められる前にと、淡々と動く指と掌は器用にも狙った場所を押し開く。もはやここまでくれば意図は読めただろう。受け取った袋にはサービスなのかローションまで入っている。びくびくと跳ねた後うずくまった和真に、無情な声はたやすく向けられた。
「さて、帰るか」
「こ、これ……は」
「せっかくのプレゼントだ、すぐ欲しかっただろ?」
 眇めた瞳、ニィっと吊り上げた唇。いったいどれほど凶悪に映っていることだろう。
 選ばせたばかりの贈り物はこの手でもって埋め込んだ。すべきことはこれで終わり、もうこの場所に用はない。しかしそれでもこれはまだ準備段階だ。
「送ってやるよ」
「え……?」
 見下ろせば涙の浮かんだ瞳は合わせられることなく彷徨う。まさかここまで来てそのまま帰るとは思っていなかったのだろう。だがたいした愛撫も与えずに小袋の中身だけで飲み込ませたものは、数pのボールを糸でつないだだけの代物。残りの紐が垂れてはいるが動くにも支障はないはずだ、少なくともいまは。
「その格好のおまえをな、ひとり歩かせる気はないんだよ」
 逃がすものか。引き起こしがてらぐっと腕を捕らえ、隣を歩きだす。
 こんな欲情した顔をしていれば、どこで誰に横から攫われるかなどわかったものではない。スリルはふたりの間だけにあればいい。
 乗り込んだ電車の中、相手からは片時も視線を逸らすことなく、それでもあたりに注意だけは配りつづける。むしろ威嚇にも思われかねない姿に不審の目は浴びせかけられた。だがそんな視線はむしろ好都合だった。
「なんだ、物足りないのか?」
 傍らでかたかたと震える和真は、体格的にすっぽりと男の影に収まっていた。他人の視線はよほど覗き込まない限りシャットアウト。電車特有のカタンカタンという音の中、漏れる吐息にちいさく嗤えるのは翔だけだった。
(予想どおりだな……)
 電動式のものではない。単純なつくりでじわじわと追いつめるそれは、かえって気づいたときには抜き差しならない状況へと導いていく。それだけでは決して我慢できない、より強い刺激を求めさせそのプライドごとひれ伏せさせるのだ。遊び心の足りないものを選んだ和真への、これはささやかな報復だった。
 最寄り駅からも腕を取ったまま並び歩く。傍目には具合の悪い彼女を支える男の姿にしか映らないだろう。だがその実状は連行だ。どこか途中で抜くこともさせずに、彼は相手の玄関先まで言葉どおり送り届けていた。
「え、あ……あの」
 あがっていかないのか。すっと背をむけたこちらに問うつもりだろう言葉は、かすかな声にすらなっていなかった。これまでじわじわと刺激されつづけた身体は、既に彼の意志どおりに動かないらしい。ほしいのはもっと強い刺激、心とは裏腹に身体の欲求は素直だった。
 だがここで応えてやるわけにはいかない。約束をあっさりと破られ傷ついているのだ、自分は。
 なぜ彼の要求だけを叶えなければならないのか。
「忘れてた。抜いてやるよ」
 そっと差し入れた手は、垂れていたリングを過たずしてつかみ取る。甘く鋭い絶叫に耳を捧げたまま、戻り来るうちに体温を吸収した玩具を引きずり出した。
「あ、あ……」
 床の上に濡れそぼったそれを放り出す。その隣にぺたりとつかれた尻餅、膝もしどけなく開いていれば局部ははっきり見えた。薄っぺらな下着だ、膨張してはみだしていた先はスカートの内側を白くべったりと汚している。
「さっさと部屋入らないと、誰か来るかもよ?」
 いまの声、かなり響いただろうからな。そう言い置いてくるりと背を向ける。
 ゆっくりとエレベーターまでの道を進む途中、扉の閉じられる音に安堵した自分を知る。あとはもう振り返ることなく逃げるだけだ。
(逃げる? なにからだ)
 あの怒りは正当か。疑問にすらならず答えは生まれる。
 犯した罪は消えない。それでも駆け出す脚は止められなかった。


