ホイリゲ
(ウィーン郊外)


 「ホイリゲ」とは、ウィーンでは本来ブドウを収穫して1年以内の新酒という意味と、それを提供する農家の居酒屋という意味があります。
ワインに合う多彩なおつまみや、お客の気軽なふるまいのなかに、土地のにおいや地元の人たちの暮らしぶりが感じ取れます。

 

  グリンツィング 1995.5.5

  

 19:45 ウィーン大学前のショッテントーア駅で郊外行きの市電38番に乗り換え、25分で終点のグリンツィングに着いた。ここは村全体がホイリゲといわれるほどで、一つの通りの両側に並んでいる。まず「マリー」という名の店に入ってみた。団体客が多かったが個人客もいる。おつまみとして、カウンターでローストビーフ、ポテト、チーズ入り野菜サラダをキャッシュで買って自分で席まで運ぶ。ワインは席で注文して後払いするのが昔からのホイリゲ方式だ。ホイリゲは把手のついたジョッキのようなグラスに入っている。1杯 1/4l(1.4合)。コクはないがフレッシュ&フルーティで、思ったより美味しい。隣のテーブルの赤ワインを見て注文しようかと迷っていたら、そのおばさんがウエートレスを呼んでくれた。赤も軽く、飲みやすい。そのうち、おばさんたちの団体が腕を組みながら、アコーデオンの伴奏に合わせて体を揺すりながら歌い出した。この光景はドイツの酒場で見たことがあり、ドイツの観光団かもしれない。通路を挟んでも手を取り合っているので、通り過ぎる人たちは、そっと腕をほどいて行く。21時頃、私たちも退散する。中庭からは英国国歌も流れて国際的だ。

 外はすっかり暗くなり、本来マリア・テレジア・イエロー色をしたホイリゲの外壁がライトアップされてオレンジ色が際だち、家並みがきれいだ。雪のある頃の雰囲気は素晴らしいだろうと想像する。営業中であることを示す緑の枝が吊されている。今度は妻の薦めるホイリゲへ入る。この店の名は「ラインプレヒト」で、300年の歴史をもつ僧院を改造した指定記念家屋だという。ワインの圧搾機や栓抜きのコレクション、ワインの壺などが展示され、由緒ありげだ。時間がやや遅いためか、客はまばらだ。赤白ワインと、おつまみとしてポークスライス、血のソーセージ、ポテトの肉炒めを選んだが、ワインもおつまみも前の店より美味しい。一見して客筋も良い。近くのテーブルで、アコーデオンに合わせて高齢の女性が『すみれの花咲く頃』やクラシックの歌曲を正しい発声法で歌っていたので、ビデオカメラを向けた。女性はカメラを意識しつつ力強いアルトの声で、ビブラートを利かせて見事に歌い上げた。やがて、女性に向かい合った高齢の男性が立ち上がり、『帰れソレントへ』をこれまた正確に味わい深く歌った。プロの音楽家でないとしたら、驚くべき高い水準だ。そのうち『ラデツキー行進曲』が流れ、今度は女性の隣にいた高齢の男性が、挙手の敬礼をしたままで曲に合わせて室内を一巡しながら私たちに近づいてきて、無言で妻に手を差し延べて踊りに誘った。妻は私に目で許しを請いながらついて行き、ステップを踏んだ。踊り終わるとその男性は私の席まで妻をエスコートして返却した。この男性は、たぶん歌姫のご主人で、自分の奥さんを撮影してくれたことへのお返しの気持ちから誘ったのではなかろうか。気さくで洗練されたマナー、ウィーンの日常的な音楽水準の高さ……、ワイン以外の収穫も多く、22:45 気分よく店を出た。  

 市電の停留所は、折り返しの電車を待つ人で騒がしい。街灯に寄り添う男、片足のズボンの裾をまくりあげる中年の男、声高に話の続きをするグループ、片隅で1本の赤いバラを手にして静かに語り合うカップルと、それぞれのやり方で余韻を楽しんでいる。22:55発、電車の中でも2組の若い男女が向かい合い、女性はともに男性の膝の上ではしゃいでいて、目のやり場に困る。

 

  ジーベリング 1995.5.6

  

 16時頃、近くのシュテファン・プラッツ駅から地下鉄U1に乗り、シュベーデン・プラッツ駅でU4に乗り換えた。途中から地上へ出る。地下鉄の車両から降りるとき自動ではなく、頑丈な取手のレバーを力強く押すとドアーが開く。犬を連れて乗っていた女性が、そのようにして降りていった。当地の犬は本当にしつけがよく、近くにいても恐怖心がわかないから、公共の場で人並みの扱いを受けるのも当然と思えてくる。窓の外は今までとは違い、郊外の景色に変わっている。終点のハイリゲンシュタット駅でバスに乗り換えた。16:40 発、観光客らしい乗客は見られない。もちろん他に日本人もいない。ふと私たちが極東の国から団体旅行で来ている途中であることを忘れる。20分で終点ジーベリングに着いた。ここはウィーンの森に近いが、森は見えない。ウィーンの森は東京都の 2/3もの広さがあり市民の憩いの場となっているが、最近、自動車の排気ガスの影響で、樹木が傷んできているという。それもあってオーストリアは緑の党や環境団体が強く、自国の原発を解体したり、チェコやスロバキアの原発建設に政府が抗議したり、環境問題に厳しく対応しているのだ。ジーベリングは小さな村だが、一戸建ての造りの良い屋敷がある。庭先には濃い紫と薄い紫のライラックの花がいっぱい咲いて風に揺れていた。                

