No Number: 忘れていた……、


 最終学年になったというのに、むしろやたらとコキ使われるようになった気がする。
 秋祭も終わり爽やかな空気が似つかわしくなった10月の終わり、翔は部室で後輩のうちの誰かが作るというコピー本の製本を手伝わされていた。
「よっと……。まあこんなもんかな」
 ザクリと化粧立ちをして、一冊目を満足げに見やる。その瞬間ガタンと背後で立てられた音は、衝立が動いたときのものだ。
 耳慣れたそれは常の者の訪れを意味している。
「Trick or Treat ?」
 だが相手が決まっているのならば油断は大敵だった。かけられた声は低く、こどもとはかけ離れた悪友のものだった。
「……んなもん、持ってねえよ」
「じゃあいたずら決定だな」
 無視したところで状況は変わらないだろう。不機嫌に答えれば、返されたのは予想どおり嬉々とした声だ。だいたい目的がいたずらであったことは明白で、多少の菓子を出したところで逃れられはしなかっただろう。
 顔をぎっとしかめながら、翔は定規をあてがったナイフを滑らせる。もちろん今度こそ隙を与えないように耳と神経は背後の相手に向けられている。そんな気配はありありと察していながら、そのせいでなおにこやかな笑みを浮かべた相手はますその一歩を進めた。
「和真クーン?」
 だがすぐにもいたずらを開始するかと思えば、その呼びかけは異なる相手に向けてのものだった。
 会話はもちろん和真の耳にも入っていただろう。だがしょせんは狸と狐の化かし合いだ、関わらないに限る。そうして選んだ我関せずという態度は、もはや無意味な行動だった。
「……なんです?」
 物事がはじまる前から疲れた顔を浮かべ、彼はそっとモニタに注いでいた視線をあげた。
「貸してあげるよ、これ」
「これって? あ」
「見たかったんでしょ?」
 怯えつつ手を伸ばした和真の顔が、一気にほころぶ。その表情ににんまりと笑った結城は即座に背後を窺った。
「……っ、待て!」
「やだ! ありがと、結城先輩っ」
 ぱたぱたと立ち上がって、翔の手が伸びきる前に逃げ切る。運悪くも間にひとり邪魔者がいたからだ。舌打ちしながら視線だけで追えば、その腕のなかにぐっと抱き込まれたのは、見覚えのある冊子。
『原稿を落としたヤツには見せてやらない』
 そう言いおいた学祭の部誌だ。写真部にも多少は置いてあれど、個人分など余分があっただろうか。
 だがいま追及すべきはそこではない。
「おい、てめぇ……っ」
 剣呑な色の目を向けた翔の手の内、カチカチと音を立てるのは備品のカッターだ。苛立ち紛れに弄んでいるのだろう、その間隔は徐々に速くなる。
「うるさいな、おまえが悪いの。持ってなかったんだから」
「こんなトコに菓子なんか持ってきてるワケねぇだろうがっ!」
「どこでもちゃんと用心してなきゃねー」
 ますます調子づく勝者は、けれどすっかりと忘れていた。自分がいったい誰を相手にしているのか。
「……なるほど?」
 じゃあ。ちいさな呟きは思いがけず間近で発されていた。
「Trick or Treat ?」
 悪意の秘められた顔は、まぎれもなく悪魔。その証拠は、先ほどから握ったままのカッターナイフ。突きつけられた男からは刃先の確認は出来ないだろうが、首筋へ向けて伸ばされたその煌めきまでもが似つかわしい。
「Trickじゃあ済まないだろうが……」
「なら、なんか出せるか?」
 冷や汗がでてきそうだ。さすがに大学内でもあるし、人目もある。このままザクリということはないだろう。ただしたとえそうであろうがこの相手だ。悪友同士なればこそ認識されるものが、結城の鼓動を速めていく。
「……あ」
 切迫して彷徨わせた目線は、ふと捉えた姿に快哉を叫ぶ。むしろ神への祈りか。
「さて、辞世の句でも詠んでみるか?」
「まさか」
 ニヤリと笑う顔に、冷や汗をかきつつもにんまり返す。ありそうでない余裕を繕うことから、勝機は生まれるのだ。
 そうして翔の目元が不審そうに眇められたのが、その証。
「いたずら悪魔に、プレゼントっ!」
「え? ぎゃあっ!」
 ナイフを畏れることなくその身体を翻した結城は、その一言とともに背後で冊子を眺め耽っていた人間を突き飛ばした。
「この世で一番あまいものだろっ。それじゃな!」
「待ちやがれっ」
 追いかけるにも、新たに倒れかかってきた和真を支えるのに手一杯だ。ひらりと身をかわした敵は、そのまま衝立の陰から恐るべきいきおいで消えていった。
「……ったく、こいつに刺さったらどうしてくれんだよ」
 卑怯者。その背を見送り、ナイフはようやく机へと下ろされた。
「大丈夫だな? ケガは」
「ううん、ない。ありがとう……」
 片手で恋人を支えたままの彼の頭には、もはや相手の手にある部誌のことは消えていた。
 それはたぶんその腕のなかに収まっている者も同様だろう。おもわず頬を染めて、目を伏せる。
 普通ならば完全にキスへのカウントダウン。
「あんたたちって、傍目を気にしないのね……」
 だがここはクラブハウス。深々と吐かれたため息とともに、彼らはばっとその身を離した。
 声の主は同じく部屋にいた部長だ。気まずげに彷徨わせた視線は、パソコンを睨む彼女の目とは重ならなかった。

 とりあえず、安堵の吐息をひとつ。
 そうして羞恥に赤くなっていた和真が、また本の内容をみてよりその色を濃くしたのは、もう少しあとの話。



ライブ写真の謎 ≪≪≪   ≫≫≫ color > Sepia(哮×部長)


ということで、color > Sepia につづく。
 こっから5年後くらいの話です、ええ。




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