「最悪だな……」
 まさかクリスマス・イブに家でごろごろ寝ることになるとは思わなかった。
 二日酔いにほど近く目を覚ませば、耳元で鳴っていたのは電話だった。携帯ならば無視もできる、だがここは自宅。家族宛ての可能性もあればさすがに放置もできない。それ以前に数日前急に戻ってきた息子、つまり彼自身への電話かもしれないのだ。
『……切るなよ?』
 無言のまま取り上げた受話器の先、響いてきた声に思わず指は回線を切りかけた。先回りした言葉は、声以上に相手が結城であることを示している。
『そのまま聞いてろ。和真クンがな、あの服の代金弁償しにきたよ』
 早口の加減は切られることをいまだ恐れているからだろう。だが男は命じられたとおり黙って聞いている。しばらくは一方的に声は流れつづけた。
『おまえ、あの日なにした?』
 その問いのあと、ようやくにして沈黙は訪れた。
『黙りってか。だいたい予想はつくけどねぇ』
「……答えるギリはないな。恋人同士のすることだろ」
『内容よりも状況の話さ。その理由当ててやろうか?』
 間延びさせた調子がひどく癇に障った。だがひねりだした声は、涸れた喉をひりつくように痛ませる。あげくしたり顔まで目の裏に浮かべば、苛立ちは沸点に達した。
『おまえ、要するにただ……』
「うるさいっ! ああ、どうせ嫉妬だよ!」
 自らの叫びは相手の声を阻む。衝動のままに叩き下ろした受話器も激しい音を立てた。一軒家ゆえに許される絶叫と怒りに切れた息は、だが整う前に階上へと駆け出した足に乱される。
 自室でつづけて鳴りはじめた携帯は、今度こそ誰からの着信かも確認せずに電源ごと切り捨てた。苛立ちはだがそれにおさまらず、八つ当たりのようにその機械を床へ放り出させる。カラカラと乾いた音は部屋にちいさく響いた。
「知ってるさ! どうせただの独占欲だっ」
 悔しまぎれに叫びつつベッドへと頭からダイブする。硬めのマットレスはそこそこの衝撃を残しつつ身体を受けとめた。だが心は受けとめられない。
 指摘などされなくとも感情の名前などわかりきっていた。
 ほかの人間が、恋愛対象として彼を見るかもしれない。それだけで不安が渦巻いてならない。彼が誰かを恋愛対象としてみるなど、想像の欠片だけで胸が裂かれる。
 だというのに、自分はいったい彼に何をしてしまったのか。
「重症だな……」
 意識を保てば何度でも襲い来る苦しみ。自業自得のものとはいえ、弱った心は受けるべきその罪からさえ逃れたがる。目を閉じればすぐに浅い眠りは訪れていた。
 だがそんなささいな安らぎさえ許さないのか。けたたましく鳴るベルで彼は再び現実を突きつけられていた。
「うるせぇな」
 渇いた喉では、非難の言葉も覇気がない。今度の音は玄関チャイムのようだ、誰もまだ帰宅していないのだろうか。居留守を使うのも面倒だと階段を下り、二重のロックを外す。
「はい、どなた……っ!」
 仕方なく開けたはずのドアの外、予想外の人物がうつむきがちに立っていた。
 いや、本来ならば当然のように今日をともに過ごしていた相手か。だがいまや逢うとすら思っていなければ、かける言葉ひとつ思いつかない。
「あ、あの……、電話通じなかったから」
「 ―― とにかく、あがれ」
 戸惑いながらもあげられた顔にため息をひとつつくと、翔は玄関のドアをおおきく開いた。あげたのは一度や二度のことでもない。そのまま振り返ることなくリビングへ向かえば、おどおどとした気配は後ろからついてきた。
 だがそうして部屋まで来てしまうと次は何をすればよいのか。誘われた和真もだが、落ち着いてみえるだろう男も内心ひどく焦っていた。それでも顔を見ればまずすべきことはわかる。キッチンカウンターに回り込んだ彼は、濡らしてきたタオルを無言で突きつけた。
「目だよ。黙って冷やしてろ」
 伸ばされない手に焦れたのか、促しの声はどうにも愛想がなかった。意図を量ろうというのか、相手は手と顔をきょときょと見比べてくる。ゆっくりとながら受け取られたタオルは、静かに目元へと当てられていった。
「……また泣いてたら、意味ねぇだろうが」
 ぶっきらぼうな調子はどうにも崩しがたい。しかし和真にそんな強がりは無意味だ、きっと困惑は既に伝わっている。中途半端にしか示せない想いはあまりに歯がゆい。
 結局いつだって足りない表現力。だからってこのまま泣かせていられるのか。
「さっき、あいつから電話もらったよ」
「あいつ……?」
「すぐ帰るから留守番してろ、俺の部屋で」
「帰って、くる?」
「……ここは俺の家だぞ」
 思いがけない問いかけに、ほんの少しだけ頬が緩む。
 もう泣かないでほしい。それでもタオルの隙間から流れ出すしずくは、隠れようがなかった。