 17:30 めざすホイリゲ「ニキッシュ」へ入る。陽が高いので屋外のテーブルにし、ビデオの撮影上、隅に座った。テーブル、椅子は素朴な木製だ。まず、おつまみを物色する。種類が多い。温かいものはないが、中欧では昼食がメイン、夕食はカルト・エッセン(冷たい食事)で軽く済ませる習慣なので、当然のことだ。ローストビーフ1枚、切り置きせず、注文に応じてその場で切ってくれる。効率を重視し、味を無視する国とは違う。ほかには黒い血のソーセージ、小さい球のチーズ、プリンのような形の真っ白い生チーズの上にアサツキの刻みを載せたもの、木の葉で巻いたもの、ポテト・ハム・赤タマネギのサラダ。さらに、酢漬で、赤や緑のパプリカ3種、オリーブ、わずか1個ずつでも私が迷いながら注文するのに、何らせかせることもせず、客が決めるまで待って穏やかに応対してくれる。日本ならモタモタしていると、尋ねもしないのにあれこれと勧めて決断を迫ってくることがよくある。大きなお盆で席まで運んだ。

 ワインはホイリゲの白と赤で乾杯をする。「やっぱり、おいしいわ」と妻がホイリゲの白をたたえた。妻がガイドブックでこのホイリゲを見つけたこともあるが、冷静に味わってみて昨日よりフルーティでうまい。おつまみでは生チーズが本場の味だ。酢漬も酸味が強すぎず、嫌味がなく、ホイリゲの酸味とうまく調和する。パプリカの辛味もいい。庭の樹の若葉が、夕方の柔らかい光に透けるように輝いている。空気が乾いてさわやかだ。客は程よく入っているが、静かだ。おばさん組、夫婦、家族づれが多く、男性だけのグループは見当たらない。数カップルでの集いもあり、主催者が来客のたびに立ち上がり、頬にキスをして迎えている。スズランの花籠を持った若者が席を巡回している。花好きの人たちだからよく売れる。席を巡回していた店の大きな犬がきて、妻の膝に顎をのせて離れない。イヌ年の親近感からか。妻は話しかけているが、日本語では通じるはずがない。金髪のかわいい姉妹や、若夫婦と同席の女の子など子供の姿もよく見られ、日本の居酒屋のイメージとはだいぶ違う。この村一番の店だけあり、全体に客筋が良さそうだ。

 今度は妻がおつまみを買う。ホワイトアスパラ、ソフトサラミ、赤カブ酢漬などがテーブルに並んだ。私もロースト牛舌、酢漬として小タマネギ・キュウリ・ベビーコーン・大根・ウズラ豆、マッシュポテトのようなものを追加した。ワインはアルト(1年以上前のもの)とリースリングにして再び乾杯をする。花見にかぎらず、野外の食事は自然と一体になれたようで、大好きだ。午前中の慌ただしい散策とくらべると、時間が止まったような感じがする。

 おつまみでは、ホワイトアスパラがヒットだ。缶詰のとろけるような味しか知らなかったが、色白で太く香りと歯応えがあって上品だ。小皿で1皿28シリング(250円)。今朝の市場をはじめ、これまで欧州各地の市場で見るたびに、一度味わってみたいとあこがれていたものだけに感動が深い。ホワイトアスパラは、かつてはお金持ちの人しか口にできない高級品で、収穫は4月末から6月21日の聖ヨハネの日までに限られているという(『ウィーン音楽の四季』68ページ)。愛の力を高める効果もあるそうだ。私の選んだロースト牛舌も珍しく、しかも柔らかで風味があり好評だった。酢漬も通算9種、店にあるほとんどの種類を味わったが、外れはない。さすがに冬に強い国だ。外れたのは「マッシュポテトのようなもの」で、実はラードのようだった。何につけて食べるのだろうか。そういえば陳列の端の方にあり、注文したとき店員のおばさんがけげんそうな顔をしていた。ワインは、いずれもホイリゲよりコクがある。 

 薄日が射しているのに遠くで雷鳴が聞こえる。やがてパラパラと雨粒が落ちてきた。皿などをお盆にのせて屋内へ移る。このような場合の対応に不慣れな私たちは席が確保できず、こじんまりとした別館に移った。そのうち小雨が上がり庭へ戻った。客はまばらになり、薄暗さのなかにオレンジ色の街灯が輝き、月も出た。先程までとは違って、おとなのムードだ。ホイリゲを追加して、空が真っ暗になるまで回りの景色の変化を楽しみながら飲み直す。結局4時間も飲みつづけることになった。

 帰るときに民芸調の店内を一通りビデオ撮影した。撮影に気付くと手を振ったり、グラスを挙げて応えてくれる。一人の男性から「コーリア(韓国)?」と声をかけられた。この店でアジア系の人は見かけなかったので、珍しかったのだろう。弁明のため次の会話となった。「日本から」「トーキョー?」「名古屋。東京の約400km西。日本第三の都市」「グレイト?」「ヤー(はい)。この店は気に入った」「グレイト?」「ヤー」。名古屋はトヨタの近くと言うべきだったか。いずれにしても当地では、経済力だけで評価されることはあるまい。

 壁にワインの料金表が掲げてあった。ホイリゲ、アルト、ロート(赤)、スペシャル、シュトゥルム(発酵途中)、モスト(発酵前)、いずれも1/4 lで24シリング(220円)。フルボトルは110シリング(1000円)、グラス1杯で15シリング(140円)、ソーダ割りは10シリング(90円)となっている。シュトゥルムとモストは、ホイリゲができる11月の前に出るもので、今はないのかもしれない。21:50 ジーベリング発。

 

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