 そうして飛び出した街に、目的こそあれ費やす時間はない。できる限り急いで戻り来れば、自室の机前で彼は寝息を立てていた。疲れが出たのか、うたた寝をしているようだ。
 起こすのも忍びない。ほんの少し猶予をもらった気分でその寝顔を眺める。だがその頬に涙の痕を見いだせばすぐに消し飛ぶ程度のものだ。駆られた焦燥に腕はちいさな肩を揺さぶった。
「……な、に?」
「着てみろ」
 うっすらと開いた目元に紙袋をかざす。そのことばから察するに中身は服だと推察したのだろう、和真はおずおずとそれを開いた。
「これ……、スカート?」
 覗き込んだ瞳は大きく見開かれる。ばさばさとひっくり返された袋からは、セーターやジャケット、柄入りタイツまでが落ちてくる。つまりは完全な外出着が一式だ、ただし女性用のもので。
「乱暴なやつだな、割れたらどうすんだよ」
 そうして拾いあげたのは、少なくともメイク道具であることは間違いようのないケースだ。手にすっぽりと収まるコンパクトをいったん開いた翔は、中を一瞥するとすぐに蓋を閉じた。
「どうして? 女装……、イヤなんでしょ?」
「ちがう」
 苦り切った表情に朱が差しただろうことは自覚した。だが相手は一連の状況を理解できないようだ。
「ほかのヤツをアテにしないでくれ。メイクだってコーディネートだって、全部俺がしてやる」
 諦めたように吐き出したのは嫉妬だった。
 醜い感情だが最悪な形で既に晒してしまったもの。どうせならば最初から素直に吐露していればよかった。何度同じ失敗をくり返せば理解できるのだろうか。
「俺のために、着てくれるんだろ?」
「だ、だって……」
「やっぱりもう嫌になったか?」
 俺を。あえて告げない言葉尻は、けれど不要だったらしい。
「お、おい!」
 あわてるしかできないのは、いきなり和真が抱きついてきたからだ。衝突に似たいきおい、そして足元には散乱する服、おかげで不安定にしか受けとめられなかった。
「ううん……。だってショックだったのは、全然喜んでくれなかったことだから」
「ほら。もう泣くな」
 ぎりぎり間に合ったという充足感が心に満ちる。とはいえ微笑みながらもはらはらと流れる涙は、痛々しくも綺麗すぎた。だが今の涙ならしばらくは見ないふりもできそうだ。悲しみと切なさだけではない何かがそこにはある。
 けれども和真に似合うのは野の花のような笑み、それを見たいのならば。
「顔洗ってこい。メシくらい、いっしょに喰いにいこう?」

 最悪だったイブをやり直すことはできない。
 けれどもふたりの時間はまだ終わったわけじゃないから ―― 。





037: スカート(R-?) ≪≪  ≫≫ 081: ハイヒール


あとはもうバカップル爆走っきゃないね。




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